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週間レビュー(2022-07-24)_美学の非再生産

20日ぶり。期末の時期なのでかなりパツパツになりながら7月も後半に差し掛かってしまった。

1.Super Bookself 場所と紐づく本棚

Super Bookself(何かしらの対象をSuperさせた本棚)を制作しようという1週間課題。自分は元々ものわすれがひどく、どこに何があるのかなどは工夫を凝らすことで生活している。本を自宅で管理する時は、自宅にある本はNotionでブックリスト化することで管理しているし、場所や空間と紐付けてものを思い出す。なので、空間情報の少ない均質的な普通の本棚に本を収納すると本当に全く記憶として残らず倉庫になってしまう。

今回の課題では、場所に紐づかせるように本を設置できる本棚を考えた。
地形のようなこの本棚には均質な場所は存在せず、不均質な場所に沿って本を収納していく。都市空間と記憶が紐づいて記憶されるように、この本棚はまるで都市の記憶のように本棚の場所に紐づいて、記憶されるのである。

凸凹とした隙間に収まるように本棚が収納されていく。
本の場所は本棚の形や地形に紐づいて記憶される。

講評コメントで改めて気がついたことは「本のデザインは身体と本棚の合理性によって決まっている。」ということだ。それらの前提条件によりが現在のデザインされた一般的な本棚の状態を作り出している。
おそらく他の物のデザインにおいても同様の決まり方が行われていると思い、以下のように簡単に整理してみた。本来デザインは社会からの形の要求に対して可逆的に振る舞えるはずだったが、もはや不可逆的にしか振る舞えないのではないか?という点であり、これに対して「どのような人」を「どのような環境で」という2点を操作することでデザインは社会に対して可逆性を取り戻せるのではないか?と考えている。

2.1970~の焼き直しとしての現代建築

1970-1990sのPost Modernismの発生が世界の混沌と共にあったことと2020s〜の世界や国家の情勢が強く重なるように感じている。

確かに、1972年のローマクラブの「Limits to growth」の発表以降の「Self aid movement」「These Rural universe」などの紹介されたムーブメントは、今もリバイバルするように建築に求められている役割になっている。気候変動問題の重大化(ローマクラブの際にも既に警句は存在していたが、)脱成長論やコミュニズム論、DIYやセルフビルドが盛り上がるのはSelf aid movementと酷似している。These Rural universeは「まちづくり」というキラーワードが建築家以外でも多用する人が増え、同時に地方のコミュニティシップの開発、それと連動した地域性のある建築なども現在、数多の建築家が行おうとしていることと同様だろう。なんというか、この状況に対して自分は批判的であり、1970-1990年に極地に達したことを今なぜか建築表現としてもう一度繰り返してしまっているように思う。社会が建築に繰り返すように訴求していても、建築としては社会に何を提示したいのだろうか?という問いに答えられてないように思う。これは建築家の「存在としての大きさ」や「言葉の力」が低迷したことに繋がるのではないか?

自分としても今20代として社会状況、世界の状況と隣り合わせで建築を学び生きている意味を考えるべき時に来ていると思う。

3.クリティカル・グリーニズム

グリーン/グリーニズム/クリティカルグリーニズムという考え方を中谷教授の講義で教わった。グリーンは言わずもがな「緑を用いよう」という提唱であり、グリーニズムは少し飛躍して「緑を用いるべき」、クリティカルグリーニズムは「どのように緑を用いるべきか?」。この3つがグリーンというこれからの建築の重要な要素への対峙の仕方であるという。

隈研吾の「負ける建築」などの論は建築家の作る建築という存在をいかに勇敢な存在ではないものとして、暗に人々に受け入れてもらい、PRするべきかを提示しているし、その上で脱炭素的文脈を汲み取って「グリーンにすべき」という社会からの建築への訴求をうまく受け入れ戦略的に建築に昇華しているように思う。
しかし社会に受けてしまうのだから仕方がないと思うが、個人的に「グリーニズム」(=緑化するべき)への社会的賞賛は「人類が地球からいなくなる準備作業」な気がしてならない。「できる限り全体を持たない建築の姿」を礼賛するというのは自然に対しての人類の遠慮や背後にある畏怖や諦念であり、「みんなが楽しそうな姿を必ずパースに入れること」はユートピア的な最後の楽園としての建築の姿ような....生命または人間的に自然との付き合いに対しての諦めの姿を感じとってしまう。それよりかは経済と付き合いつづけることを選んだのだろうか?
デカルト的自然観とは全く対比するような姿であり、人工に対しての確実な批評であり、プラトンの言う「人の作る模倣は遊びのようなもので真剣に従事することじゃない、神の創造物だけが本物だ。人がつけ上がり自然を理解したなどと勘違いする為の技術なら不要である」というような感覚に立脚しているように思う。
安直な自然の受け入れ方ではなく、対峙し尊重し励まし合うような関係性で自然というものと建築を扱いたいと思った。

4.社会的孤立に対して建築ができることは何か?を真剣に考えたい。

昨今、唐突な殺傷や犯罪行為をする人間を総称して「無敵の人」と呼称したりする。彼らを放っておくと何をしでかすかわからないと普通だと自認する人々が言う。自分はそのような互助的な精神ではなく自己責任論で片付けられることに忌避感を持つ。そして、そのように振る舞うしか結果なかった人々、逆に無敵の人だからと呼び解釈してしまうことに対しても、ハードとして何らかの「建築の弱さ」が現代の社会に効いてしまっているからではないかと思ってしまう。

コルビジェの輝く都市はある意味超越的な近代の人間観が前提に立った空間だからこそ成り立つ物だと思う。そして、日本が進めてきた都市計画、住宅計画、地域計画もそのような人間観を前提に据えて設計されてきた。しかしそのような人間観、そしてそのハードで営まれる人間同士のコミュニケーションアーキテクチャが崩れていると今わかってしまう時、空間や都市はどのように変われば良いのだろうか?
いわゆる「社会的孤立」を感じないようなアーキテクチャを都市も空間も含めどのように成り立たせることができるだろうか?

空間は平等な、ある意味で人権的なものなはずなのに、なぜ資本を持つ人間のみが空間を購入でき、そしてコミュニティに属せたり、はたまたデベロッパーとしてトップダウンに振る舞えたり、豊かさの尺度にならねばいけないのだろう。社会的孤立や人の寂しさを助長させているのは実は今の建築生産の現場や設計者なのではないだろうか…
高度経済成長/住宅ローンの発生/郊外都市の発生/人間性の低下や同質化…みたいなことを成長と引き換えに起こし、社会的な孤立や事件、不安定性を生み出しているような気がしている。

民主主義も同様だ。伝統的な家族観も空間が変わらないと変化は難しいんだろうなとか、新しい社会規範やムードみたいなものを受け止める器としてのハードが存在できてないんだろうななど。
今社会にとって本質的に必要な建築とは、「簡単にお金になる空間ではない場所にあるのではないか」などとか思ったりする。

ブロードエーカーシティとは、都市の集中を避けてその機能を田園に融合させ、大地に密着した生活をするという民主主義のための都市計画である。

5.美学の更新、再生産しない新たな美学を打ち立てること

Aya Talking With Joi in Tokyo 2022.に参加した。伊藤穰一さんのお話からとても重要な気づきを得たと思うので断片的にまとめておきたい。

変化する速度が最も遅いのはNATURE、しかし最もインパクトが大きく重要度が高い。今現在、焦点を当てるべきはNATUREでありFASHONやCOMMERCEではない。ネイチャーがあってカルチャーがあって…ゆっくり進むものがちゃんとしていないといけない、循環を作らないといけないという。
「アートとサイエンスとエンジニアリングとデザイン、全部が必要になっていてこれが循環しているんですよ。サイエンスは自然の情報をナレッジに変える。エンジニアリングはナレッジを利便性に変えることができる。デザインはそれを社会へ。そしてアートは社会をperception(認知)し、イメージに変えてまた科学へ。これがひとつのループなんです」
→アリストテレスの著作には建築(アルキテクトニケー)に関する記述が頻出する。 そこで繰り返されるのは「全体を統べる術と、その者としての建築家」。つまり「何を統合していくのか?」の対象を変えていこうということ。
ナチス政権下で潰されたバウハウスは「建築を総合芸術」という前提のもとにあらゆるものづくりの新たな美学を作ろうとしたムーブメント。伊藤穰一は「全然違うものを作ろうとする気概が必要であり、新しい美学を据えようとすることで新たなゴールセッティングが生まれる」という。

特に今回の大きな気づきは「美学を更新すること」にチャレンジしなければならないということだった。伊藤穰一さんが「A new architecture、でも結局建築はみんなガラスの平家みたいなのを作ってるよね、全然違うものを作ろうとする気概が必要だよね。その美学を作らないといけない。」と言っていたのが図星で本当に悔しくなった。決められた美学の再生産や微調整をする時代ではなくなるとき、自分は新たなマテリアルや哲学で駆動するバウハウスムーブメントを作ることが重要なのだと思った。

なぜ、モダニズムを未だに脱却できてないかというとモダニズムを超える美学が見えないからだ。そしてその美学の更新に躍起になる人間が少ないからだろう。自分は改めてここを目指したい。

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