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【音楽バトン】Like A Rolling Stone|音楽と文:ケンヤ・マルセイユ|石垣島の奏で vol.7

どうもです!

一緒にイベントを仕掛けたり、遊んだり飲んだりする音楽仲間であり、尊敬する先輩でもあるKUNIさんからバトンを受け取りました、石垣市登野城出身のケンヤ・マルセイユです。

石垣市内某所にて、愛犬ベルと

えっ?登野城出身の島人なのに何故に名前がカタカナなのって?

まぁ、よく言われます。というか、この名前で自己紹介した時に間違いなく聞かれます。

実は、僕の本名はれっきとした島人らしい「宮良 賢哉(みやら けんや)」といいます。

ところで、「宮良」という名字は石垣島で一番多い名字といわれていて、僕が小学生の頃とかは男女合わせてクラスに3~4名位はいたので、石垣島では「宮良」姓の人は下の名前で呼ばれることが殆どです。病院など不特定多数の人が多いような場所だと、我々「宮良」姓に対しては特にフルネームで呼ばないと、沢山の「宮良」が集まってきてちょっとした騒ぎになってしまいます。

さて、話しを戻して、ケンヤ・マルセイユという名前の由来を今回はお話します。
少し長くなりますが、どうぞお付き合い下さい。

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僕は中学卒業を期に、沖縄本島の興南高校(今年も甲子園へ沖縄県代表として出場することが先日決まった、特にスポーツで有名な学校)へ進学しました。その理由は、興南高校には「音楽科」というものが存在していたからなのですが、実は僕が入る年からその学科が無くなっちゃったのです(笑)

そもそも今考えると色々順番がおかしいのですが、「地元の高校に行くくらいなら進学しない!」と親も先生も嫌々説得して、島を離れて沖縄本島に行ける、高校に合格したら音楽を学ぶぞ、とやる気満々だったのに、担任の先生が入学願書を持ってくる時にとても気まずそうに「けんや、実はよ…」という感じで、翌年から音楽科はなくなるというショッキングな事実を聞かされたのですが、既に沖縄本島で暮らしている自分をイメージしていたのもあり、今更後戻りは出来ない気持ちになっていたので「まぁ、いっか。島を出て新生活送れるなら」と、気持ちを切り替えて受験勉強に勤しみ、なんとか合格できたわけです。

まぁ、そんな感じで興南高校に入学してからは、普通にバイトしたり、別の学校の友だちとバンドしたり、海外留学したいと学校を辞めようとしたり、定時制学校に転校しようとしたり、国際通りにあった喜納昌吉の事務所に入り浸って缶バッヂなんかも作ったり辺野古フェスの企画を手伝ったり、青年海外協力隊に入隊したいとまた学校を辞めようとしたりとか色々ありつつも、本当になんとか無事に卒業出来ました。(父上母上、その節は誠に申し訳ない...)

卒業後の進路として、本当はイギリスに留学したかったのですが、興南高校のルートではアメリカ留学しかないということで、当時の僕はUK ROCKをきっかけにイギリス文化への憧れが強かったり、沖縄本島では基地問題とかもあったりしたので、そんなに好きでもない場所に数年間も行くのは嫌だなぁ、どうしようと思い悩んでいたら、「とりあえずいったんは県内の英語を学べる大学に進学したらどうか」と英語の比嘉先生(フォークグループのピーター・ポール&マリーが大好きで、見た目の風貌から生徒には裏でジョンと呼ばれていました)からアドバイスを貰い、「まぁ、いっか。2年後に留学するか」と沖縄キリスト教短期大学の英文科へと進学しました。

その大学生活も結局はそこまで乗り気でもなかったのもあり、故に学校に馴染めないのもあったのか、特に決め手としてはクリスチャンじゃないのに授業にミサへの参加や聖書のレポート、賛美歌合唱等が組み込まれていたり、日系アメリカ人の白人の先生が「ジャズやブルースは偉大なアメリカの文化だ」と言っているのがやたら腹立たしかったりしたのもあり、途中で行くのを辞めて退学しちゃうのですが。

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大学を辞めるあたりから、当時好きな子にフラれて日本縦断の旅に出たり(夢半ば、半分の東京で終わりましたが)、那覇新都心のTSUTAYAでバイトをして、そこの上司がなんとクラブでDJをしているということで、深夜に仕事が終わった後に皆でクラブに遊びに行ったことから僕の人生は大きく変わっていったような気がします。(その頃読んだ「矢沢永吉/成り上がり」も大きく影響)

そのクラブの名前は、火の玉ホール。

ヒップホップやポップスなど流行りのUSチャートの音楽がメインだった当時の那覇のクラブシーンの中で、唯一良質なジャズやソウル、ハウスミュージック等が流れるクラブとして、音楽マニアやサブカル好きな人など、知る人ぞ知るクラブが火の玉ホールでした。残念ながら今は閉店してしまっている伝説のクラブとなのですが、そのクラブのオーナーのキーチさんが、ケンヤ・マルセイユという僕の名付け親なのです。

名付け親のキーチさんと僕@石垣島・メガパラ

師匠気質というか、野球狂というか、とにかく偉大すぎるDJの師匠に「ケンヤ、次からお前のDJネームはケンヤ・マルセイユな」と思いつきで言われたのですが、もちろん断る余地もなく、周りのお客さんや先輩達にも「皆、ケンヤ・マルセイユっていい名前と思わない?俺が考えた。ガハハハ。」といった感じで広められたのもあり、「まぁ、いっか。なんか面白いし」ということで、そのまま名乗っているという訳です(笑)

那覇国際通りの熱血社交場前にて。一番右下が20代の僕

そこからは、火の玉ホールや他のハコでもイベントを企画したり、沖縄市の商店街でエセ音楽教室開いたり、沖縄こどもの国でもDJしたり、ハイパーメディアクリエイターの高城剛さんと出会ったり、そこから故郷の石垣島へ帰郷するきっかけが生まれたりしたのもありますが、字数がオーバーしまくっているのもあり、ここらへんでおいとまします。

またの機会に!
(実はその後から島の音楽トークが...)

またあとからねー★

僕のバンド、ケンヤマルセイユオーケストラのメンバーでもあり、都内のインディーズバンドシーンでも活躍していたバンドのボーカル、MAD CITY a.k.a.松戸市出身のNAOちゃんにバトンをお渡しします!


ケンヤ・マルセイユ
体は石垣島生まれ、心はアイルランド育ち。生まれた瞬間から大殺界、嫌なことは寝たらすぐ忘れるポジティブシンキングの持ち主。大好きなアーティストはボブディランとジョーストラマーとソウルフラワーユニオン。大好きな映画はフォレスト・ガンプと耳をすませば。大好きなお酒はハイボールとコカレロ。将来の夢はレストランのオーナー。


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