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『故郷を見上げて』
その男は突然話しかけてきた。
「僕、あそこに帰りたいんです」
年齢は同じ30代半ばあたり。
同じようにスーツを着ている。
一見、普通のサラリーマンだ。
昼休み、公園のベンチでサンドイッチを食べ終わった頃に隣に腰掛けてきた。
そして、突然話しかけてきたのだ。
「僕、あそこに帰りたいんです」
その男は空を指差して、もう一度言った。
ここは関わらない方がいい。
席を立とうとした。
「思い出したんです。僕の先祖はあのあたりから来たんだと」
刺激するべきではない。
ゆっくり、ゆっくり。
「あなた」
いきなり呼びかけられて、動きが止まる。
「あなたの先祖もそうなんですか」
「いえ…僕は多分違うと思います」
「そうなんですか」
がっかりする男を残して、仕事に戻った。
事務所で同僚にその話をすると、
「僕も、そんな人に出会ったよ」
と話しだした。
ある休日の昼下がり。
幼稚園に入ったばかりの息子を連れて妻と3人で公園に出かけた。
しばらく、子供と一緒に走りまわった後、少し休憩しようとベンチに腰掛けた。
すると、目の前でずっと空を見上げている人がいた。
50歳くらいの女性だ。
ずっと空の一点を見つめて動かない。
その目から涙が流れているのを見た時、たまらず声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ええ」と女性はこちらを見ずに話し始めた。
「あそこに、私の故郷があるんです」
「えっ」
「あそこに、私たちの故郷があるんですよ。もう帰れないと思うと悲しくなって…」
妻に息子を連れて離れるように合図した。
「どういう意味…ですか」
「あなたは平気なんですか。自分の故郷に帰れなくなって」
これ以上関わると長くなると思い、その場を離れた。
「危険な感じはなかったんだよ。すごく自然というか、何となくそんなこともあるだろうと納得している自分がいたんだよね」
「でも、多分、変な人だよね。その人も、僕が今日出会った人も」
説得するように話している自分が不思議だった。
家に帰ると、妻に今日のことを話した。
すると、
「実はあの子もね」
と幼稚園に通う娘のことを話し出した。
昼過ぎに幼稚園から電話があった。
迎えに来て欲しいと。
娘が帰りたいと泣いて仕方がないという。
すぐに迎えに行くと、先生が泣きじゃくる娘を連れてきた。
先生に頭を下げ、娘を車に乗せようとするが、なかなか乗ろうとしない。
おうちに帰るんでしょと言うと、うんとうなづく。
しかし、車に乗せようとすると、いやいやをする。
違うの、おうちに帰るの。
だから、おうちに帰るのよ。
最後には無理やり後部座席に放り込むようにして、帰ってきた。
虐待を通報されそうで嫌だった。
「でも、あなたの話を聞いて思い出したんだけど」
「何を」
「あの子がおうちって言ったときに、指差してたのよ、空を」
次の日出勤してみると、昨日話をした同僚が欠勤していた。
そして、日を追うごとに、欠勤者は増えていった。
それは、この周辺だけではなかった。
ネットニュースを見ると、全国的に、いや世界的に、同じような報告が増えていた。
症状としては、同じだ。
空を見上げて、そのまま無気力になる。
最初は、見かけた人にも空を見るように勧める。
あるいは、帰りたいと訴える。
やがて、言葉も失い、何も話せなくなる。
ただ、ぼーっとしているだけ。
当初は、精神疾患の専門家がテレビで持論を展開していた。
「これまでの社会のツケが、ここにきていっきに噴き出してきているのではないでしょうか」
しかし、やがてそういう専門家も少しずつテレビから消えていき、空を見上げるようになった。
もう、会社に行っても仕事にはならない。
出勤しているものは、ごくわずかだ。
取引先も、ひとつ、またひとつと休業状態におちいった。
かかってくる電話は1日に一本あるかどうか。
入っていた清掃業者も休んでいるため、社内は汚くなってきている。
街を走る車の数も少なくなってきた。
歩いている人はほとんどいない。
電車の本数も減ってきた。
駅で1時間以上待つのは、当たり前になってきた。
時刻表があてにならないので、とりあえず行って待つしかない。
社会機能は麻痺していた。
家に帰る。
灯りは朝からつけたままにしておいた。
何も言わない娘に食事を与える。
妻は、暗いテラスで空を見上げている。
ゆっくり、手をひきながら部屋の中に入らせる。
こちらにも食事を与えた。
家の中は、どこも散らかっている。
新聞やチラシ。
新聞ももう不定期にしか来なくなった。
古い雑誌。
何を思ったか、妻が引っ張り出した衣服。
その衣服にくるまるようにして眠りについた。
翌朝、目覚めると、感じた。
ついにかと思った。
胸の奥から湧き上がるような郷愁。
押さえつけようのない、悲しみと寂しさ。
その気持ちは、ひとつの方向を指し示していた。
それは、見上げた空の、さらに向こう。
宇宙の彼方。
そして、同時に、感じてきた。
自分の身体の組織の奥深く、人類の誕生からこの身体に受け継がれてきた、太古の記憶。
そうか、これがそうなのか。
娘や、妻が体験したことなのか。
記憶が蘇る。
ここは地球ではない。
地球かもしれないが、故郷ではない。
故郷の星はもう、無くなっているかもしれない。
その星が何らかの原因で住めなくなる。
我々は何億光年もかけて、この星にやってきた。
そして、この星にあった微生物と我々のDNAを関連づけると、故郷の記憶と記録をDNAから消し去った。
我々は、この星に誕生したものとして生き始めた。
我々はこの星で順調に進化して、進歩してきた。
この星の生物のひとつとして。
しかし、何千年もの時を経て、DNAに異常が生じた。
消し去ったはずの、我々が生まれた星の記憶が蘇ってきたのだ。
何千年もの時を駆け抜けて。
故郷の星に、この星の言葉はなかった。
だから、取り戻した記憶とともに、言葉を失っていく。
妻の横に立って空を見上げる。
少しずつ、考えることが困難になっている。
その悲しみを表現することさえ難しい。
妻も、娘も同じ気持ちだったのだろうか。
仕事に行かなければ…考え終わるまでに言葉が消えてしまう。
部屋の中に広げられたままの新聞が目に入る。
もう、何日、何ヶ月前のものかわからない。
戦争の犠牲になった女の子の写真。
あの地域でも、もう戦争はなくなっているだろう。
みんな、黙って故郷を見上げているに違いない。
それを、平和というならば。
あの子は、ここが故郷だと信じたまま…
なぜ、我々は…故郷を離れてまで…
そうだ、娘…
帰りたい。
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