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セレンディピティを学びに活かそう

1.はじめに

今日は勉強の仕方というか、学ぶ際の姿勢について書いてみます。


生徒、特に受験生を見ていると、「必要のないもの」「役に立たないもの」を排除しすぎだと思うことがあります。受験科目と関係のない授業では内職をするとか、寝るとか。


でも学ぶ上で、「必要のないもの」「役に立たないもの」なんてないのです。一見何の関係もないところに、思いがけない学びの種があるかもしれませんよ。


2.セレンディピティとは

セレンディピティという言葉をご存じでしょうか。イギリスの政治家・小説家であるホレス・ウォルポールの『セレンディップの3人の王子』という童話に由来する言葉です(ちなみにこのウォルポールは、首相としてイギリスの責任内閣制の発達に貢献したロバート・ウォルポールとは別人)。


セレンディップとは今のスリランカのことで、セレンディピティとは、「何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを、偶然見つける能力・才能」のことです。


私はなるべくセレンディピティを感じつつ日々過ごすことを、習慣にしています。


3.『海に書かれた邪馬台国』

上記の定義では、もう一つセレンディピティについて分かりにくいかと思うので、具体例を出します。先日私は、『海に書かれた邪馬台国』という本を読みました。



この本自体は、何せ45年も前に書かれた本なので、その後の考古学的発見とか研究の成果が反映されていないため、一般的にはあまり読む価値はないかと思います。私が読んだのは、たまたま父の蔵書を眺めていたら目につき、そもそも邪馬台国論争自体についてあまりよく知らないので、読んでみようかなと思ったからです。


著者の田中卓さんは九州説と近畿説のうち九州説を取っており、その根拠もなかなか興味深かったですが、私にとっては邪馬台国論争と関係ないところで発見がありました。


この中で、当時の人は九州の大村湾から有明海の間の1㎞足らずの地峡を、曳き船で越したのではないか、という説が展開されています。なぜならそこに「船越」という地名がある上、古代において他の地域で実際そのようなことを行ったと思われる記録がある、というのが田中さんが掲げる根拠です。


4.マレー半島横断路

本当に古代の人が大村湾から有明海の間で曳き船を行ったかは専門家の議論にお任せしますが、これを読んで私が思い出したのは、東南アジア経由の東西交易で使われた、いわゆるマリン=ルート(海の道)とか海のシルクロードと呼ばれるルートのこと。


7世紀にスマトラ島東部にシュリーヴィジャヤ王国が成立したことで、そのルートに大幅な変更が加えられるのです。それまではマレー半島横断路が使われていたのですが、シュリーヴィジャヤ王国の成立により、マラッカ海峡経由のルートが一般化します。


この「マレー半島横断路」というのが、実は長年教えていて、よく分からないポイントでした。例えば実教出版の『世界史B新訂版』には、「荷物を積みかえて陸上輸送」したと書かれています。この記述から私は、マレー半島の西で一度船を降り、荷物を持って陸路で横断し、半島の東側からまた別の船に乗ったと思っていたのですが、何か手間がかかりすぎているし、東側でそう都合よく次の船が見つかるのかなと、どうもモヤモヤしていました。


でも上記の田中さんの説を読み、つながりました! そうか、曳き船をした可能性もあるな、と。

で、家にある一番大きい地図でマレー半島を見たところ、クラ地峡というのが見つかりました。ついでウィキペディアさんでクラ地峡を調べたところ、大当たり! マレー半島の西のアンダマン海に注ぎ込むクラ川の上流域と、半島の東のタイランド湾の支湾の最も狭いところは44㎞しか離れておらず、最高点は75mだそうです。これなら曳き船も、一応不可能ではありません。


もっとも、狭いといっても44㎞です。積み荷は別に運ぶとはいえ、船を人力で44㎞引っ張るのは、やはり無理かもしれません。でも曳き船の可能性に気づけただけでも、私にとっては大発見でした。


<追記>

後日、1988年放映のNHK特集「海のシルクロード 第8集 黄金半島を越える」を観ていたら、船でマレー半島を越える再現実験をしていました。陸に引き上げた船をゾウに引っ張らせる方法で、残念ながら半島の反対側にたどり着く前に船は壊れてしまいましたが、曳き船が行われた可能性は濃厚であるようです。


5.マラッカ海峡

ちなみにそもそもなぜ、そのまま船で通れるマラッカ海峡経由のルートを使わず、マレー半島横断路が使われたかという理由は、以下の3つです。


①マラッカ海峡経由のルートはマレー半島を迂回しなければならない。

②モンスーン(季節風)を利用するためには数ヶ月、下手すると1年近くの風待ちが必要なことがある。

③浅瀬も多くて航海の難所で、海賊も出た。


でもシュリーヴィジャヤ王国の成立で、航海の安全については確保されたので、マラッカ海峡経由のルートが一般化したわけです。そのあおりを食ったのが、クラ地峡のあたりからタイランド湾をはさんで向かいにある、メコン川下流域にあった扶南です。マレー半島横断路が使われなくなったことで、扶南は衰退に向かいます。


6.クラ運河

なおクラ地峡ですが、近年また注目を集めているようです。マラッカ海峡は現在においてもオイルタンカーなどが通る大動脈ですが、マラッカ海峡が抱える問題が、またクローズアップされてきたからです。


上記の3つの問題のうち、2のモンスーンについては、今時船は帆船ではなくエンジンで動くので良いとして、1と3の問題は解消されていません。特に3ですね。船の大型化に伴い、海峡の一番狭くて浅い部分であるマラッカマックスを通れない船も出てきているとか。なお海賊なんて今時もういないと思っている方もおいででしょうが、ばっちりいます。


というわけで、スエズ運河やパナマ運河のように、クラ地峡にも運河を通そうという計画があるそうです。古くは17世紀に、すでに構想だけはあったらしいし、19世紀末にはスエズ運河で有名なレセップスも、建設の約束までは取りつけたものの、イギリスに妨害されて諦めたそうです。当時、シンガポールを含めたマレー半島南部はイギリスの植民地でしたから、シンガポールの貿易港としての有益性が失われることを嫌ったのでしょう。かつての扶南同様、間違いなく打撃を受けますからね。


もちろん当時以上に各国の思惑は交錯しつつも、クラ運河建設についての、結構具体的な計画が現在あるようです。


7.セレンディピティを利用した学び

……脱線に次ぐ脱線で、だんだん本題が何だか分からなくなってきましたが、セレンディピティを利用した学びについてです。


つまり私は、たまたま読んだ本により、思いがけず長年の疑問解消へのヒントを得たわけです。言うまでもなく、邪馬台国の本を読むことで、マレー半島横断路についての疑問解消へのヒントが得られるとは思っていませんでした。さらに言えば、クラ地峡やクラ運河計画についても知ることができました。まさに「探しているものとは別の価値あるものを偶然、見つけ」たわけです。


だからこそ私は、「学ぶ上で『必要のないもの』『役に立たないもの』なんてない」し、「一見何の関係もないところに、思いがけない学びの種があるかもしれ」ないと最初に書いたのです。


ちなみに私はセレンディピティという言葉を、スリランカ旅行のためにいろいろ調べていた時に知りました。つまりこの言葉を知ったこと自体、セレンディピティだったと言えます。見出し画像はその時の旅行で行った、シギリヤ・ロックです。


これを読んだ皆さんも、ぜひセレンディピティを活かし、学んでください。「私にはセレンディピティなんてない」と思う人もいるかもしれませんが、セレンディピティって一度経験すると、だんだん能力が磨かれていくようで、次々に起きるようになりますよ。



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