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trayo 'dhvna


こんばんは、猫好きのお坊さんです。

今月よりまた週1noteが始まるということで参加させて頂きました。

前回同様、頑張ります。ゆるゆると。

どうぞ、よしなに。


さて、記念すべき第三回の第一回(ややこしい)ですが、何を書きましょう。

仏法をゆるゆると書いてゆく心算でいたんですが、最初に大きいの書いちゃった所為で何書いてもそこに帰結しちゃうんですよね。

『全ての生物は母なる海に還る』みたいな。

なので、とりあえず初めましての方は『adṛṣṭa phalam』をお読み下さいませ。

教行信証を読むよりは容易いと思います。


で、今回のお話は、ですね。

『なんでお坊さんになろうと思ったんですか?』に対する答えを記しておこうかと思います。

自己紹介も兼ねてね。(した気になるだけだけど)


これは、誰かに会うと十中八九必ず聞かれることです。

まぁ、自分でもそうだろうなと思います。私も相手側だったら聞くかな。

それに対する答えは、正直今まで自分でも理解してなくて、とりあえず「実家がお寺で」「祖父に憧れて」という毒にも薬にもならんような何の面白みもない答えでお茶を濁してきました。

ですが、そんな問答に自分でも飽きてきたのでそろそろちゃんと考えてみました。

やっとこさミルク寒天程度に固まったので、晒しますね。


先ず初めに、『どうして僧侶?』という問いへ答えるには私という人間の価値観や世界の捉え方から説明してゆく必要が御座います。

その私が持つ世界観というか思想は、『三世思想』に基づいたものなのかなと考え到りました。

これは、ざっくりいうと『過去・現在・未来』という時間軸で世界を捉える思想です。

他にも「前世・現世・来世」とか「親・子・孫」とか色々ありますが、今回の話では上記の意味に定義します。

時間軸で世界を捉え『過去・未来』を考えるということは、つまり『現在』が全てではなくなるということを意味します。

私の生きている『現在』は、『過去』と『未来』の『つなぎ』としての存在になるわけです。

では、そんなパイプ役の私は現在で何をすれば良いのか。


ここでは、そもそも私達(とりあえず人間と定義)の目的とは何だろうという問いを持ちます。

その結論は、生物として『生命(存在)を繋ぐ』ことにします。

なので、パイプ役の私が現在でしなければならないことは『存在を繋ぐ』為の行為です。

では、『存在を繋ぐための行為』とはなにか。


これは、ざっくり分けて2種類です。

・生殖、個体の維持

・生存環境の保全


分かりやすくするために金魚さんで例えます。

一つ目は、そのまんまの意味です。

金魚という個体を生殖だったり何らかの方法で維持します。

けれど、個体だけで金魚さん達は生きていけません。

水槽や水草、餌など生きる為の環境が必要になってきます。

それが二番目です。

環境は存在の維持に強い影響を持つとっても重要なことなんです。

だけど、本人たちではどうしようもないことでもあります。

つまり、二番目の『環境』は「存在を守ろうとする他者」によって守られるものなんですね。

ここから読み取れることは、存在の維持には個体を維持する『自己』と環境を維持する『他者』の双方が必要ということです。


これは人間も同様だと言えるでしょう。

しかし、違う部分が一つ。

人間は金魚さんと違い、自己でもあり他者でもあるということです。

各々がそれぞれ、個体の維持と同時に環境の保全も担う存在なのです。

これはとても重要で、難しいところです。


どうして難しいのかというと、その二つの役割を兼ねようと思うとやっぱり『生殖』に偏ってしまうんですよね。

現在の「結婚して当たり前」の風潮とか、正にそうと言えるでしょう。

それはそれで大切なことなのですが、先述の通り個体だけでは存在を維持できません。

環境の保全を担う存在も必要です。


ってなって、現れ出たのが宗教です。

以前の記事でも書いてきたことなんですが、宗教(主に仏教)は「人間という集団で生きる為の教え」なんですね。

それはつまり、『環境の保全』です。

仏教者が妻帯を禁じられたりしたのも、個体の維持から離れて環境の保全に従事する為だったのかもなぁ。とか、ふと思いました。


ですが、文明の発達とか治安の良化によって宗教による環境保全の必要性も薄れてきました。

それでうまくいくんなら別に良いんですが、世情を見ていると不肖私なんぞは『やっぱり宗教は必要』なんじゃないかと感じるわけです。


理由は色々あるんですが、一番大きいのは明治以降より訪れた欧米文化の流入かなと。

その歪みが今になって結構響いて来てる気がします。ね。


そもそも欧米文化って何ぞやという話から始めますと、ここで用いるのは至ってシンプル。

『主語を持つ文化』と『主語を持たない文化』です。

日本語を英訳してみるとよくわかりますよね。


『山が見える』

『I can see the mountain.』


これね、訳せてないんですよ。

この文章に限らず、日本語は英訳出来ないんです。

だって、英訳すると全ての文章に『私は』が入ってしまうから。

日本語を見てください。


『山が見える』


この文章のどこに『私』があるのでしょう。

他にも、欧米文化が入る前の文章に『私は~』という文言は殆ど無いと思います。

それは、日本人は己の身の内に『他者』の存在を宿せる種族だったことの表れではないかと感じました。


この『日本人』にとっての『他者』ってすごく面白くてですね、これを深めていくとめちゃんこ楽しいんです。

楽しいんですけど、また長くなってきたんで今回はこの辺で切り上げます。


来週へ続く~



ありがとう、だいすき。