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「三十五億」の判断論

「三十五億」と言えば、ブルゾンちえみさんのあのネタである。

だがこれから書こうとしていることは、決して「お笑い論」ではない。言うなれば「判断論」である。ではなぜ「判断論」が「三十五億」なのか?

結論から言おう。

ここで僕が提案したいのは、何かものごとを判断するときに、「もし自分が三十五億円持っていても、同じ決断をするだろうか?」と考えてみるといいんじゃないだろうか、ということである。

なぜわざわざそんな回りくどいことをする必要があるのか。

勘のいい方はすでにおわかりだろうが、僕たちはなにかを判断するとき、無意識に「お金」を勘定に入れてしまう。そのおかげで、自分が本当に求めているものを切り捨ててしまうことさえある。

こんな風に書くと、「そんなことないよ」とか、「俺に限っては当てはまらんな」と思うかもしれないが、なかなかどうして、僕たちはこの呪縛から逃れられない。

いちばんわかりやすいのは、その人が選ぶ職業だろう。

誰しも、自分が一番好きなことを仕事にできたらどんなに幸せだろう、と思っているのではないか。じゃあそうすればいいじゃないか、という話なのだが、どうも好きなことを仕事にしている人はあまり多くないようだ。

しかしここで僕が問題にしているのは、それよりももっと深刻なことだ。

「自分が本当に好きなことができる職業に就きたかったけど、それが実現しなかった」ということなら、それはそれで仕方がないと思える。しかしもっと切実なのは、無意識にお金のことを考えて、「それなりに稼げる仕事」を、「自分が本当に好きな仕事」だと「思い込んでしまう」ことだ。

そしてこのような事態が起こるのは仕事選びだけではない。恋愛や結婚についても同じことである。

ある思想家は、「資本主義社会において、純愛は成立し得ない」と言ったという。自分ではそれが「純愛」だと思っていても、潜在意識の中で経済的な「打算」が働いている可能性がある、というわけだ。そしてそれは、もはや検証しようがないのである。

すごくお金持ちの異性を好きになったとして、それが本当に「お金」を勘定に入れていないのか。もちろん自分でそう思い込むことは可能だが、「絶対そうなんだ」とは言いきれないのだ。

ここではそれが倫理的にいいとか悪いとかはどうでもよい。その当事者が、あるいはその当事者同士が、それで了解できればよいのである。

しかし、できることなら、そういう潜在的な「金勘定」じゃない、自分の魂が求めるような選択をしたい、と望む人もいるだろう。そういう人に提案したいのが、冒頭に述べた「三十五億の判断論」である。

たとえば誰かと結婚したいと思ったとき。一生やっていく仕事を見つけたとき。いちど自分に問いかけてみるのである。

「もしいま自分が三十五億円持っていたとしても、同じ決断をするだろうか?」と。

「お金に困ることは全くない」状態で、なおかつその人と一緒にいたいか。あるいはその仕事をずっとやっていきたいか。

お金の呪縛から逃れて決断するために、「三十五億」の仮想現実をつくりだすのである。

けれども世の中を見回してみると、何兆円、何千億円の資産を持っている人でも、お金の呪縛に縛られているように見える人も多い。それはまた、自分がそういう立場になったときに考えてみることにしよう。一生なさそうな気がするけれども(笑)。


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