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アイドルオタクが「推し、燃ゆ」を読んでみた

2021年1月20日水曜日、いつものように、仕事終わりで疲弊しきった私にとってのオアシス、近所の本屋に足を運び、衝撃的なタイトルの本に出会った。

「推し、燃ゆ」

ん?なんだこの本は。
推しのアイドルが炎上した?

タイトルを見ただけで、アイドルオタクの私は、本能でこの本を読みたいという気持ちになった。

そして、本の上の方にポップアップがあることに気づく。

「芥川賞受賞作!」

へえ、この本芥川賞取ったんだ。
推しというワードチョイスだけに、若い人が書いた本のような気がするけど、推しが炎上した話をどう描くんだろう、結末はなんだろうと惹かれた。

しかし私は、明後日の本屋のポイント2倍の日に買って読もうと思い、その日は買わずに帰路に着いた。

それが間違いだった。

次の日、本屋に行くと、「推し、燃ゆ」は全て売り切れていた。
近所の本屋を巡れど巡れど、どこも売り切れで見つからない。

まさか、こんなにすぐに反響があるなんて、あの時買わなかった自分を殴りたい。


そして毎日本屋を巡り続けて1週間が経過した頃、ようやく大きな本屋でソレを見つけた。

求めていた本との感動的な再会を果たし、1冊手に取りレジへ。
家へ着くなり、すぐに読み始めた。

久しぶりに本を一気読みした気がする。

元々小学生の頃は、かなりの本好きで、毎週土曜日、お昼ご飯を食べた後に、父に車で図書館に連れて行ってもらっていた。
そこで閉館まで本を読み漁り、好きな小説を10冊ほど借りて家でも読み、次の週に返却をし、また新しい本を借りる、というルーティーンを送っていた。

大人になるにつれ、日々の仕事に忙殺され、なかなか本を読むということができなくなっていたが、久々に時間も忘れて読んだ。


これは、かなり面白い。

「推し」がいる人は、もれなく読んで損はない。
是非一度読んで欲しい。

共感をするシーンもたくさんあるし、何より今までオタク活動をしてきた中での、言葉にできなかった、もどかしい思いや考えを、そうかこういうことだったんだと納得させてくれた。
オタクをしている身からしても気づかなかった、深い、深い「推しを推すこと」の真髄に迫っている、ある意味「推すこと」へのバイブルとも言える作品だと感じた。

もちろん「推し」がいないという人にも読んでもらいたい。
世の中には、こういった世界が本当に存在しているということを知れる作品でもある。


21歳の若い作者が表現した、「推し」とは自分にとって、どのような存在なのか。どう人生にかかわってくるのか。

複雑で多様な現代を生きる若者が書いた文章らしさがありつつも、綴られている言葉の趣深さから、古典文学的な味わいもある作品だと感じた。

後から知ったことだけど、作者の宇佐美りんさん自身も俳優の推しがいるそうだ。
だからこそリアル感のある、「推し」のいる世界について描かれているのだなと感じた。


「推し」という言葉は、近年ようやく一般社会でも通じるようになってきたと感じる。
俗にいう芸能人を指すだけでなく、「推しコスメ」や「推し服」などの単語も、雑誌の表紙に見かけるようになった。


しかしそうは言っても、未だにその実態が理解されていないことも多く、作者の宇佐美りんさんも、「推しを推すこと」とはどういうことなのかを世の中に伝えたいと思ったことが、作品を書いたきっかけらしい。

「推しを推すこと」は趣味における、一つのジャンルである。
しかし一方で趣味の範疇を越え、人生の一部となっている人も多い。
理不尽な社会をなんとか生きていく上で、「推し」というのは、唯一無二の必要不可欠な存在なのだ。
ただ、人生の一部となってしまっているからこそ、楽しいことばかりではなく、苦しいことや様々な葛藤が付きまとうこともある。


この本の物語は、「推し」であるアイドルがファンを殴り、ネットニュースで炎上したことから始まる。

ちなみに、私自身も推しがネットニュースで大炎上し、出演中の舞台を降板、数ヶ月の芸能活動自粛という処遇になってしまったことを経験している。

その経験もあってか、この本で綴られている言葉たちが痛いほど身に染みた。


普段、オタク活動をしていく中で渦巻く、嬉しさや楽しさ、悲しさなどの感情を、ひとくくりに言語化することは、正直難しい。
何故って、推しに対する感情は、本能から湧き上がってくるものに近いから。

しかしこの作品の中では、そんなオタクの言葉に表すことのできない思いを、秀逸な言葉を紡ぎ合わせて、代弁してくれている。

そしてこの物語の中の最大のキーポイントが、「背骨」であると私は考える。

「推し」を、自身の背骨のようだと語る主人公「あかり」。

普通は周囲の生活を彩ることで、人生に肉付けをし人生を豊かにしていくのだろうが、あかりは違う。
すべてをそぎ落として、背骨だけになってゆく。
「推し」がすべての中心になっていく。



何かにのめり込んだことがある人はきっとわかると思う。
普通の人間的な生活を送るための時間を投げ打って、全身全霊をそれに注いだ経験が、一度や二度とあるのではないかと。

私自身も、1か月続いたコンサート期間中は、夜な夜な推しに見せるカンペうちわ作りに没頭し、週末の土日はコンサート会場へ足を運ぶ。
平日はコンサート代とグッズ代を稼ぐために、会社へ自分の時間を売りに行き、仕事が終わると、本屋で推しの出ている雑誌をチェックし、帰宅後は延々とSNSでその日のコンサートのレポを読み漁る。
グッズも、少しでも推しの食い扶持に繋がるならばと、同じ推しのうちわを複数枚買う。
時間もお金も推しへ注ぐ、初めはたまにコンサートに行って楽しんでいた趣味が、いつの間にか自分の人生の中心になってきてしまうのだ。


物語の中では推しを心臓でも脳でもなく、なぜ背骨と表現しているのだろうか。
命の源である心臓でもなく、全身の司令塔である脳でもない、体の中心を通ってる背骨。

それは、心臓が動いていても、脳が機能していても、体を支える背骨がなければ、動くことができないということが、推しを背骨に例えた所以だと感じた。

そういえば余談だが、この間食べたホタルイカの刺身も、最後に残るのは背骨だけだったな。


あかりは、「推し」の炎上をきっかけに、ますます自身の肉を削ぎ落し、生活もままならなくなってゆく。

いつだって「推し」はあかりの人生そのものと重なっていて、二人分の体温や呼吸を感じていた。
あかりは、自分自身がぼろぼろになって、滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、いっそのこと自分から滅茶苦茶してしまいたかった。
そう語るあかりは、「推し」が炎上してしまったことで、果たしてそれまでの自分の人生に、後悔の念を抱くのだろうか。

きっと私はNOだと思う。


推しが炎上したことで、離れていくファンも一定数いるのは事実だ。
もちろんそれは個人の自由だし、仕方のないことでもある。
むしろ、推しがいる人にとっては、明日は我が身と思って、日々過ごしている人も少なくないであろう。

しかし、たとえある時に炎上をしてしまったとしても、今まで人間として生きることを支えてくれたのは、まぎれもなく推しだ。
状況がどう変化しようとも、推しがその時間をくれた事実は変わらない。

あかりも、「推し」と一緒に人生を歩んできた時間を、確かに存在していた事実を、否定せずに、前に進んでいって欲しいと願う。

そしてそれは呪縛のように付きまとうものではなく、ふとした時に思い出して、頬を撫でる柔らかな風のような存在になって欲しい。


推しを推すことが生きる上での一部となっている人にとっては、推していること自体が時には苦しくなることもあるし、辛くなることもある。
それだったら推すこと自体を辞めてしまえばいい。誰かに強制されているわけでもない。


もちろんそれも選択肢のひとつだ。
辞めることを選んでもいい。

しかし、たとえ推すことを辞めたとしても、それが生きる上での原動力になっていたのは、紛れもない事実なのである。

だから、決してそれまでの自分自身を責めずに、否定せずに、生きていって欲しい。


私自身もいつか、人を推すということが生活の一部でなくなる日が来るのかもしれない。
それでも、そこにたどり着くまでの道筋には推しがいてくれたことを糧に、きっとその後の人生も歩んでいくんだろう。

でも今はまだ、推しの力が必要なので、自分なりの距離感でこれからもオタク活動は続けていく。



テレワーク中にこっそり書き上げた「推し、燃ゆ」の感想は以上です。
ご覧いただきありがとうございました。

推しがいる皆様、それぞれ自分なりの推しとの関わり合い方で、楽しく人生が送れますように!


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