「もしもの備え」として、震災時の人災に備える1
明日になってから述べようと思っていましたが、今日述べます。
震災時の人災に備えること。
それこそが、「もしもの備え」として、最重要、かつ、最も生存率を上げると思っています。
人命を統計では考えない
震災は、数多くの人々が亡くなっていきます。
私は、死亡者の人数が多い、とは考えません。
私は、死者数の人数が多い、とは考えません。
そういうふうに人命を統計では考えません。
一人でも多くの命を守らなければなりません。
そう言う人間が命懸けでやればいいんだ、という老害をたくさん見てきました。
そう言う人間が頑張れば済む話だ、という老害をたくさん見てきました。
私が頑張れば、命を守ることも、命を救うことも、出来るんでしょう。そこまでは確か。
けれども私は過労死するでしょう。
私一人の命で、何人もの命が救えるんだったら、それで良いじゃないか、という若手老害を嫌ほどたくさん見てきました。
私が命を犠牲にしさえすれば、一人の命で何人も命が救えるのは確かです。
けれども私は死ぬでしょう。
私の犠牲の上にしか命が守れないなんて、そんな状態の何が防災なんですか。
暴言や暴論をほざく老害ジジイどもは人災です。
震災よりも人災に対する備えが必要になります。
誰かの犠牲は、命を含め、あるかもしれないが、震災による死者数が比較的少なくて済む、などという考え方は拒絶しなければいけません。
きっかけは13年前では無い
こういう考え方に至ったのは、13年前がきっかけです、と言いたいところですが、違うんです。
東日本大震災そのものの直後ではありません。
宮城県石巻市の大川小学校の津波裁判がきっかけなのです。
10年前の今日、裁判が開始されました。
2014年3月10日に、御遺族が仙台地裁に提訴しています。
その頃、私は、ニュースを見ただけでした。
そこから少しずつ少しずつ調べて、義憤が収まりませんでした。
そしてたどり着いた結論は、震災に備えるだけでなく、人災にも備えないといけないということ。
そうしなければ、命を守れたりなんてしないのだということです。
人災で人は死ぬ
大川小学校の裁判では、防災体制や予見可能性が焦点でした。
学校が防災対策を怠っていなければ良かった。
ハザードマップを独自に検討すれば良かった。
教職員の知識や経験が優れていれば予見できた。
高台を避難場所に設定すれば良かった。
全てその通りですが、ズレています。
全て実行出来ていても、大量に死んだでしょう。
腐敗組織の人災がゴネてしまえば、死にます。
校長が不在だった。教頭が待機させた。
教員は裏山を提案したが、教頭が却下した。
知識がどれだけあろうが。
経験がどれだけあろうが。
こんな教頭がゴネたら死ぬ以外ありません。
「教頭の言うことを聞くな。」
「教頭は黙れ。」
「児童は逃げろ。」
そんなの言える教員がいますか。
いなかったから何人も死んだわけです。
国は、県は、市は、腐敗組織の人災問題にこそ、取り組まなければならなかったのに、今まで一体何をしていたか。
計画の脚注に大川小学校を入れるだけか。
知識も経験も、人災が混ざった瞬間に全て無駄。
防災に関する知識や経験を教員に身につけさせることにしています、とお茶を濁すだけでは、全て無駄なんです。
学校に限った話ではありません。
避難所運営リーダーの場合も同様です。
「何々さんの奥さんを探しに行ってくれ」
「何々さんの息子さんを探しに行ってくれ」
沿岸部に探しに行ったら死人が増えるだけです。
人災がいたら、いとも簡単に人は死ぬのです。
まずは人災に対する備え、そこからです。
校長であろうと。教頭であろうと。
避難所運営リーダーであろうと。
誰であろうと、黙らせないといけません。
黙らない老害なら、避難しないといけません。
震災による被害からの避難よりも、人災から避難するほうが大事になってくるのです。