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芽生えの季節、生命の始まるとき:死とは何か?

樹木に意識があるのかと言う問を聞く。一本の樹木を一つの生命と見て、葉や幹や根をその生命のパーツと見る考え方である。あたかも、樹木が「葉」を遣い光合成を行い、根を使い水を吸上げるというイメージである。だから樹齢が木の年齢のように感じるのだ。そう考えると植物は長生きだ。

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この庭を歩き始めてから、「葉」の一枚一枚が生命の単位だと考え始めている。季節が変わり葉が落ちる時に一つの生命が死ぬのだ。そしてその葉の中には大量のマイクロバイオーム生きている。土に戻り次の季節に「葉」となって現れる。

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時に枝を落とすが、僕は捨てない。その木の根元において土を豊かにする。やがて、枝や葉はマイクロバイオームに分解されて動物の世界に入ってきたり、根から吸収されて葉に戻っていく。

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常緑樹は季節の変化なく葉を落とし、新芽が出る。代謝系が温度に関係なく動くのである。適応は面白い。寒冷地で生きる知恵である。そして葉にとっての死は常に訪れるのだ。

死は生の一部であり、次の世代へと世界の変化を伝えるためにあるのだ。それも単純に出産という形ではない、食物連鎖を通して、循環するのだ。もちろんウイルスも一役買っている。

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インチキおじさんたちは老人を目に見えないところに隠すことで不老不死を実現したように喧伝するが、それは間違えであることは、自分が年老いてみれば分かる。

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ここ数年、カナヘビをよく見かけるし、池の上には蚊柱が立つ。昔は街灯の下には大きな蚊柱が立って、コウモリが飛んだものだ。

カナヘビは、この庭の一部なのだ。とても可愛いものである。そして僕も一部である。花粉症やウルシかぶれを考えてみれば分かる。蝶やミツバチが受粉を行うというのは、セックスに他の生物が介在するということである(笑)。では、蝶やミツバチが植物の一部ではないか?

植物と動物の境界は恐ろしく低い。生命はつながっているのだ。

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毎年、葉は生まれその環境で生きて、その環境は次の世代に渡されるのである。葉の内に住むマイクロバイオームが葉という生命の単位を構成する細胞にヒネリを入れているのだ。

食物連鎖とは食うものと食われるものの戦いではない。マイクロバイオームが棲家の形を変えて生きていくプロセスなのだ。

植物も動物も、乾燥環境においてマイクロバイオーム(細胞・細菌・ウイルス)が共生して生きるための環境なのだ。葉の一枚が一人の人間だと考え、一本の木が家族だと考えている。そして、多くの木々や草花が集まり庭を作るように社会が成り立っていると僕には見える。

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紫陽花は土の中の生命によって色が変わる。研究者は土中のPHで変わるのだと聞いたようなことを言うが、その具体的なプロセスに関して解明されていない。それは土の中のマイクロバイオームの姿が変わるのだと考えている。単純に「工場で生産された元素」を与えたところで植物は取り込めない。マイクロバイオームが自分の生体物質に埋め込んで初めて植物というコロニーの海に入っていく。昨今の野菜にミネラルが少ないという問題も土中のマイクロバイオームがいないからだ。水栽培の野菜が旨くないのには理由がある。野菜のミイラのようなものだ。

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肥料を変えると木々の育ち方は変わる。肥料を与えたところでそれが単純に植物が吸い上げているわけではない。マイクロバイオームがその生命の内側に取り込み、植物の内なる海を満たし、葉となって現れるのだ。

僕はこれを「生体ミネラル」と呼んでいる。マイクロバイオームも生命だから細胞膜を持ち、そこには多くのタンパク質や脂質の代謝物が満ちている。そこが生命の始まるところなのだ。

この時期の庭歩きは楽しい。幹や枝が緑の葉をつけ始める。

幹や枝はその内側に「海」を持っている。春になると、土の中で「生命:マイクロバイオーム」は代謝活動(生化学物質を組み立てる)を始める。根は土中のマイクロバイオームを取り込み「海」に満たす。植物の生態に関しては多くの研究が有る。ある種のホルモンが発芽点に渡されることで芽が出るのだという。

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僕の住む町でも、次々と庭は潰され、駐車場やアパートになっていった。豊かだった町並みはコンクリートとアスファルトに覆われてしまった。何よりも川底がセメントで覆われ溝となり、生命が失われたのが僕には悲しい。

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何と多くのものを私達は失ったのだろうか。とは言ってもやがてツタヤ苔が生え、木々が覆うだろう。多くの遺跡文明がそうであったように。お日様の力のほうが強いのである。

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マイクロバイオームのコロニーとしての身体

僕は樹木をマイクロバイオームのコロニーとしてみる。葉は太陽光線を利用してブドウ糖(デンプン)をつくる。ブドウ糖は細胞の中でADP+P<=>ATPのリサイクルを行い、化学エネルギーを運動エネルギーに変える。

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ブドウ糖はそれぞれの居場所で分化した細胞に生命を与える。幹は毎年年輪を重ね、根は地中で他の植物の根と絡み互いの海からの贈り物を土の中に染み出して、マイクロバイオームと共生する。

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根は冬の間デンプンを貯め、春になって気温が上がってくると葉の生育に必要な「養分:マイクロバイオームによって生体化されたミネラル」を身体の海に招き入れる。

葉は、芽吹きの時は人で言えば赤ん坊だ。周りの環境に向き合い、内部の『律』に従い大きくなろうとする。
徐々に葉は固くなり、様々な変化を遂げ、少しずつ機能を失っていく。再生することも出来ない変異を生じて、寿命が来るのである。動物も、同じ「律」の内に生き、生を終えるるのだ。
時に日陰で上手く伸びることが出来ず、死ぬことも有るだろう。家族の一人一人はそれぞれに世界に向き合うのだ。

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そして、共生してお日様の力で根にデンプンを送る。より多くのデンプンが作ることが出来ると、根はその植物(内なる海)に特有の代謝物を分泌する。そしてその代謝物はマイクロバイオームを育てるのだ。あたかも撒き餌をするように土中のマイクロバイオームを集め、他の木々と競争・共闘をしながら庭を豊かにするのだ。

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代謝活動というのは基本的に常温のもとにおいて「炭素と水素、酸素そしていくつかのミネラル」を含んだ化合物を別な化合物に変えるプロセスである。その過程でミネラルは細胞の様々な部分に組み込まれるのだ。単純にミネラルを飲めばいいということではない。

化学肥料は一見して食物生産を増やしたように見えるかもしれないが、その内側のマイクロバイオームは激減した。おまけに、商品化された食事のために、ドックフードみたいな飯を食う羽目になったのだ。

その意味で、自然農法は素晴らしい。かと言って完全に自然農法に戻るということは現実的ではない。まだ僕には出口が見えない。

僕は素材からプロセスを大事にした食事を毎日作る。マユくんにも作っている。家族だからな。

この社会の変化が、「生活習慣病とその合併症の蔓延」の原因と僕は考えている。しかし、その因果関係はあまりに遠くて(医学が求めるスペックで)証明する手立てはない。

社会は変えられなくとも自分の行動は変えられる。ピンピンコロリの人生の終りを迎えられる社会はすぐには出来ないかもしれないが、自分の人生をそう変えることは可能だ。

まずは自分から変わっていけば良いのだ。

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いくらカルシュウムをとっても生体の中で組み込まれることはない。身体の海の中で、ミネラルは遊離して存在はしていないのである。だから、キレートして吸収されやすくなりましたとか言うが、それが上手く行っていないことは老人が骨粗鬆症やら難病で苦しんでいることが証明している。

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ドーキンスは生命をDNAの乗り物だと言った

ドーキンスは、DNAが生命全体の設計図だと考えている。確かに、DNAと言う発見(1960年)は大きなものであった。しかしながら、ゲノム解析が進むにつれて、その内に持っている情報量は、あまりに小さいということが分かられてきたのだ。人のゲノムにコード化されたタンパク質は大腸菌の10倍(45000個)でしか無い。これには多くの学者が落胆した。人のゲノムがコードしているタンパク質量は、あの単純な生命(大腸菌)のたった10倍でしか無いのだ。

進化の頂点にいる「人間様」には神々しく他の生物には比較にならない長さの設計図が秘められているはずだった。ヒトゲノムを解析すれば神への階段が見つかるはずであった。

「DNAは細胞のプロトコル」である。そして環境に対しての適応を積み重ねていく。

全体の設計図ではなく、細胞に内在するルール(プロトコル)だと考えれば、大腸菌と人の細胞が持つ遺伝子の情報量に違いがないことも何ら問題ではない。「赤信号で止まれ、制限速度を守れ」三輪車でもジェット機でも新幹線でも、フェラーリでも、運転で守るべきルールは共通だ。

そして、新しい交通の道具が出来たときも同じルールを守り、そこに新たなルールが追加される。それが進化(適応)なのだ。

宅急便を運ぶドローンも赤信号を守らなければ事故が起きるのだ。

サーチェス遺伝子とか色々なことを言いはするが、彼らのロジックは破綻しているのだ。人の代謝系だけでは生命を説明できないのである。私達は食物連鎖の長いレンジの内に生きているのだ。輪廻転生と言ってても良い。

彼ら(インチキ叔父さん)は食物連鎖全体での生命の流れを見ることはない。だから、1980年以降のグローバリズムが、食物連鎖の流れから私達を切り離したということの重要性を論ずることはない。

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この30年のマイクロバイオームの研究はもう一捻り加えることを可能としたと思う。「細胞の環境に対しての適応」こそが「進化」なのだという考え方である。私達は今この瞬間も進化(適応)しているのだ。もうそろそろ、ダーウインの呪縛から抜け出しても良い時である。


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外に伸びようとする枝を内に戻れと僕は引く。プロの庭師さんならバッサリやるだろうが、どうも忍びない。

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枝はお日様を求めて伸びる。僕は敷地の外に出ないように紐で引いて内に向ける。バッサリ行くのは忍びない。

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あまり高く伸びると電線に触れるので今年は月桂樹の木をアーチになるように引いた。どうなることであろうか、幹は時が経つと曲げられた環境で伸びる、この庭を面白くしてくれる。

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サルスベリの葉はまだ遅く咲く。幹には蔦が絡み伸びていく。数年前からどこからともなくこの蔦は登るようになった。葉が茂りすぎてサルスベリを殺さなければいいが。

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昨年、実生の紅葉が蔦に葉をかげらされて、一本枯れた。上の写真の奥の枯れた枝がそうだ。ここに梅を持ってきたいので「取り木」を試みている。

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「よもぎ」がここには群生するようになった。今年は草餅を作ってみようと思う。母は笹団子を作るために山によもぎを取りに行ったものだった。これを見たら大喜びだ。もうあちら側に行ってしまったが。

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イチジクの葉はもっと先だ。室内に挿し木をしたイチジクはもう大きな葉を持っている。

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雪折した隣家の木が家に入ってきている。しばらくはこのままにしておこう。

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最初の問いに答えるならば、

葉には意識があるかもしれない。伸びる枝や根にも心を見ることはある。

それを全体の意識としてみることが出来るかは別だ。葉や根には投票権はないし、どこかに王様がいるわけでもない。蔦が長く伸びつのは、植物の意思ではない。

擬人化は「人の社会」がこうあるべきだという「妄想」を他の存在に映す好意である。

除草剤が巻かれ、雑草が生えない公園や遺伝子組み換え作物、いずれも道具として自然を整備する。人が、他人の道具であるように扱われるのと同じことである。思い上がりも甚だしい。

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父と母は生涯この庭と家族を愛した。僕はこの庭を守るために殺人さえも辞さなかった。そしてこの庭とともに一生を終わりたいと思う。

死んだら埋めてほしいが、ちと無理かもしれない。金玉の一つぐらい埋めてもらいたい。取るのは死んでからにしてね。これは遺言である。

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このお話の続きです。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。