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Mr.Childrenが捉えた風。歌詞の深読みで生きづらさの悲鳴を聴く

Facebookの前アカ時代に少しバズった投稿。

それはMr.Childrenの曲「擬態」の歌詞を深堀りしたものです。心のひだに触れる言葉遣いで時代の風を捉える桜井和寿さんはこう唄いました。

  ビハインドから始まった
  今日も同じスコアに終わった
  ディスカウントして山のように
  積まれてく夢の遺灰だ

先般、DIAMOND onlineに掲載された拙稿は、実はこの歌詞を意識し、起筆しました。

「資本主義社会の競争は熾烈だ。カネをめぐって人が争い、敗者が置き去りにされる。『私が欲しいもの』は広告が教えてくれて、その『私』は刺激されるままに消費に走る。グルメガイドに促されて流行の物を頬ばり、増えた脂肪はメタボと指摘されダイエットで燃やす。『コレステロールは害』と喧伝されればサプリメントを口にし、老後が不安となれば保険に財を投じる。そんな欲望人を量産することが是とされるので、欲望を刺激するコンテンツが街にあふれる」(以下が記事リンク)

「フェアじゃねえ」から「やり場のない怒り」へ

この現況を捉え、ミスチル・桜井さんが書いたのが上記の詞です(たぶん)。

「競争! 競争!」の日々に気がつけば皆が放り込まれていて、しかも多くの人がビハインド、つまり負けや遅れを抱えている。「カネを握りしめながら『おぎゃあ』と生まれない限り、熾烈な競争にはまず勝てない」。著名な学者がそう語る中、「フェアじゃねえよな」という実感は「やり場のない怒り」に変わっていく。でも、どうすれば?

ビジネス書が助けになると信じている人が結構いるけれど、あのビビッドな色合いの「PDCA回せますか?」との見出しに希望は見いだせますか?

「効きます!」と謳われた安っぽい(ディスカウントされた)山のような成功メソッドは、あたかも万人に通用しそうな親しげな笑顔を見せて、でも「あなたには通用しないようですね」と、思わせぶりな夢だけを抱かせて、すぐに「遺灰」と積まれていきます。多くのメソッドには合う人・合わない人がいて、例えばイノベーションを生むクリティカルな思考にも向き不向きがあり、資本主義的な競争にも適不適があります。

それでも万人を社会に集団適応させようと、相応の教育が私たちに提供されるのです。もちろん皆が資本主義に順応できるはずもなく、合わない人は大小さまざまな「生きづらさ」を背負うしかありません。「画一的な集団へ」という幻想に――幽霊船のようなものに――とらわれた私たちの明日が霞んでいくように見えるのは錯覚でしょうか。

能力は必然? でも運もなければ成功はしません。ならば「必然も偶然も全部自分のものにできたなら」と思うわけですが、そうもいかない。この現実に、耐え続けるのは至難です。

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「万人に効きます」は嘘です。でも、万人が競争を「強いられている」のは事実です。

私たちはいつも成果と方法論の試行錯誤に駆り立てられています。「生産性向上だ」「効率化だ」とリソースを搾り取られ続けるサラリーマンの一部は、昨今では「フラリーマン」と化している。彼・彼女らにとって、会社・組織とのホットラインでもある「スマホ」は、時に強迫的な鳴動でストレスをかけてきます。 競争がスマホに擬態してして、その電話に出るあなたも何かに擬態している。

「これ、疲れるに決まってるよ」。私は心底そう思います。少なくとも、適応できない人は自分らしさを相当分抑圧しないといけない。そんな状態が継続すれば、(らしさを)殺めた自分自身にうなされ、何度も目覚める夜が連日になるかもしれません。

生産性や効率というものさしが役立たず幻想を量産

ビジネス書を買える人はまだ良いのです。書籍にもネットにも触れられない貧しさを抱えた人が、いま急増しています。この意味で、「情報弱者をダメ出しするビジネス本は下品」とも思います。相当数のネットカフェ難民は、仕事等が減る年末年始に宿泊代が払えなくなり、野宿へ移行します。「情弱」とか、言えますか? 「年越し派遣村」を美談で終わらせてはいけない。

アジール、避難所が必要です。イギリスにあるマーク・ボイルさんの「カネなし村」、新井和宏さんの「eumo経済圏」、精神障害経験者のコミュニティ「べてるの家」、全国に広がる「子ども食堂」「大人食堂」etc...。それらしくあつらえた擬態的なものではなく、しっかりとしたオルタナティブが必要です。

競争は、限られたものさしで人間の価値を測るよう人を仕向けます。それこそ生産性や効率といった尺度で。そうなれば、病気になること、老いること、学歴競争で脱落することが、ぜんぶ「ダメ」「負け」となります。役に立たないから、と。かつては神聖視されたともいわれる女性の月経も、ダウン症の人が抱える急速な老化も、身心にまつわる障害も、みんな「ダメ」とされてしまう。それこそ、言語が違うだけでそう見なされるかもしれない外国人も、です。彼らへの差別が増進されるような社会は? 端的に「クソ社会」でしょう。で、現況はどうか。私たちは硬い硬いアスファルトに体を打ちつけながら、間尺を合わせるしかありません。

20世紀のナチスは(と、大文字の歴史をぶってしまいますけれど)、役に立たないやつは「ダメ」「要らない」という認識から、やがて「そいつらは排除すべき」という判断にまで至りました。その構造を分析した哲学者ハンナ・アーレントは、「結局どの社会もナチスになり得る」ことを示した。「全体主義によって人間は『モノ』化されるにとどまらず『ゴミ』化、つまり『あると邪魔なもの』とされてしまった」(趣旨)と。彼女の訴えが私の目に焼きついています。

経済的な指標、カネのたまり具合、生産性、それ「だけ」がクローズアップされる社会の貧しさを、私が「逆クローズアップ」して世間に訴えたい。弱くさせられている友の悲鳴を拡声したい。そう思っています。そうすれば、色々なアジールを作ってくれている先哲と共に、水平線の彼方に希望が描けるかもしれないと思うからです。

Mr.Childrenは、同曲「擬態」でこうも唄いました。

  富を得た者はそうでない者より
  満たされてるって思ってるの!?
  障害を持つ者はそうでない者より
  不自由だって誰が決めんの!?
  目じゃないとこ
  耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
  見落としてしまう
  何かに擬態したものばかり

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