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「家族全員で夕飯の食卓を囲む」こういう時代になって気がつけた私の大切にしたい時間。

父親と平日に夕飯の食卓を囲む?

私は、子供時代、平日の夜に父と食卓を囲んだ記憶というのがありません。
よくよく考えると、小学校1、2年の頃は、朝も起きたらいないことがあった気がします。

もちろん両親の仕事にもよると思うんだけれど、今の20代後半くらいまでは同じような人も多いんじゃないでしょうか。

一つ前の記事でも触れたけれど、私たちの親世代は、
「妻は家庭を守り子供を育て、夫は稼いで女房子供にいい思いをさせる。そういう家庭を築いてこそ一人前だ。それが一人前の大人の幸せというものだ。」
と言われて育った世代。

その価値観が、転換しようとするかしないかぐらいの世代。

高卒の母がデパートに就職したのが1981年。
院卒の父が外資系大手企業に就職したのが1984年。
男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年。

子供と食卓を囲める時間に帰るよりも、一生懸命にはたらいてたくさん稼いで帰るのが、家族のためにすべきこと、という世代であり、その価値観が、転換しようとするかしないかぐらいの世代。

就職して、結婚して、夫婦で夕食をともにすることはほとんどなかった20代

1990年生まれ、2012年新卒の私自身はどんなことを思って育ったのかといえば、「女は家庭、男は仕事」という部分こそ持っていなかったけれど、「がむしゃらに働いて、社会で認められて、良い給料をもらったら多分一人前で、それが幸せだ。」そんなふうに思って成人し、自分に課して就職したように思います。

だから就職した当時、深夜まで残業することは美徳だと思っていたし、眠れなくなってもストレスで食事が摂れなくなっても、仕事をし続けることが私が一人前である証、のように思っていた気がします。

結婚してからも、平日21:00までに夫も私もふたりとも家に帰ってきているなんて、何回あったかな。
職場でコンビニ弁当食べて終電で帰るか、仕事を終えて21:00か22:00から飲みに出るか。

私にとっても、夫にとってもフルタイムの仕事をしながら、「平日に家で一緒に食事を作って、食べる」なんていう選択肢はなかったように思います。

それはお互い、仕事に出ている父親と食卓を囲むことがなかった世代だからなのかもしれません。

そう育った私達にとっては、それは当たり前のことだったし、いいとも悪いとも思っていなかった気がします。

子供が産まれて気がつく「なんかしんどいぞ」

2018年に娘が産まれて、子育てをするようになって、子供の食事を用意して、食べさせ、お風呂に入れ、と自分以外の世話をする生活が加わってみて、ようやく「なんかおかしいぞ、これ一人でやるってしんどいぞ」と思い始めたように思います。

でも、私達に娘が産まれたという変化があっただけで、社会は別に変化したわけではない。
だから、働き方も、世の中の仕組みも変わらない。
「あー仕事しながら子育てって大変、世の中の仕組みに文句言いたくなっちゃうなぁ・・・いかんいかん、文句言わずにもっと頑張らないと」と日々疲れて布団に倒れ込むだけの日々だったように思います。

コロナ禍で「家族で夕飯の食卓を囲めること」の素晴らしさに気づく

2020年娘が2歳。
感染症のまん延で、唐突に社会が変わり、自宅で仕事をすることが当たり前になって、毎日家族3人で夕飯の食卓を囲むことが日常になりました。

週末に作り置きした冷凍のおかずではなく、その日に作った作りたてのおかずに、炊きたてのご飯を食べることが当たり前の生活に、なんて幸せで、充実しているんだろうと気づきました。
子供一人の世話を二人でするって、なんて楽チンで余裕があって、穏やかなんだろうと気づきました。

でも感染症に世の中が少しずつ慣れ、また「組織におけるリモートワークの弊害」が明るみに出始め、週に5日だった家族3人の食卓が、4日になり、3日になり・・・再び減っていきました。

そんな中で、「毎日家族と食卓を囲んで夫婦ともども子供との会話を楽しみたい、その日作った温かいできたておかずの感想をいいあいながら、ご飯を食べたい」という想いがとても強くなりました。

それは、私にとっては大切な価値観なんだと気が付きました。

昨日閉店間際のスーパーで、値下げに目がくらんで勢いで買ったローストビーフ用のブロック肉。
始業前にせっせと夫が仕込んで、仕事をする間冷蔵庫で10時間ほど寝かせ、夕飯時にせっせと切り分け盛り付けてくれる姿をみて、
「美味しいねーーーちょっとかたいけど・・・」なんて感想をいう自分と「かめなーーーい」と大爆笑する娘に目をやって、
4年前、娘が産まれた頃はこんな時間当たり前じゃなかったし、この尊さもわからなかった、そう思いました。

今はこれが大切な大切な最優先の時間だし、「本当は私はずっとこうしたかったんだ」と違和感なく思います。

価値観が変わったのか、もともとあった価値観に気がついたのか

「リモートワークをするようになって、家族と過ごす時間が増えて幸せだ、ずっとこうしたかった、やっと社会の仕組みが自分の価値観に追いついたぞ!」という人もいるのですが、私は逆の感覚です。

世の中の仕組みが自分の価値観に追いついたのではなく、世の中の仕組みの変化によって、自分の本来の価値観が引き出された感覚。

本来ずっと「がむしゃらに自分をすり減らして、働くことより、家族で食卓を囲むことのほうが幸せだ」という価値観は私の中にあったけれど、「それは良くない価値観だ」と蓋をしてきたように思います。

自分の両親や、周囲の大人たちの価値観にどこか引きずられ、また「限界まで働くこと」を前提とする社会の仕組みに引っ張られるようにして、「がむしゃらに自分をすり減らしてコミットすること、働くことが最優先で、素晴らしい」という価値観を自分に押し付けてきたような気がするんです。

それが、環境が、世の中の仕組みが変わってみて、「あ、私本当はこうしたかったんだ」と気付きをもらったように思います。

「価値観が変わる」
よく使う表現なんだけれど、実は自分の価値観ってずっと前からそこにあって、いろんな理由で蓋をしたり、見えないことにしてきたりしているんじゃないかなと思うんです。
だから「価値観が変わる」は本当は「価値観に気づいた」なんじゃないかなって。

こういう価値観を持ってもいい、と許された/許せた感覚というのかな、そんな気がします。

不便なことだって多いけれど、自分自身の大切な価値観に気づくきっかけをくれた、この社会の変化には「気づきをくれてありがとう」と言いたい、そんな気持ちになりました。

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