ぶんがく、おんがく、かぞく
これはいつか、きっと二十歳ころに思いついたアイデアだと思うのだが、私を育ててくれたものは、文学、音楽、家族、だと思った。そして生涯かかわりつづけていくのもこの三つなのだとも。
文学というのはほとんどの場合漫画が占める、アニメも入る、ライトノベルも入る、評論も、小説も、エッセイも。これらの文脈において語れるすべてのものを私は「文学」だと思っている。
音楽に関しては、小学校の頃は合唱。中学校、高校は吹奏楽、そして大学はジャズだった。そのほかにもアニメソング、JーPOP、生まれる前から聞いていた松任谷由実または荒井由実、さだまさし、チューリップ、オフコース、太田裕美、それら親世代の親しんだ音楽も含む。
家族。父、母、兄。かれらは私に文学と音楽を与えてくれた。
父は市役所で働いて金を稼ぎ、それを私達に与えてくれた。これはけして当たり前のことではない。父がそう決めて、実行してくれたから私達が生きられた。
母は洗濯し、ご飯を作り、掃除をし、私を病院に連れて行ったり、学校まで迎えに来てくれたりした(私は病弱だったのだ)。これも当たり前にできることではない。母がそうすると決めて、実行してくれた。小学校の修学旅行は私が退院後二ヶ月も不登校をしていたので、その復帰のきっかけとして参加したのだが、それに母はついてきてくれた。どうやったらあのいつまでも少女漫画だけ読んでいる女子大生みたいな母が、そんな力を出し、決断をし、一泊二日の江ノ島までついてきてくれる気持ちをいだけたのだろうか。子供達と少し離れたところで、引率の先生とも少し離れたところで、雨の中遊覧船の甲板に立ってほほえんでいた母の姿を覚えている。江ノ島の砂浜でも後ろのほうに母がいた。それはそう、全日程ついてきていてくれたのだから。
母は、私とお兄ちゃんを軽自動車に乗せて、夏休みに高崎の映画館にも連れて行ってくれた。立体駐車場のおじさんに謎の罵声を浴びせられ、ぷりぷりしながらも(でも深く傷ついていることがわかった)、車をえいやと駐車場に停めて、子供たちでごった返す古くて狭い映画館に行った。映画館の床は赤いカーペットで、ロビーは暗くて狭く、私達子どもにとっては死ぬほど心躍る場所だった。パンフレットを買ってもらえたりしたら、飛び上がるほど嬉しくて噛みしめていた。帰宅後にパンフレットをじっくり読むのが楽しかった。
当然父も私達三人を映画館に連れて行ってくれた。帰り道、夜の渋滞気味の高崎の道路で私はよく眠ってしまっていたように思う。父の車には私が眠ってもいいように、広げると上掛けになるが普段はクッションになるためのチャックがついている、原田治のネコ柄の寝具が常備されていた。私はそれを掛けられてよく眠っていた。他にも眠った私に掛けるための布が何かあった気がする。
父とはたまに二人でも出掛けた。いわゆるドライブというやつで、神川とか、なんとか、そういう、住んでいる町よりもっと田舎のほうへ車でひたすら走る。ユーミンのテープをかけ、歌いながら。今でいう道の駅みたいな、ちょっとした食事ができて、展示があって、特産品が売っている小さな施設で蕎麦を食べたりした。私の名前に紫という字が入っているので、ラベンダー色のミニチュアのランドセルのキーホルダーをそういう所で買ってもらって、それは私の宝物箱にずっと入っていた。父はイラストや文字を描いたり工作のようなことが得意で(手先が器用でまめだった)、私の誕生日には厚紙で作った、仕掛けつきの、色とりどりのカードをくれた。パラソルの形だったり、動物の形だったりした気がする。それはとても凝ったプロダクトと言えたと思う。田舎の市役所職員にしてはクオリティが高すぎる。そういうものを時間をかけて私に作って、なにかメッセージを書いて、四歳や五歳や六歳の誕生日に、くれたのだった。
兄は五つ年上で、だいぶん私を甘やかしてくれたように思う。五歳頃の私は、「お兄ちゃんと一緒に寝る!」と言って、兄のベッドに突入し、意地でも動かない、みたいな行動をとっていた記憶がある。実家の居間には、ピアノの椅子に兄と私が並んで腰掛け、笑顔でカメラを向いている写真がいまだに飾ってある。兄の買っていたアニメ雑誌「Newtype」は毎月私も読ませてもらっていた。兄の漫画は全部私も読んでいたし、よく兄の部屋に行っては新しい漫画がないかチェックしていた。兄がセガサターンを買ってもらってからは、エヴァンゲリオンのゲームやデイトナUSAというレースゲーム、センチメンタルジャーニーという恋愛シミュレーションゲームなどを隣で一生懸命に見ていた。私も結構プレイした。見るのもやるのも、ゲームはとても面白くて、夢中だった。ドリームキャストが導入されると「北へ。」という恋愛シミュレーションゲームが私の心を打ち、それもほぼ全ての時間、兄の隣でプレイを見守っていた。
家では、私が買ってもらった漫画(毎月の「りぼん」)も、母が買う漫画(隔週の「BE・LOVE」)も、兄が買ってくる漫画も、父・母・兄・私の全員が読み終わるまでリビングに置いておくという習慣があった。全員が同じ漫画を読んでいた。私は父が買ってくる小説もいくらか読んだりしたし、母が買ってくるエッセイも読んだりした。よしながふみの漫画に出会ったのも、母が「フェリシモ」という通販で注文したからだった(『彼は花園で夢を見る』『こどもの体温』)。母の本棚では、萩尾望都のほぼ全作品や、古いマーガレットコミックス(主に岩館真理子作品)、そして何より『世界でいちばん優しい音楽』、『Papa told me』が私の心と頭を育てた。萩尾望都では『ケーキ・ケーキ・ケーキ!』『この娘売ります』あたりや『百億の昼と千億の夜』が衝撃的で好きだった(百億の昼〜に関しては、ほとんど私の考えていた世界の仕組みと同じ事が描いてあったのでびっくりして、半日ほど放心していた。八歳くらいの頃)。『トーマの心臓』や少年愛が描かれている作品はそこまで心にひっかからず、その頃から同性愛は当たり前の現象として受け入れていたように思う。セックス描写もあったが、四歳ですでにセックスを理解していたので、それもすんなりと流してしまった。『あさきゆめみし』は毎回大泣きしながら読んでいた(これはいつ頃のことだったのかはっきりしないが、小学生だったと思う)。いつも父と母の寝室にある母の小さな本棚の前で、一人で何時間も漫画を読んでいた。または、「納戸」と呼ばれる物置部屋でさくらももこのエッセイを泣くほど笑いながら読んでいた。
一人で何時間も漫画や本を読んでいた記憶もあれば、兄のゲームをわくわくと「鑑賞」していたり、近所の子のおうちに遊びに行ったり、市民プールに行ったり、学校のプールに行ったり、こうして掘り出してみるとなんだか夏休みの記憶が多い。それだけ「家」や「家族」が好きで、学校はあまり好きではなかったのだろうと思う。長崎や北海道へ旅行に連れて行ってもらったのも夏休み、それは一年で一番楽しみなイベントだった。
ちいさな私。まわりの子供たちよりも一回りもふた回りも、身長や体重が足らず遊びにはついていけず、そのくせ無口でこまっしゃくれた性格だったから、集団の遊びではなかなか厳しい立ち位置だった。ほんとうに親しい、家の近い女の子の友達と二人きりで家の中で遊んでいるときは安心できた。母同士が仲が良く、よく母と二人で「みほちゃん」のおうちに「りぼん」を持って遊びに行った(みほちゃんは「なかよし」を買っていて、月末になると交換して読んでいた。毎月三日発売の漫画誌も、田舎の駄菓子屋では二十八日に手に入れることができた)。
これらはもう、三十年とか、それくらい前の、穏やかで、まぶしい、牧歌的な、平和な、北関東の田舎の家族の光景である。私は幸せな子どもだった。
家族のことが大好きで、できるだけ家から出たくなくて、サンリオのパタパタペッピーやキティちゃんが大好きで、裏の家の「やっちゃん」とは外で一輪車で遊んだりもする、無口で内向的な子どもだった。兄とはよく、庭で古いサッカーボールを蹴り合う遊びもしていた。今思えば、五つも年下の妹とボール蹴りをして兄は相当加減していたと思うのだが、私はなぜか対等な気持ちで、全力でボールを蹴りまくっており、それで兄と渡り合っているような、勝負しているような気持ちになっていた。
幸せな妹で、幸せな娘だった。
それを忘れたことはない。一度も。
ノートに何かを書くのが好きで、日記をつけていた。それら平成初期の小学生が書き残したノート類はもうどこへやってしまったのかはわからないが、とにかく昔の日記も私はよく読み返していた。
それで過去を振り返りながら、また日記を書いたりしていた。そういうことをしていたので、どうにか古い記憶を継ぎ接ぎした今の記憶が繋がっているのだと思う。
そんなわけで、話が始まる。
おそらく小学校三年生頃、兄が中学二年生頃、私ははっきりとわかった。
兄と会話ができなくなってしまった。
喧嘩になると、私が言ったことに対して、それと微妙に関係しているようないないような、全然反論になっていないことを、熱心にまくし立てるようになった。私はその日にはっきりと「お兄ちゃんとは話が通じない」と感じた。兄は私が言っていることがわからないのかもしれないし、自分の言いたいことがわからないのかもしれない。でもとにかく、意味のある言葉は返ってこなくなった。私は単に失望した。つまらないな、と思って呆れた。兄は父に怒鳴られ叱られると、力の限りに居間のドアを突き放して閉め、自分の部屋で、クローゼットや学習机などの家具を破壊した。その音がよく響いていた。
私の家では日常の風景だったので気にしていなかったが、父はよく怒鳴る人だった。典型的な、「不機嫌で他人を操ろうとする」モラルハラスメントを行う男性で、食事の前後や食事の席では怒鳴るか、下を向いて何かをぶつぶつ言っているか、とにかく、自分以外の人間はすべて自分を引き立てるための「道具」だと思っていることが、全ての行動から窺えた。私は、小学生にしてすでに「女と子どもというのは、男の道具でしかないんだ」というのをはっきりと脳内で文章化していた。父は働いて金を稼ぎ、私達はその金で暮らしている。だから私達は父の思うがままの道具としてのみ生きることを許される。それは我が家では当たり前の文法で、私はなんだか嫌だなと思うことはあっても、とくにおかしいことだとは思わなかった。
いちばん恐ろしいことは、父と二人きりになって、とても嫌な思いをすることだった。父は自分の行動やそれによって引き起こされた「不愉快」(この単語をよく使っていた)をすべて私のせいにした。そして私は子どもだったので、当然父が不快な思いをするのは、父の選択によるものではなく、他の誰でもない「私のせい」であることを疑わなかった。
兄はおそらく最初から、知能指数が低いが知的障害の枠には入らない、という境界上の児童だった。大人たちは私にはわからないだろうと思って、結構なんでも私の前で話していたので、そういう事情も私はわかっていた。そして、兄が中学二年生の頃、「キレる中二」というフレーズが流行り、暴力的な兄の行動も、そんなふわふわした社会の流れのなかのことと、親は認識していたように思う。
兄は、実はもっと前から壊れていたはずだ。父の叱責というか、おそろしい剣幕で怒鳴られるのはいつも兄だった。父は、母に対しての言動はひたすら間接的な嫌味や嫌がらせにとどめていて、暴力的な嵐はいつも兄に向かっていた。いちばん被害が小さいのは、ちいさな娘である私だったが、それでも私は、父の怒鳴り声に対してかなり深刻なダメージを受け、いつからか、母が私と兄を連れて父と離婚してくれないかと願うようになっていた。
私が家族を好きだったことと、家族が私をかわいがっていたことと、私が家族を憎み始めたことと、家族が私をたいして好きではないのだと気づいたこと、これらは私のなかで、一体どういう時系列だったのかが混乱しており、きちんと整理できた試しがない。
私は今、生まれて三十と半ばを生きたこの時点でもって生家の家族のことはおそらく嫌いではないと思うし、家族もまた、私を嫌いではないと思う。
それでも、私はもう家族とほとんど縁を切ってひとりで暮らしていくしか、これ以上生き延びるすべが見つからなかった。
さようなら、ママ、パパ、お兄ちゃん。
このnoteを長い長い手紙として書きながら、私の家族がかかえていたものは、その問題は社会の中でどう捉えるべきものだったのか、考えていこうと思います。
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