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自費出版のお知らせとカンパのお願い


自費出版をします


 読者の皆さま、いつも私のnoteを読んでいただきありがとうございます。
 さっそくですが、お知らせがございます。
 この度は、自費出版で本を刊行したいと思います。

 もっとも、自費出版と云いましても、Kindleの電子書籍で出版するつもりです。価格は未定です。

 さて、題材は私の卒論ですが、大学時代に書いた文章なので、読みやすいように電子書籍用に手直しをしたいのと、卒論を執筆してから新しく書き加えたい箇所がありますので、加筆修正を行なったものを刊行したいと思います。一部はnoteで無料公開したいと思います。
 私の研究は、三田村武夫(1899-1964)と云う陰謀論者の思想をテーマに卒論を執筆しました。彼の名前自体、陰謀論的な歴史観を好む一部の保守論壇以外は話題にならず、戦前の昭和史でもかなりディープな専門家以外は名前すら口にしません。
 理由は、彼の言説にあります。


コミンテルン謀略説とは


 現在、三田村武夫の名前が話題になるのは、彼が1950年に刊行した『戦争と共産主義』と云う著作です。同書において三田村は、満洲事変以後の日本の政策決定は共産主義者によるスパイ工作によって操られた、と云う「コミンテルン謀略論」を展開しています。


1950年版『戦争と共産主義』の扉


 同書は'87年に『大東亜戦争とスターリンの謀略』と改題されて再刊されたさいに、晩年の岸信介が推薦文を寄せたことで、歴史修正主義的な言説を好む保守論壇から注目を集めます。


 読む程に、私は、ウーンと唸ることが屡々であった。
 支那事変(筆者注:日中戦争)を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対英米仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実(筆者注:朝日新聞記者で、近衛内閣ブレーンとして活躍し、1941年にゾルゲ諜報団員として検挙された)であったと云うのが、実に赤羅々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私(筆者注:岸は東条内閣時、商工大臣)まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
 私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。(一部、旧字体を新字体に改める)

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由選書、1987年、319頁。


 生前の岸は憲法改正を訴えており、そのため同書によせた推薦文により、東京裁判を否定し、自主憲法制定を目指す、歴史修正主義者は同書を高く評価するようになります。のちに、「コミンテルン謀略論」と云う陰謀論的な歴史観として平成時代の保守論では大変な人気となります。




 


 もっとも、歴史学では彼の主張は評価されていません。

 例えば、歴史家の秦郁彦氏は『陰謀史観』の中で、三田村の主張を酷評しています。戦前の日本の対ソ外交は「露骨なご都合主義」で運用されていたことを指摘し、「近衛、岸クラスのような指導者があっさりだまされてしまったと自認していること」は無責任で、国際政治における「だまし、だまされの駆け引きで敗れた責任逃れと酷評されても、しかたがないだろう」と痛烈に批判しています。(秦『陰謀史観』新潮新書、2012年、51-52頁)
 「コミンテルン謀略説」に関しても、秦氏は同書の第4章で、歴史学的な見地から批判を加えています。コミンテルンによる謀略は根拠が極めて曖昧で、実証性が乏しいと云うことです。

 では、三田村が著作を発表した1950年代当時はどうだったのでしょうか。

 文芸評論家で、戦後を代表する保守言論人であった竹山道雄は1955年に、先の大戦を分析し、彼なりの総括を行なった「10年の後に」と云う論考を雑誌で連載します。竹山は’50年代当時出回っていた「先の対戦の原因」に関する様々な説を批判しているのですが、その中で三田村の唱えていた「コミンテルン謀略説」に対して疑問を述べています。なお、戦時中の竹山は、旧制一高で教師を勤めており、教え子たちは徴兵されています。


あの歴史に動いた人々は、コミンテルンのふるタクトに踊り、その演出にしたがつて自ら知らずして役を演じたのだ、というのである。(略)
 すくなくとも結果からは、赤謀略説は立証されたかに見える。(略)
 三田村武夫氏の「戦争と共産主義」という本は、(略)あの歴史に踊つた人々の行動は自作自演ではなかった、すべては自ら知らずして陰の演出によつていたのだ、と説明してある。
 しかし、はたしてこれをもつて一切を鍵とすることができるであろう?あの結果をもつてそれに先行するすべてを断定することができるのであろうか?歴史はあまたの複雑な動因によつてうごくから、結果として生まれたものをもつてこれがはじめから所期されたものであつたとすることは、多くの場合にあやまつた判断となる。(略)
 赤謀略説も、日本による現在のアジア解放も、共にやはり一つの観点によつて歴史全体を体制化しようとしたものではないだろうか?
(一部、旧字体を新字体に改めた)
 

竹山道雄「十年の後に(三)」:『心』8(10)平凡社、1955年10月、20-23頁。


 竹山の連載はのちに、『昭和の精神史』と題して書籍化されます。同書は、マルクス主義的な唯物史観が優勢だった昭和期の論壇において、戦中派の保守言論人の歴史認識を提示した著作として広く読まれます。そんなわけで、三田村と同時代を生きていた保守言論人は三田村の説に対して否定的だったと云えます。

 三田村の「コミンテルン謀略説」が再評価されるのは、戦前を生きた言論人たちが第一線を退くようになった平成時代と云うことになります。『戦争と共産主義』が再刊されたのが、80年代後半だと云うのが大変示唆的とも云えます。現在の研究では、80-90年代にかけて竹山(’84年没)のように、戦争を体験した世代が亡くなり、幼少期に戦争を経験した世代に保守論壇が担われるようになり、その世代を中心に過去の戦争への再評価を主張する歴史修正主義的な言説が唱えられるようになったと云います。三田村の「コミンテルン謀略説」と同書の再刊は、平成の保守論壇が歴史修正主義的な言説を唱えるようになったのと符合します。

 

 



三田村武夫とは 


 もっとも、私は歴史学者や保守言論人の書いた本を読むうちに、ある盲点を気づくようになります。それは、『戦争と共産主義』を執筆し、「コミンテルン謀略説」を唱えていた三田村の経歴がよくわからないことです。彼の主張していた「コミンテルン謀略説」を高く評価している保守言論人なら、「どうして彼がこの本を書いたのか」と云う問題意識のもと、彼の評伝を書いてもおかしくはないのですが、皆無でした。
 大学のOPACで調べたところ、’50年に刊行した『戦争と共産主義』以外にも戦前から大量の著作や論考を発表をしていたことが判明しました。ところが、「コミンテルン謀略説」を唱えている保守言論人はまったく触れていませんでした。それどころか、彼の経歴すらよくわかりませんでした。

 そこで、ウィキペディアで三田村の経歴を取り上げた記事をみることにしました。



 その結果、以下のような経歴であることがわかりました。


 三田村は1899年に、岐阜県揖斐郡川合村(現・大野町)で生を受けた。
 1928年から’32年まで内務省警保局に勤務していた。
 ’32年から’35年まで拓務省管理局に勤務していた。
 ’36年に第19回衆議院選挙に選挙に立候補するも落選するが、翌’37年の第20回衆議院選挙では当選し、国会議員になる。
 ’42年の第21回衆議院選挙でも当選するが、翌’43年に警視庁に逮捕される。
 ’46年に公職追放を受けた。
 ’51年に公職追放が解除された。
 ’55年に第27回衆議院選挙で、鳩山一郎が総裁を務めていた日本民主党から立候補し、当選する。
 その後は、当選と落選を繰り返すも、自民党議員として活躍し、’64年に死去した。


 三田村が亡くなったのち、国会で弔辞が読まれ、その中で三田村の経歴と活躍が触れられ、具体的にどのような人物だったのかが触れられています。



 その中で、戦前の三田村は「中野正剛」と云う人物と深い関係だったことが触れられ、「師弟を越えた同志だった」と述べられています。

 そこで、私は中野正剛と云う人物を調べることにしました。

 中野に関しては、ある程度情報が集まりましたが、調べていてわかったのは、戦前に大政翼賛会の結成に関与した人物だったことでした。また日独伊三国同盟の締結に熱心だったことも当時のニュース映像からわかりました。



 


 端的に云うならば、中野は戦争を推進していた人物だったわけですが、その人物のもとで三田村は政治家として活躍していたことになります。
 これは戦後の三田村の主張と矛盾があります。
 戦後の三田村の主張では、共産主義者の陰謀に気づいたから政界に入ったわけで、満洲事変以後の戦争は共産主義者のスパイによって引き起こされ、彼は戦争を止めようとして弾圧を受けたと云う説明になっています。
 ところが、戦前の三田村は明らかに、戦争を煽る立場の人間でした。そうでなければ、中野に仕えていません。

 では、三田村は戦前と戦後に主張を変えてごまかしたのでしょうか?

 ウィキペディアに記載された略歴をみると、そう読めてもおかしくありませんし、同時代を生きた人たちもそのようにみていたようです。

 ただ、私は三田村本人が一体どのような人物のかがわからないことに気づきました。怪しい経歴に、二転三転する政治的立ち位置の人物は、自身の利益を追求してやまない、ただのマキャベリストにみえるかもしれません。

 しかし、国会で読まれた弔辞のなかでは、三田村は一貫した政治的な言動を取っていたと述べられています。ただのお世辞だったとも云い切れますが、三田村は生前に膨大な量の著作を残し、国会議員にも5回も当選しています。

 私はそこで三田村が生前に書いた文章をなるべく多く収集することにしました。古書販売専門サイトである日本の古本屋を利用しましたが、ほとんどが市場に流通していない絶版本のために、大学の図書館にお願いして、国家図書館に収蔵された書籍をコピーしました。雑誌に投稿した論考も全国に収蔵されている戦前から戦中のマイナー雑誌からのコピーを注文しました。

 また三田村の故郷で、彼の選挙区でもあった岐阜県にフィールドワークに行きました。地元の図書館や資料館、役所を回りました。地元紙を読むことができ、地元の選挙民に三田村がどのような顔をみせていたのかがわかりました。やはり、文字だけではなく、実際の現場に行くといろいろな発見があります。おかげで、国会図書館に収蔵されていない資料を発見することができました。

 そんなわけで、合計10万字を超える卒論が完成しました。

 今回は、その卒論をもとに、Kindle本を出版しようと思うわけです。


新資料!?皆さまのカンパのお願い


 そんなわけで、Kindle本を出そうと考えているのですが、ここで皆さまにお願いがございます。

 それは三田村の研究に新しい進展がないのかネット検索をしていたところ、資料収集で使用していた日本の古本屋の出品で、今までみたことがない資料を発見したからです。

 


  昭和24年、つまり1949年に三田村が刊行した冊子のようです。
 ちょうど一年後には、『戦争と共産主義』を刊行し、そのさらに一年後にはGHQから公職追放を解除されます。

 書名は「東方会及東方同志会について-超国家主義団体に非ざる理由とその証拠・証言及び資料」となっており、国会図書館にも岐阜県の資料館にも収蔵されていない資料です。

 「東方会」と「東方同志会」は戦前に三田村が仕えていた中野正剛を総裁に据えていた政治団体で、三田村も所属していました。しかし、戦時中に東条英機と中野が対立したことで、解散させられました。
 
 云わば、三田村の古巣であるわけですが、本書の副題には「超国家主義ではない理由」がしるされています。「超国家主義」は政治学者の丸山眞男の造語で、意味は「極端な国家主義・ナショナリズム」を指します。今風に云うならば、「極右」「ファシズム」「全体主義」と云えます。丸山は戦後に、「極端な国家主義・ナショナリズムが日本を戦争に導いた」と分析し、国内外を問わず広い支持を得ました。そのため、戦後の日本の論壇では「超国家主義」は否定的な意味で使われることが多いです。

 事実関係としては、三田村も超国家主義を信奉している人物のはずですが、この書名をみると、「自分とその仲間たちはそうではない」と云う弁明をしています。

 一応、公職追放期間中の資料はあるはあるのですが、マッカーサーなどGHQの関係者に送った資料は知っているのですが、この資料はみたことがありません。

 もしかしますと、まだ未発見の資料の可能性が高いです。

 そこで、皆さまにお願いがあるのですが、カンパをいただけないでしょうか

 同書の値段は、55,000円と大変高額で、私の所持金ではとうてい払えません。もっとも、おかげでまだ買い手はいないようです。
 一応、原稿自体は卒論の手直しをすれば、すぐに完成するのですが、未発見の資料があるのでしたら、ぜひ追加したいです。

 生前の三田村は論壇とは無縁の人物で、自費出版の本も多く、中には散逸したとみれられるものもあります。もしかしますと、同書も同様だと思われます。

 なお、カンパの金額は皆さまがお支払いできる金額で構いません。
 
 どうぞ、よろしくお願いいたします。


 購入可能な金額が集まりましたら、報告記事を上げたいと思います。


追記:1月30日
 
記事を読んでくださった方からのカンパで書籍を購入することができました。
カンパをしてくださった方には、お礼を申し上げます。
書籍が届きましたら、再度記事に上げたいと思います。 


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 現在、私はnoteマガジンで、東大教授で経済学者の安冨歩さんの著作書評を連載を長崎大学の技術員の野口大介さんとともに行なっています。
 もし、よろしければどうぞ読んでみてください。
 記事を書いている野口さんへのスキとサポートもお願いいたします。


2023年2月17日追記

カンパのための口座番号の箇所を削除しました。悪しからず。

最近、熱いですね。