見出し画像

色んなことをできなくなった私が、今感じていること

  ずっと、「役に立たないといけない」と思い込んできた。それはずっと深い根のように、私の身体と心に隅々まで張っていた。
でもーーー、いろんなことができなくなった今の私には、セカイはこう映っている。

  今の私の世界には、救うべき存在も、か弱い存在も助けてあげないといけない存在もない。
すべては、完成品のような、そんな個として存在が成立しているような存在。
自分が介入してあげないと「救われない存在」などひとつもないんだということに気づけた。
地球にあるすべてのものが、地球自体も含めて
それぞれの自由意志にもとづき、その生を全うしていること。


「可哀想」と思うこと、思っていたことの傲慢さに気づく。
思えば、私の目のフィルターを通して見ていた世界は、不安定なものだった。「止まらない環境汚染」「行き過ぎた資本主義経済」「高齢化や少子化」「日本の未来への不安感」「高齢化した農業のこれから」。そんな感じで今までの将来の夢は、そういう外側の問題を解決したくて、なにかを「救いたくて」決めていた。

  とにかく不完全感、不安定感。自分自身に対してもだし、私のフィルターを通した世界に対しても同じだった。全ては解決すべき問題でいっぱいだった。
  だから私は、いつもグラグラの石の上に立っていて、少しでも力を抜いてバランスを崩すと崩れ落ちそうな心地だった。どうしたらこのグラグラ感を止められるのだろうと、常に必死だった。とにかくこの石のグラグラを止めよう!!と努力した。みんなみたいに「普通」に幸せな気持ちになりたくて、普通に追いつくために頑張った。

  そして、今まで「普通」にできていたことができなくなって、やっとその石の上から降りることができた。グラグラを止めるんじゃなくて、降りたら良かったことに気づいた。

そっか、何も外側を解決することはないのか、外側の問題に対して自分が努力する必要はないのかと気がついた。

  自分が介入しなくても、そこにいなくても、困る人などいないということ、私がいなくてもセカイは回るし、それでも大丈夫と知ったことは大きな安心感を生んだ。

  自分が頑張らなくてもセカイはまわる、何も困ることはない。それはなんにもできない自分でも存在していてもいいという絶対的な安心感に繋がった。

  もう私は、私という仮面を外して、私にかえれるんだ。

  今までの肩ひじを貼りすぎて、うまく呼吸できなかった頃を思い出す。

  それはとても愛おしくて懐かしい。

でも、もう戻りたくはないし戻ることもしなくていいと、このセカイを知って思う。

  もしこのセカイで、救ってあげる存在があるとすればそれは自分だ。

  ずっと、自分を救うかわりに、誰かを、なにかを救おうと思っていた。それが生きる使命だと思っていた。自分の生の理由だと。

  そして同時に救いを誰かに求めていた。
なぜ救われないのか、笑顔の下でずっと叫んでいた。

  そしてやっと静かな答えが自分のなかに浮かび上がった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?