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[書評]倫理やリテラシーが宙に浮かない仕組みは〈遅い〉インターネットで。

インターネットにはかつて「大きな理想」が抱かれていた。キーワードは「公共圏」。社会的な立場や学歴・年齢等に関係なく、皆がフラットかつ自由に議論できる「公共の場」としてネットが機能し、草の根的なコミュニケーションが広がるのではないか。それが熟議を生み、民主主義をより健全化するのではないか。そう期待する人たちがいた。しかし、今これを口にすれば、夢想家と断じられるかもしれない。

1995年、Windows 95が拡販され、ウェブは生活の場へ一気に浸透した。あれから25年。果たしてインターネットの「底」は、もう見えてしまったのだろうか。

そこに「否」を唱える一人が評論家・宇野常寛さんだ。彼は、語る。むしろインターネットの可能性はまだ十分に試されていない「遅い」という作法でネットの利活用はできるはずだ――。一世代分の時を経て、別の仕方でネット活用を提案する『遅いインターネット』(幻冬舎)という書籍との出合いは、私にとっても啐啄の機を得た印象だった。わずかながら寸評したい。

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新たな「公共圏」創出という夢は潰えたのか

公共圏というと思想家ユルゲン・ハーバーマスを想起する人もいるだろう。彼の『公共性の構造転換』が描いた公共圏の理想の中で、ネットによって実現された最大のものの一つが「双方向性」だった。つまり、ユーザー皆が「読む側」になれると同時に「書く側」にもなれる。メディアとの関係において、情報の受け手だけにとどまらない仕方でいられる。そんな環境が生まれたのだ。しかも「マスメディアは絶対」という、ある面で「危険」なステータスから距離をとり、多様なフェーズ・確度の情報にも触れられるようになった。これらは、環境としては前進だったし、画期的だった。

だが残念なことに、ネット環境には手放しで礼賛できる抑制機能が備わっていなかった。というより、ネットを使うにしては、人間はあまりにも抑制的でなさすぎた。ユーザー同士がそもそも成立していない口論に終始し、扇動的な言動に振り回され、誰かの失策に脊髄反射して過激な言葉をぶつけ、激情が激情を呼んで噴き上がるといった事態が量産されてきたことは周知のとおりだ。しかも、ネット黎明期でこそ「それなりに」機能していたフラットさも、結局は「カネがある」「知名度がある」「フォロワーが多い」といった属性の強みによって希釈された。

それゆえ、インターネットに対する夢はほとんど雲散霧消してしまったようだ。

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インターネット利活用における大切なファクター

私は2000年代初頭からITに関わり、上記の事態をつぶさに見てきた。だからだろう。かなりの絶望感を勝手に抱いている。しかし一方で、品性をたたえつつ上質な情報をコミュニケートし、噴き上がりなどを抑制するのに必要なファクターを指折り数えて大切にしてきた。いま思いつくものを列挙しよう。

①ユーザーの倫理感を育てる。「人間とは~であるべきだ(~すべきだ)」といった訓戒以前に「~をしてしまったら人間として終わりだよね」という認識の広範な共有を目指す。
②ユーザーのリテラシーを高める。
③インターネットとリアルの活動をフラットにつなぐ。
④ネット・リアル双方で生まれたコミュニティの人間関係をフラットにする。

ひとまず4箇条。

これらを見て「これこそ夢想じゃん」と思った人もいると思う。倫理って答えがあるのかよ? リテラシーって何だよ? これらができないから現状があるわけでしょ――? 上記4項目はネット空間の改善を志したことのある人なら、割かし思いつくものばかりだ。だが、待ってほしい。自身の胸に手を当てて、こう問うてみてほしい。

・あなたは倫理を丁寧に体得したことがあるだろうか。
・リテラシーを高める学びを活用しているだろうか。
・ネット上で喧しく言葉を放っているにも関わらず実際的な活動はほとんど何もしていないという自分がいないだろうか。
・衆目の集まる人・場こそ信頼できると信じている自分がいないだろうか。

これらを本気で点検したことが、かつてあなたにあっただろうか。

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宇野さんは『遅いインターネット』の中で、端的にこれらがきちんと試されてこなかったことを示した。すでに実施され、成否を分かった施策や、失敗はしたけれど再評価されてしかるべき原石のような施策があったことも示した。そして、これは構成的におもしろいところだけれど、「それで君は、どうしてきたの?」と何度も何度もラディカルに読者に問いかけてくるレトリックを宇野さんは採用した。その語りのままに問題を整理し、新しく、かつ具体的な試みを本書で提案している。「伴走、するよ。」と言わんばかりに。

宇野さんは主に②~④、そして②~④の実現過程で①を包摂するというスタイルをとろうとしている(私の意見に引きつけて言えば)。

例えばGAFAの振る舞いに徳はあるだろうか?

②~④についての(恐らく宇野さんにとっても暫定的な)解は、本書を読んで確認してほしい。私は残りの文で、宇野さんが2011年の著作『リトル・ピープルの時代』から通奏低音のように響かせてきた原理に言及する。キーワードは「日常化」である。

唐突だが、ひところ流行った哲学者マイケル・サンデルの白熱授業の特徴を思い出してみてほしい(何のことかわからない方、すみません)。注目をあびたのは、教授と学生の双方向的なやりとり・授業の組み立てだった。

例えば「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い。これは倫理的だ。しかし「『なぜ人を殺してはいけないのか?』と問うのはおかしい」と抑圧するのは非倫理的である。

あるいは「犯罪者を殺害することは倫理的であり得る。が、それを正当化することは倫理的ではありえない」(『一方通行路』趣意)というヴァルター・ベンヤミンの箴言を吟味してみても良い。「倫理的/非倫理的」の境界はどこにあるのか?

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「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」という真理めいた判断を抱く人もいるだろう。だが、「立場的に弱くさせられている国々や人々」の手を伝ってきた食材が、あなたの夕食のステーキとして今そこにあるとして、あなたが何の気なしにその肉を頬張り、以後も弱者に目配せすらしないとしたら、それは倫理的だろうか? そう問われれば、どうだろう?

サンデルはこういった問いを起点に学生との問答を編んだ。

もっと問うてみよう。

GAFAのサービスは、膨大なユーザーの言動履歴をビッグデータとして活用し成立している。私たちはGAFAのツールを使うことでGAFAの洗練に寄与している。画像を投稿し、呟き、ページを繰れば繰るほど、ストリーミング配信に触れれば触れるほど、GAFAに利が舞い込むよう仕組み化されている。それは言い方を換えれば「GAFAのために私たちは(知らぬ間に)労働させられている」とも捉えられる。しかも無償で。GAFAは今、国家をもしのぐ巨大な図体であらゆる他のサービスを飲み込みつつある(いや、現在進行形)。あなたはその手伝いをしているのだ。もしGAFAによってあなたの仕事が脅かされたら? これは、倫理に照らさず放置していて良い事柄なのだろうか?

倫理の必要性を説くガブリエル

倫理は、「これはしてよい」「これはしてはいけない」といった善悪の答えの陳列だけを意味しない。都度・都度どのような思考や直感を経て「ものごとの善悪」をジャッジするか。どう葛藤するか。どう判断するか。そのプロセス・経験を積み重ねていくことそのものも倫理に含まれる。

上記のような問いを丁寧に追いかけることに利があることが今、見直されている。人々の共感を呼ぶような言動には倫理が深く関わり、善良さを思い起こさせるコンテンツは人々の良心を刺激し、広がりを見せる。

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いま流行りの哲学者マルクス・ガブリエルは、こう言って憚らない。

「子どもにディシプリン(学問)として教えないから、我々には道徳的な規律がないのです。だから、我々の道徳的思考はこれほどまでにひどいのです。子どもに数学(算数)を教えないでいたら、我々大人の数学(算数)力は惨憺たるものになるでしょう」「道徳は、教えるか否かではなく、教えることが必須なのです」(『世界史の針が巻き戻るとき』趣意)

倫理・道徳を知識として扱うだけなら、人格の陶冶にとってそれらは無用に近いかもしれないが、体得するものとして扱うなら倫理は品性を生む。倫理は教育すべきだ。

倫理的であらざるを得なくさせる仕組み作りへ

しかし、倫理といってもどう学べばいいのか。宇野さんは『遅いインターネット』で、ITをテコにした手法にまで言及しているが、そこで光っている知恵が「倫理的(正確には「抑制的」か?)であらざるを得なくさせる仕組み=『意識せずともそうせざるを得ない』仕組み」だった。先に述べた「日常化」は、この「意識させずに生活に溶け込ませる」ことを意味する。

原理のみ、ここで触れよう。

排除アート」という言葉をご存じだろうか。公共物などに手を加え、特定の人に使いにくさを与えるアート風の施策のことだ(アートと言ってしまっていいのかという議論もある)。例えば公園のベンチ。私が幼かった頃には無かった仕様がそこかしこに見られる。ベンチにつけられた「ひじ掛け」がそれだ。試しにわが社が入っている横浜ランドマークタワーの1階に降りてベンチを探してみた。すると細い道路を挟んだ反対側に早速ベンチが見えた。

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これは無機的な鉄製のひじ掛けだが、昨今リリースされている椅子にはオシャレな形状のものも多い。あるいはベンチ全体が流線形だったり、一定の間隔でノイズっぽい凹凸が添えられたりしている。

なぜこのようなベンチが増えたのか。理由の一つは、路上生活者・ホームレス対策である。彼らがベンチに寝転がれないようにするためだ。

ただでさえ居心地の良い場所を見つけることがとてつもなく困難な彼らが「よすが」にしてきたベンチに近年、排除の機能が備えられている。しかも「アート」を装って。以下もその一例といえる。彼らが棲みつけないように、アートに擬態してそれとなく施策が遂行されている。

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排除アートが恐ろしいのは、もちろん擬態的である点だ。日常に溶け込んでいて、自然なありさまを見せているアートは、一見しただけでは本来の意図が読み取れない。むしろ別の意味を想起すらさせる(アートを装っているがゆえに)。しかし多くの人にとって不鮮明な「本来の意図」は、確実に達成される。ホームレスを「そこにいられなくさせる」等々――。

この「~なくさせる」状況を「仕組み的」に「アーキテクチャーとして」実現しようとする営みを、宇野さんは「排除アートとは逆の、包摂的な効能を目指して」実行している。彼がメディアやコミュニティを運用しているのはその一環で、それらは「自分を抑制せざるを得なくさせる」「マネジメントせざるを得なくさせる」「ネットに存在する多彩な価値観との距離のとり方、彼らに語りだす時の進入角度を試行錯誤せざるを得なくさせる」構造を備えるよう志向し、設計されている。これが「日常化」だ。

人間は、放っておいては悪い方向に傾きかねない。

宇野さんは、人間を適度に信頼していない(語弊がありそう……)。それは、本書の別のキーワード「民主主義を半分諦める」にも通じている。人間に過剰な期待をかけない。人はそう簡単に良(善)くはならない。しかし、人間が良(善)い方向に変わり得る可能性を、仕組みや環境を用いてより開花させることはできる。「良き文化は、基本的に、良き社会制度や構造・システムから生まれる」と確信した哲学者アンソニー・ギデンズは、あらゆる社会問題を「まず人間が変わらなければ」という出発点に収斂してしまうことの悲劇性を問題視した。人間が変わらなければならないことはもちろんだが、それとともに人間が良く振る舞わざるを得ない環境や仕組みを整備することも大事ではないか? ギデンズも宇野さんも、そう問いかけているように私には思える。

宇野さんの施策は、それを「日常」に寄せて展開している。日常のうちに倫理発動装置を盛り込んでいる。なるべく意識させず、頑張らせず、非日常モードにスイッチさせずに(非日常を適切に排除して)、自然と良(善)く言動するよう仕向ける――。

この視点をもとに創造される「遅いインターネット」とは? ぜひ本書で確かめてみてほしい。

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