見出し画像

短編小説:便利な世界の不自由な私へ 〜現代社会と戦う子持ち様の話〜

 皆さんは、エジソンという大罪人をご存知ですか。

 そうです。数多の発明品を生み出し、発明王と呼ばれたトーマス・エジソンの事です。彼は配電システムを構築し、電気を普及させた技術革新の功績者でもあります。

 人類が夜遅くまで活動できるようになったのは彼の功績によるものです。一般家庭でも電気が使えるようになり、人類は夜を克服しました。夜の暗闇を照らすこの電灯も、彼の発明と言われているとかいないとか。

 夜を克服した人類は昼夜問わず働けるようになり、生産性を向上させました。技術革新はさらなる技術革新を生み、今日の便利な世界が出来上がったわけです。おかげで私もこうして技術革新の祖に照らされながら夜の10時になっても会社のパソコンに向かう事ができ、今も終わらない仕事に頭を抱えているのであります。

 天才エジソンが私にもたらしたものは、不自由でした。

 いや、きっとこの不自由をもたらされたのは私だけではないはずです。この間退職した稲田さんだって、ほぼ毎日夜の10時半まで残業していましたから、きっとそうです。先週終電に乗った時も疲れきった顔をしたサラリーマンが何人もいましたから、絶対にそうです。時代を超えて多くの人々に不自由をもたらしているのだから、やっぱりエジソンは大罪人だと私は思うのです。

 エジソンがこの夜を照らす灯りさえ普及させなければ、私は2歳の息子を母に預けてこんな夜遅くまで仕事をすることなんてなかったはずです。電気なんてものがなければ、私は今頃2歳の息子と川の字になって家で寝ているはずです。そもそも、人間は夜になったら寝る生き物のはずです。そうですとも。人間は、日の入りの時刻には家に帰って家族で過ごし、ご飯を食べて寝て、それから日の出と共に起きて、また一日を始める生き物のはずではありませんか。それが本来の人間らしい生活ではありませんか。

 よくよく考えてみると、この世はあまりに便利になり過ぎました。便利によって得られたものが不自由であったと、なぜ多くの人は今だに気付かないのでしょうか。これだけ不自由になったのに、なぜ人類は進化したと思い込んでいるのでしょうか。なぜ現代は昔に比べて発展したなどと、過信しているのでしょうか。

 昔の人は有能でした。出来ない事をちゃんと受け入れて、無理のない生活をしていました。
 その日に必要な分のお水を汲んで、食べる分だけご飯を準備して、自然にあるもので道具を作り、消費する。必要品は物々交換したり、お下がりを頂いてありがたく使う。日が落ちたら手元は暗くなり、仕事ができなくなって家に帰る。夜は危険だから外に出ず、家で静かに過ごし1日を終える。

 限りを知り、限りある中で生きる。限りがあるから、人は人の事を不完全であると認知でき、そして助け合い、許しあう事ができる。それが人間のあるべき姿ではありませんか。

 それなのに私たち現代人ときたら、不可能を可能にして、"出来ない"を無理矢理"出来る"に変えて、進歩だ向上だ革新だと持て囃し、人類を不自由にさせています。

 無理をする事は、進歩じゃありません。無理をしたところで、現実のいま目に映る生活は向上しません。もはやQOLなんてものは低下します。それに、技術革新で人類が自由になったかというとそうでもなくて、技術が発展するたび人類は奴隷化されるが如く働くようになり、逆に不自由になっているとさえ感じます。 

 私だって本当は仕事なんてしないで、2歳の息子をぎゅうっと抱きしめて1日を過ごしたいです。「お仕事終わったら迎えにいくからね」って約束して、泣いて嫌がる息子を無理矢理保育園に送り出して仕事に向かう生活は、これっぽっちも豊かではありません。結局仕事が終わらなくておばあちゃんに迎えに行ってもらう生活は、実に不本意です。本来母親はいつでも子どもの近くにいて、子どもが遊びに行けば帰ってくるのを待っていたいものなのです。それなのに、なぜ現代は子供が母親の帰りを待つなんてことになっているのでしょうか。こんな現代の不自由な生活が、豊かなわけありません。

 この間、某SNSで「子持ち様」と揶揄された投稿が流れてきました。「子どもの体調不良で早退したり欠勤して周囲に迷惑をかけるな、誰がそれを補ってると思ってるんだ」という怒りの投稿でした。

 投稿元が職場の同僚でした。2つ年下の働き盛りの独身の女の子、マミちゃん。結婚前はたまに飲みに行ったりしていた子です。私が妊娠してからは飲みに行くこともなくなり疎遠になっていましたが、産休に入る前には「先輩が居なくなったら寂しいけど、元気な赤ちゃん産んでくださいね⭐︎」と言ってくれたので、ずっと可愛い後輩だと思っていました。

 職場復帰し息子を保育園に預けるようになってから、家族共々頻繁に風邪を引くようになりました。子どもの体調不良だったり自分の体調不良だったりで、早退や欠勤ばかりするようになりました。職場の同僚達には申し訳なく思っていましたし、迷惑をかけている自覚もありました。ただでさえ短時間勤務の復職で職場はマンパワー不足になっているのに、途中で帰られたり休んでばかりされたら迷惑ですよね。まあ、だから、マミちゃんの投稿内容はごもっともな内容でした。

 ただ、知りたくないことだってあります。

 悪口を言われても仕方ないと思うんです。実際迷惑をかけているのはわかっていますから。でも、そう言ってるのを直接聞くとなると、流石にしんどいじゃないですか。

 SNSで簡単に人とコミュニケーションがとれるようになって、全く便利な世の中になったもんだと私も思っていました。産休育休中もSNSで会社の同僚達と繋がれていたし、出産報告もSNS上で済ませました。育児の悩みもSNSの繋がりで解決することができたし、共感して救われたことだってありました。そうです、私も現代の便利さを過信した人類の1人だったわけです。

 そんな矢先、SNS上で知りたくもない同僚の悪口がスマホというプライベート空間に突然流れ込んできました。名前こそ伏せられていましたが、すぐに私のことを言っているのだとわかりました。私と繋がっているのに、そんな投稿をするマミちゃんの気が知れませんでした。腹立たしく思いました。直接言えばいいのに。いや、直接言えないからこうしてSNSで晒しているのかと一人で納得しつつ、聞きたくない、見たくないものを自分の意思で選び取れない不自由さを感じました。

 職場の同僚をブロックするのは、今後の関係を考えると出来ない手段だと思いました。SNS上で言い返すのは大人のする事ではないと思いました。じゃあ会社で本人に直接「あんな投稿するのはやめて」と言ったら?シカトされるか「えー?別に先輩の事じゃないですよー⭐︎」と返答されるのが目に見えました。

 同じ職場である以上、関係を悪化させられないと考えました。

 私はSNS上で見たもの飲み込み、胃の中でぐちゃぐちゃにして消化する事にしました。マミちゃんにもいつも通り挨拶をするし、打ち合わせだって丁寧にしました。休憩所でのおしゃべりだって笑顔でしました。マミちゃんも今まで通りでした。そう、全て今まで通り。SNS上ではあんな事を言っていたのに、どちらかが謝るでもなく、まるで何事も無かったかのように、今まで通りです。これが最先端を生きる現代人の対人関係。これが発展した現代の知性的な生き方なのです。

 私は同僚のSNS上での遠回しな「子持ち様に迷惑している」通告を受け、短時間勤務をやめる決心をしました。もちろん自主的に。マンパワー不足はずっと自覚していましたから、みんなの力になれるようにという思いもありました。早退・欠勤を繰り返す免罪符にしたかったのも否めません。ただ、上司にはなるべく定時で帰りますと念押ししました。上司は快諾して「人手不足だから助かるよ。みんなでなるべくサポートしていくよ」と言ってくれました。私の母も保育園のお迎えに協力してくれると言うので、甘えることにしました。夫も早く上がれる時はお迎えに行ってくれるという話でした。周囲のサポートがあればなんとかなると信じて、私はフルタイムに復帰したわけです。

 ところがいざ蓋を開けてみると、全く定時で帰れない生活が始まったのです。上司は定時になると「大丈夫?俺もう帰るけど、出来ないことは周りに頼んでね」とニコニコしながら帰って行くし、周りに頼めることを頼もうとすると「あー、僕別案件抱えてて余裕ないんすよ」と言うし、知らない間にそそくさ帰る人だっている始末。暫くぶりに例のマミちゃんの投稿記事に目を通してみれば、イイネが18もついていました。別案件の彼もまたイイネをしていました。内心は皆そう思っていたんだと思ったら、周囲に助けを求めようがない状態になりました。

 そうして私は残業に残業を重ね、保育園のお迎えに行けなくなりました。結局夫も残業ばかりで碌にお迎えに行くことはなく、母に頼んでばかりになりました。それをこの間終電で帰った後に、母に面と向かって文句を言われました。「私の子育ては終わったはずなのに、また子育てをさせられている気分。もう疲れた。子育てくらい、自分達でなんとかならないの」って。

 天才エジソンは、こんな世界を作るために電気を普及させたのでしょうか。エジソンは後世の人類がもっと明るく未来を描けるように、もしくは便利な世界で自由に生きられるようにしたかったのではないでしょうか。

 どうにもこの現代に生きる人々は、他人にも無限大の可能性を求めているように思います。不可能を可能にして、"出来ない"を無理矢理"出来る"に変えて、それは立派で結構ですけど、私も先人達のように不可能を可能にしなくちゃダメですか?家事もして、育児もして、仕事も出来なきゃダメですか?

 そんなの、無理です。無理ですよ。お願いだから、そんな無理を私にも求めないで欲しいです。私の"出来ない"をどうか許して欲しいです。私はもう八方塞がりで、不自由で、息が詰まりそうです。

 不可能を可能に変える世界では限りがありません。可能性は無限大だと過信すれば、人は無理をせざるを得ません。しかし本来、人は不完全な生き物なのです。限界があるのです。だから助け合いが必要なのです。他人の"出来ない"を許す事が、我々には必要なのです。

 人間はもっと不器用で、不恰好で、不十分でも生きられるはずなんです。そしてもっともっと自由に生きていいはずなんです。その中で助け合っていければいいはずなんです。本来、人間はそういう生き物だったはずではありませんか。

 私は来月、退職しようと思います。息子と過ごすかけがえのない時間を手に入れるために。

 まだこの事は夫にも言っていませんが、私の決意は揺るぎません。技術革新の祖に照らされながら書いたこの辞表が、その証拠です。

 私は、仕事も家事も育児も頑張るスーパーママにはなれませんでした。

 でもいいんです。スーパーママじゃなくて、私はいいんです。

 "あったら便利"は無くても大丈夫なんです。なんでもこなせるスーパーママでいられたら確かに便利だったかもしれないけど、私はただのママでいいんです。仕事をしていればお金に余裕ができて便利になるかもしれないけど、それさえも最低限あればいいんです。私は別に、不器用で、不恰好で、不十分なママでいいんです。だって、息子のママでいられる事がもう十分幸せな事であるはずなんですから。

 だから私、決めたんです。これからは、不便な世界で自由に、ただのママとして生きようって。

 書き上げた辞表を机の中に仕舞い、電気を消して、真っ暗なオフィスを後にしました。帰りの電車の中で、SNSも退会しました。もう少しで、この終電に揺られる生活ともお別れです。


 さようなら、便利な世界の不自由な私。


おわり



いつもコメントありがとうございます☺️
お返事は必ずしますので、感想やコメント書いていただけると嬉しいです😍


他の短編もあります😆✨

連載もやってます🤗

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,534件

#これからの家族のかたち

11,360件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?