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頭ではなく心で生きる

毎朝、同じ公園を散歩していると、その日によって、景色の見え方が全く違っていることに気づく。

気候や、季節や、時間によって見え方が変わるのは当然だが、それ以上に、その時の自分の状態が、景色の見え方に反映されているのだと感じる。

何か心に焦りや悩みがあったり、落ち込んだりしている時は、景色が見えているようで、実は何も見えていない。

「雨が降っている」「木々が青々と茂っている」「鳥たちが地面を突いている」という映像を、ただ情報として眺めているだけ、という感じなのである。その時、景色は頭で処理されるだけで、心にまで入ってこない。まさに「心ここにあらず」の状態である。

一方で、調子のいい時には、その景色を頭で知るのではなく、心で感じている自分がいる。普段の自分の、もうひとつ奥のほうから、景色を眺めている感じだろうか。

ただ、この調子の良さというのも怪しくて、「よし、今日も散歩を満喫するぞ!」と前のめりに景色を眺めると、けっきょく頭で情報を処理してしまう。「雨が降っている!」「木々が青々と茂っている!」「鳥たちが地面を突いている!」という情報を能動的に取りに行く感じで、それはどこか空虚な感じが伴うのである。

多分、こういうことではないかと思う。

「知る」ということは、「分ける」ということである。何かを知ろうとした瞬間、そこに、知る主体としての「自分」と、知られる対象としての「何か」を設定しているのである。こうして自分と世界は分断される。

だから、何かを知ったときに「分かった!」というのだろう。「分かる」も「解る」も「判る」も、すべて「分ける」ことにその本質がある。

この「知る」という行為は、能動的な知性の働きだと言える。

それに対して、受動的な感性の働きとしての「感じる」という行為がある。これは五感(もしかすると六感も)を通して受け取るものである。そしてそれを感じる瞬間は、その対象と一体となっているのである。

これを哲学者の西田幾多郎の言葉で言えば「主客未分」とか「純粋経験」ということになるのだろう。寺の鐘の「ゴ〜〜ン……」という音を聞いた刹那、自分自身がその「ゴ〜〜ン……」になっている、というのである。

知ることは「分ける」。感じることは「統合する」。

「公園の景色を感じる」ということは、「公園の景色になる」ということなのかもしれない。これは頭で景色を捉えていては、絶対にできないことである。「公園の景色を知る」ことによって、「公園の景色になる」ことはできない。

それをひと言で言えば、「頭で見るのではなく、心で見る」ということになるし、それを人生に置き換えて言えば、「頭で生きるのではなく、心で生きる」ということになるだろう。

あの有名な『アルケミスト』という小説に出てくる「前兆を読む」ということは、この「心で生きる」ということを言っているのではないか、という気がする。

小説の中に出てくる、占い棒を投げる達人「千里眼」は言う。

「……どうやって未来を推測するのかだって?それは現在現れている前兆をもとに見るのだ。秘密は現在に、ここにある。……未来のことなど忘れてしまいなさい。……毎日の中に永遠があるのだ」

「前兆」は、知る前に、感じられなければならないのではないか。

感じることは、現在にしかできないことである。

過去と未来と現在は、知性によって分断されている。

「前兆」とは、過去と未来と一体になった現在なのではないか。

だから、前兆は常に語りかけている。それを感じることさえできれば。

もちろん現代社会での生活は、頭で生きること抜きには成立しない。けれども、本当に充実した生は、たぶん、心で生きることの中にある。

だとすれば、知性は手段であり、感性は目的なのだろうか。それらを分けて捉えていることが、すでに頭で生きていることなのかもしれない。

僕にはまだよくわからないけれど、その知性と感性の折り合いの中で、僕たちは生きているのだろう。


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