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「道徳の根拠」をローティのダーウィズム的真理観とゲーム理論で考えてみる

C.ミサックの「真理・政治・道徳―プラグマティズムと熟議―」を読了した。

本書では、プラグマティズムにおけるミルの考え方をベースとして道徳も、自然科学同様に可謬主義により、真理といって差し支えない内容に収束しうると主張する。
科学でも道徳でも、なにかを主張するということは、可謬主義的なプロセスへコミットしているといえることから、熟議によって原理的には「これ以上修正が必要ないと皆が思える道徳に至る」はずということらしい(と私は理解した)

著者がいうように、既存のリチャード・ローティに代表されるような、真理などなく、善は、それぞれの価値観でしかないという相対主義的な考え方は、直感的には誤っていると強く感じるナチスを代表とするような大規模虐殺や人権侵害を起こす他者に対して明確に批判しきれないという課題があるように思う。

ただ、この課題を解決したいがために、道徳においても普遍的/真理的なものがありうるという結論を決めて論理を組み立てているように感じた。

たとえば、科学的な知見は可謬主義的なプロセスで究極には収束するのだというミル的な考えを認めたとしても、対象の変化の小さい自然の法則を扱うことと、個体差異がありかつ器質的にすら変化するであろう人間(もしくは社会)の法則?を扱うことの違いを無視できないのではないかと思う。

自然(物理世界)の定常性や共通性(実在性ともいえる)に関して変化を想定する立場(物理的数が明日突然変化しないとは言えない、またはメイヤースの思弁的実在論等)もあるが、そこまで考えずとも、道徳が共通解に収束しうる前提として、人間の身体性/精神性の時間的な定常性(種レベル)や差異(種レベル/個人レベル双方)は無視しえないと思う。

私の考えは、道徳は、リチャード・ローティがいうようなダーウィズム的真理観である生存を最大化するためにもっとも適したモノが選ばれるという原理で、社会におけるゲーム理論的な安定解(動的平衡となる解)と考えるのが妥当に思う。
たとえば、ナチスのように他集団を抹殺する戦略をたてた集団は、普通は、周辺集団からの脅威とコンフリクトなどを誘引し生存コスト極大化するため、コスト効率がわるい選択になるため、そのような集団が残らないということではないだろうか(=つまり自然選択として否定される)。

道徳や善、正義を、ダーウィニズムとゲーム理論で考えるアプローチは、おそらく研究されている方がいらっしゃる気がするが、私は知らないので、ご存じの方がいらっしゃれば、コメントで書籍などご紹介いただけると嬉しいです。

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