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幸せになりたければ神さまに祈るか、もしくは「〇〇〇」しよう。

今日、仕事で京都に行きました。
さすがに寺社がすごく多いです。
仕事の現場も、お寺さんでした。

そんな流れから帰りの車では、
ついつい宗教の話になり、
「海外の宗教信仰はすごいよ」
とか言う、ごくありがちな会話になりました。

次第に話は深まっていき、
「人間の行動と、宗教の関係」
という具合に発展しました。

そこで私は仮説を立てました。

「そもそも人間は自己判断力がそこまで高くない生き物ではないか?」

要するに、本当は人間はなよなよした存在で、
「どうやって生きていくべきか」とか、
「これはすべきだ、あれはしちゃいけない」
とか、自分の行動に対する判断を、
一人では決められないのではないか。

だから、世界中が宗教に心を委ねて、
お告げを聞いたり、教育を受けたりする。

大袈裟にいうと「誰かに指示やアドバイス的なもの」を受けないと、1人では判断できないし、ろくに動けない動物なのではないかと。

幼い頃は親が自分の判断の指針で、
学生の頃は先生だったり、先輩だったり、友達だったり。
さらに大人になっても師匠がいたり、メンターがいたりすると心強いものです。

人間はみんなどこかしら、頼りたい存在を欲しがっている。だから宗教は広まっているんだと、はじめにそう考えてみました。

一方で日本の場合はどうか。
日本は無宗教と呼ばれます。
実際そこまで強烈に宗教を信仰している人も少ないです。
だから恐らく日本人には生まれつき、
「生きる上での判断指針が、海外に比べて少ない状態なのではないか?」
と、考えました。

一昔前まではそれが「政府」で、
政府の言うことが教科書のようでした。
学校も政府の「伝言係」に過ぎなかったし、
政府の意向に反すると、罰せられたとよく聞きます。実際、天皇は神のような存在として崇められました。

なぜそんな時代があったのかと言うと、
当時の日本では経済的にも軍事的にも、
海外に追いつけ追い越せという時代。
そのために国民の一致団結が重要視され、
そのような宗教じみた洗脳教育が出されたんだと思います。そしてこんな風潮は、近代では明治維新から終戦の頃まで続いたとされます。

そこで私はこう考えました。

「そんな時代を生きた人たちは、言い換えると現代人よりも自己判断の必要性が無かったのではないか?」

間違っているかもしれませんが、
とにかく言われたことをやるしかできないので、自己判断の選択肢がそもそも少なかったのだと思います。
だから、なんだか昔の人は「我慢強かった」
と言われるのかな、と。

しかし、
「それって、我慢強かったんじゃなくて、外部強制力がハンパなかったから、我慢するしか選択がなかった。」
と言えるのではないかと、僕は考えます。

そう言うと、「いやいや、私たちの親世代、だいたい50代以上の人達も、戦争を知らなかったよ」と言われます。
たしかにその世代の人たちは、国家の強制力が弱まった時代を生きているはずです。

しかし、その親世代はどうでしょう。
祖父母の代は当時を生きています。そんな世代に直受けで、もろに育てられたから、
「親や目上の言うことは絶対」的な、
すごく忍耐が強化される教育を受けて、
育たはったのではないか?と私は思います。


ここで私が思っていることは、
そんな昔の世代の人たちが、間違っているとかいうことではありません。時代の風習がそうだっただけです。
しかし、逆に今の若い人たちを見て、
「根性がない」とか「好きなことばっか」とか、色々言うのも、違うと思います。
それも、ただ時代の風習が原因であると思います。

ただし、私が最も懸念していることは、
現代人の「幸福度の低下」だったり、「精神病や自殺率の高さ」です。
なぜ世界の中でも割と豊かとされる日本において、この数値が高いのでしょうか。

その理由には社会構造など、あらゆることも含まれているはずです。
しかしその中で、今回の話題の、
「宗教」、その信仰心の無さ、
これも現代人が病みやすい、一つの原因ではないかと考えました。

要するに、先述の通り、
「人間はそもそも判断力が低い」
と仮説した場合、
その基準となる師匠やメンター、宗教などの存在がなければ、
「どうしたらいいかわからない」
となってしまうのではないかと思いました。

特に、悩んでいる時など。
近くに親身に相談に乗ってくれる人がいなければ、何に頼れるのでしょうか?

もし、宗教信仰心の強い人や、海外の人なら、神や教会の先生に頼るのかな?とか思いますが、日本ではその存在がない。つまりいざと言うときに、頼れる存在がいない状態です。

これをどうしたものかと考えた際、
今から宗教信仰心を日本人につけるのはナンセンスで難しいと思います。
まずその手間が異常にかかり、現実的な話ではないです。
それと、「宗教信仰心のなさ」、それを活かすべきだとも思います。

要するに、
「皆の先生(神)はいないから、その分みんなで助け合おうよ。」
っという具合になって、
誰か困っている人がいるとき、
そばにいる人や見つけた人が、
ちょっとでも優しい声をかけてやる。
またはそんな空間が広まる。
そんな人間味の深い、人間の心の豊かな国の、
モデルケースになれるのではないか?
っというかなろうよと、僕は思います。
(日本には神道がありますが、国民の信仰度合いの話なので、「心にある・なし」で記載しています。)

なぜか人々は優しさに対して、「恥ずかしい」とか「お節介」とか、「人のことまで知ったこっちゃない。」的な思想があるように思います。でも、辛いときに優しくされて、嫌に思う人はそんなにいないはずです。みんな少しでも助けられた気持ちになるし、たとえ0.1%、少しでも幸福に近づくと思います。

無宗教であるが故に、もっともっと心温かい国民が増えればいいなあと思います。
優しくすると、自分も幸せです。
そして、必ずその優しさが自分にも返ってきます。優しくし合うと、みんな幸福です。
そんなこんなを第二京阪の寝屋川北ICあたりで考えていました。