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文化史私論/中世ヨーロッパでの裁判/右手を切れ!

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13~14世紀頃の中世ヨーロッパでの裁判、と聞くと、皆さんはどんなイメージを持たれるだろうか?
異端審問? 魔女狩り? 火あぶり? 拷問?
しかしここでは、いってしまえば普通の殺人事件、(普通といっていいのか?) 魔女や、呪いなどではなく、いわゆる物盗りや怨恨など現代でも頻繁に起こる事件についての裁判がどのように行われていたかを紹介する。

阿部謹也 著 『中世賎民の宇宙 - ヨーロッパ原点への旅』(ちくま学芸文庫 2007年)

この本から裁判に関する章を私なりに要約していく。
詳しくはこの著書を読んでいただくとして、簡単に説明すると、この時代にも様々な犯罪が起こり、犯人が捕まる。そして裁判が開かれる。

そして、ここにひとつの法律がある。
「裁判には、原告、被告、両方が出廷しなければならない」

よく見て欲しい。「原告側」「被告側」ではない。「原告=被害者本人」「被告=加害者本人」である。起こった犯罪が窃盗、強盗、傷害などであればそれはわかる。被害者が包帯だらけになっても、松葉杖をついてでも法廷には来ることが出来る。しかし、殺人事件となると一体どうなってしまうのか?

「裁判には、原告、被告、両方が出廷しなければならない」

来るのだ。被害者はそれでも裁判に来るのだ。たとえ死んでいても。つまり、棺に入れられて死体、という形で出廷することになる。しかしどうだろう? 犯人がすぐに捕まればよい。ところが犯人が何日も逃げまわったら、一体どうなる?

もうひとつの法律がある。
「裁判が終了するまで、被害者の遺体を許可なく埋葬してはならない」なぜなら「裁判には、原告、被告、両方が出廷しなければならない」からだ。

犯人が捕まらなければ、当然、裁判も行われない。死体はどんどん腐っていってしまう。どうするのだ?
大丈夫。被害者の死体から内臓を抜き取って、吊るして乾燥させておけばよい。こうしておけば憎き犯人がどこへ逃げようとも地の果てまで追っていけるのだ。だが、裁判のために被害者の死体を乾燥させる、というこの方法はそれなりに費用がかかる。高い金を払ってこれなのか? という気もするが。
しかし、犯罪、というものは貧乏人にも容赦はしない。お金のない人たちが殺されてしまったら、そして犯人が捕まるのに時間がかかってしまったら。そうしたら裁判は開かれないのか? 貧乏人は泣き寝入りしろとでもいうのか。
これも大丈夫。無料のコースが用意されている。被害者の死体を空のワイン樽に入れて裁判所に運ぶ。そこで裁判長が中を確認し、そこに石灰や砂を入れて蓋をする。その後犯人が捕まった時には、被害者はようやくこのワイン樽の形で裁判に出廷することが出来る。

でも、本当に事件が未解決になってしまったらどうしよう? 例えば、犯人が逃げ切ってしまう。あるいは森の中などで人知れず死亡してしまったら? こんな時、吊るされて乾燥された被害者の死体は? ワイン樽に入れられたままの被害者の死体は? 一体どうなる?
答え。そのままにしておく。
つまり、「裁判が終了するまで、被害者の遺体を許可なく埋葬してはならない」。なぜなら、「裁判には、原告、被告、両方が出廷しなければならない」からだ。(といっても実際にはある程度の時間で裁判所が遺族に対して埋葬の許可を出したと思われる)

中世の時間は現代に比べてゆっくりと流れていく。

被害者の死体を乾燥させたり、樽に詰めたりしたところで、遺族からしたらやはり早く埋葬してあげたいだろうし、また死体の処理が不完全だった場合には、まあ、いろいろと不都合が起きたのであろう。

やがて「死体=被害者本人」という形で裁判所に出廷する、というこの状況に、徐々にだが変革の時がやって来る。ついに裁判所がこの法律を変える時が来たのか? が、結局それは来なかった。
代わりに「出廷」の解釈を変えたのだ。

1303年に記録があるらしいが、これが最初かどうかはわからない。それによると、殺人事件が起こり、犯人は逃亡する。すると裁判官が立ち会って手続きのもとに被害者の右手を切断する。死体は遺族にすぐに引き渡され埋葬される。そして切った右手だけを乾燥させて保存する。やがて犯人が捕まって裁判になった時に、「右手=被害者本人」として出廷させる。なぜ右手なのか? それはわからない。ただし様々な宗教儀式で右手を挙げるポーズはよく見られる。そして原告席には乾燥させた「右手」が置かれ、被告席には犯人が立たされる。この形で裁判が開かれる。これである程度、被害者遺族も納得し、裁判は迅速に進められるようになった。この形式は15世紀あたりまで続いた。

これで何かが変わったのだろうか? 私が想像してしまうのは、厳粛な面持ちの裁判官の前で悪辣な表情を浮かべる犯人と、皿の上に置かれた「右手」が対峙する、ややグロテスクさは薄れたものの、やはり奇妙な光景だ。

このエピソードは汎用性がすごく高い。「法律=決まり事」、ここを変えれば済む話を、そこを必死に守ろうとして周囲の状況がドタバタする。こういった状況は現在でもあちこちで起こっている。もちろん、政治の世界で、職場で、学校で、あるいは家庭で、そんな中で自分だけは何かを変えた、と思っていてもそれは「右手を切った」だけかもしれないのだ。その面白さ。それは確かにある。

しかし、ここで衝撃的なのはやはり、死体の扱いである。自分も少し悪趣味に書いてしまったが、リアルに考えるとこれはかなりのものだ。しかもそれをやられているのは被害者の方である。殺された上にさらにこの扱い。それをやらせているのは裁判所である。もっとも現在でも死因を特定するための司法解剖を、解剖の部分だけに焦点を合わせれば、死体に対する行為自体はさほど変わらない、と言えなくもない。にしても、これは捜査のためでもなく、これをやったから何か証拠が増えるわけでもない。とにかく裁判の場に被害者の死体を何とか「保存」して原告席に(座らせることはもはや不可能なので)置く。ただそれだけのためにここまで? 被害者を安らかに眠らせる、という発想はないのか? 中世の人間たちの精神構造は一体どうなってるのだ?


ー 2 ー

私は先程、死体、死体、と何度も書いた。しかし、この『中世賎民の宇宙 - ヨーロッパ原点への旅』の中では、大半の部分で死体ではなく、死者、と表現されている。実はこの裁判のエピソードを最初に読んだとき、そのグロテスクさと書かれている状況の面白さに引っぱられて、私は「死者」と「死体」の言葉の持つニュアンスをごちゃごちゃにしてしまっていた。

そもそもこれらの裁判というものの目的は何か。被害者の恨み、という感情を、裁判という理性の場でバランスを取って復讐させること。被告席には犯罪者がいる。では犯罪者に対して最も強い恨みの感情を持っているのは殺された人間だ。つまり「被害者本人」が実際に原告席にいなくてはならない。でないとバランスが取れない。これが当時の考え方だ。

死体ではなく「死者」、というと何かそこに生前の時の人格のようなものが宿っている気がする。
この本で描かれる近代以前の中世の人々の死生観、それは現代のように何時何分と死亡を告げた瞬間に、生と死を完全に分けるものではなく、その人が死んで姿や形が変わっても、依然としてその人間の人格というものがまだそこにあるのだ、という捉え方である。「生と死の連続性」、そして「死者は人格を保つ」、これが中世の人々の死への感覚である。
と言われても、まだ私には感覚的に納得がいかないのだが、一応、この前提に立てば、殺された死者の身体にはまだ「人格」が残っている。安らかに眠ってなどいない。恨みの声なき声を上げている。
だから、現在から見ればほとんど死体損壊としか思えないのだが、その「死者の人格」そして「恨み」を何としても保存するために、愚直というか融通が利かないというか、遺体をカラカラに干したり、樽に詰めたりしていく。しかし、どうやら最後に出てくる「右手の切断」については少し意味合いが違うようだ。これについては後で述べる。

近代以降、現代でも人が死ぬと「魂」というものが身体から抜けて天国へ、または極楽浄土へ、というのは現代の信仰心の薄い人間にとっても、ましてや残された者にとっても、悲しみや心の負担を軽くする極めて合理的な考え方だ。
自分の目の前にある知っている人間の遺体の存在。そこから受ける感情や動揺。ここで一度、我々は目に見える世界を遮断し、死んだ人間の最も大事なもの、それは肉体ではない、財産ではない、頭の良さでもない、「魂というもの」はこの瞬間に別の場所に大切に保存されたのだ、このことは決して目には見えないが、感情ではなく理性としてそう判断する。死というものを抽象化して捉えていく。そして悲しみという感情を減らしていく。もちろんこれを瞬時に行える人間はいないと思うが、現代の私も含めて多くの人々は葬儀などを通して、ある程度の時間内で(つまり、残りの生涯を喪に服す、ではなく)理性と感情のバランスを取っていく。

この中世の裁判記録に登場する人々も、もちろん死というものを受け入れるし、墓も立てる。とはいえ、「魂と肉体」あるいは「生と死」こういったことが今ほどきっぱりと分けられてはいないようだ。
知性がない、ということでは決してない。理性ではわかっている。わかってはいるが、目の前の死者の肉体、その存在、それに対しての心や感情の動きが激しすぎるのだ。そしてそちらに時々引きずられてしまう。理性と感情のバランスがうまく取れない。そして身内を失う悲しみ、死への恐怖、これに伴う感情の激しい動きが「生と死の連続性」、「死者は人格を保つ」という捉え方の感覚になっていく。

ここまででどうだろう? この本での「生と死の連続性」「死者の人格」という中世の人々の感覚のあり方は、私には読んでいてわからないではないが、今一つ掴み切れない感じもある。もう少し自分の中に当時の死生観を引き寄せたい気持ちがある。
たとえばこんなのはどうだろう? 人形供養というものがある。これが日本だけの風習なのかどうかわからないが、「生と死」どころか生きてもいない、「人格」ももちろんない、文字通り「人の形」であるだけの物体に対してどうしても何かが宿ると感じてしまう。だからこそゴミ箱に捨てずに「供養する」。その方がいいと思ってしまう。理性と感情のバランスが少しだけ崩れる。
これは小さな心の動揺に過ぎないが、この気持ちや感覚をうまく拡大していけば、この当時の人々の目の前の死者に対して、そこに「生と死の連続性」や「死者の人格」を信じる気持ちに少しでも近づくことが出来るかもしれない。

とすれば、死んでしまった犯罪被害者の恨みの気持ちはまだそこに宿っている。その遺体に。その「形」と「質量」に。だがそのまま放っておけば腐ってバラバラになって消えてしまう。それに比べれば、遺体を干したり、樽に詰めるのは、現在の我々の目から見ればギョッとするやり方ではあるが、むしろ丁重に扱っているとさえいえるかもしれない。確かにカラカラに乾燥させれば、本人の「形」が、樽に詰めれば、形はだめでもその「質量」はどうにか保存できるのだ。そしてその恨みの気持ちも。

この頃は理性と感情のバランスを直接的に取ろうとしていた。理性的には復讐の連鎖は何としても止めなければならない。だから遺族の個人的な復讐ではなく、裁判所が犯人を裁く。しかし、たとえ死体になっても、殺された恨みを持つ本人がその場にいなければ、復讐は果たされない。だからカラカラになっても、樽詰めになっても裁判には連れ出さなければならない。目はもう見えないが結果を本人に見せてやらねばこの裁判は終われない。

「被害者の恨みを理性的な方法で適切に相手に復讐する」ということでは現代の裁判も同じだ。もちろんそこには被害者の遺体はない。被害者の恨みや思いという物理的に存在しないものを代理の人間が「抽象化」してその場に持ち込む。中世の時代はその恨みや思いを「直接的に」身体ごと持ち込む。ちょうど、その中間地点に切断された「右手」が置かれた。身体を丸ごとでなく、一部、これを被害者本人のこころ、と見立てる。ここから人間の生まれたての抽象という概念が捕まり立ちをしてヨタヨタと歩き出していく。

現代の我々でも中世の人々と心の部分はさほど変わらない。判決のニュースを見て「何だか、軽いな」と思ったことは度々あるだろう。私たちも「これでは復讐が果たされていない」と本能的に感じているのだ。だから刑罰を重くしろ、というわけではないが、それはそれで別に考えればいい。

抽象という概念がまだ出来立てでふわふわしていた中世の時代。
カラカラの死体や樽詰めの死体、切られた右手が登場するこの時代の裁判を、もし出来るならこの目で見たい……いや、どうだろう? やはりグロテスクすぎるか。しかし、この時代の人々の感覚は味わってみたい。抽象という概念がまだ浅く、起こる全ての現象に直接的に衝撃を受け、心や魂を震わせながら世界を見れたら。
そんなことを考えている。

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