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「都会に生きるしかない人間」の背水の書(寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』を読んで)

全編に漂う、都会の寂しさと閉塞感。だが、それでも「都会に生きるしかない」人間の、いわば背水の書である。だからこそこの本は、都会で生きる人間を鼓舞し続ける。

寺山修司の見事なところは、その都会で生きることの「むなしさ」から決して目をそらさなかったことだろう。その「むなしさ」を見ずに、ただ近代的価値観を肯定し「前向きに生きる」ならば、結局は寺山のいう「画一化されて、機構の部分品化していることに気がつかない」人間への道を辿ることになるだろう。

このような彼の視点は、『私の個人主義』に見られる夏目漱石に通じるものがあるようにも見える。それはある種の「諦観」と言えなくもない。

彼の主張する「一点豪華主義」も、まずは「消費の仕方」として語られる。平均化されていく人生に抗うために、あえてアンバランスな消費を推奨する。だが「消費の仕方=生き方」という価値観そのものが、まさに都会の不文律である。

さらに彼は次のようにも言う。「社会閉塞への一つの突破口として、『一点破壊主義を』というのが私の提案である」。しかしそれも結局は、彼自身が言うように、「人間疎外的傾向のあるベルト・コンベアに、ほんの釘であけるような穴でもあけて、少し風通しを良くしてみたらどうか。といった提案」にすぎない。

彼が見つめた「閉塞感」は、この本の発表から40年以上経った今も存在し続け、ある意味で深刻化している。

「同じ人間が量産されているメカニックな社会機構は、しだいに『自分とは、誰であるか』をわからなくしてしまう」という彼の言葉は、今この時代に放たれても全く違和感がないだろう。

一方で、その「閉塞感」を打開する動きも出始めている。現代はこの二つの動きの二極化が進展している時代だと言うことができるだろう。

だが彼が「諦観」をもって受け入れざるを得なかった、都会の「むなしさ」と「人間疎外」を、いったいどのようにして打開することができるというのか。

そのひとつの契機が、まさに寺山修司が「捨てた」もの、すなわち「故郷」である。近年顕著となっている、若者の田園回帰志向は、いまさら語るまでもないだろう。寺山は本書の中でこう述べた。

「私は何でも『捨てる』のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」

高度成長期は「豊かさの享受」として語られてきたが、そのような「獲得の時代」の中で、「捨ててきたもの」に意識を向けているところに、寺山の非凡なセンスがある。

ただ彼はそれを、「もう二度と拾うことのできないもの」として捉えている。確かにそれは一面において正しい。しかし現代の若者たちは、その捨てられてきたものを、新鮮な眼差しで捉え直し、再び拾い上げようとしているのではないだろうか。

「故郷」を単純に「田舎」のようなものとして捉えることもできるが、それをもっとゆるやかに「帰りたい場所」と考えたっていいだろう。それは地理的な場所ではなく、居心地のいい「関係性」そのものかもしれない。

寺山は、「旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」と言ったが、僕の若い友人は、それとは全く逆の発想を持っている。彼は自らを「飛脚」と名乗り、どこまでも徒歩で旅をする。そして歩く速度で旅すると、その場所で生きる人々の生活の営みが見えてくる、と言うのである。そんな彼にとって、風景は「捨てられる」ものではない。「関わるもの」であり、「感じられるもの」である。

寺山の時代、確かに「速度は権力的であった」。しかしその権力はいまや絶対的なものではなくなりつつある。速度への信仰が失われたとき、人間はふたたび「共に歩いてゆく」ことができるのではないか。

CMなどで、高齢者がいつまでも元気に自分の夢を追い続けている姿が、理想的な老後として描かれている。独居老人が増えている状況を考えれば、それが生きがいになるという良さもあるのだろう。だが一方で、「まだ〝自分のこと〟ですか」と思わないでもない。

永六輔作詞の「遠くへ行きたい」という歌がある。

「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」

一人になりたいのかな、と思いきや、「愛する人とめぐり逢いたい どこか遠くへ行きたい」。主人公が求めているのは、「知らない街」であり、「知らない人」である。要するに主人公と「関わりがない」存在である。

しかしそうした「関わりのないもの」に希望を見出すことは、とても苦しいことのように思われる。「知らない街を歩いてみたい」のはわかるけど、自分が生きる街のことはよく知っていた方がいいだろう。「愛する人とめぐり逢いたい」も夢があっていいけれど、愛は既存のものではなく、関わりの中から生まれてくるものではないだろうか。

書を捨てて町に出るのはいいけれど、それが「無事から有事へ」という転換を意味している限り、いずれまた新しい「知らない町」を探さなければならない。確かに都市は有事の連続によって成立している。けれども、有事を基盤にした社会は持続しない。

都市は例外なくやがて廃墟となる。そして廃墟となった都市は「捨てられる」。そのような運命を、わざわざ自ら選択する必要はないのである。


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