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「社会からこぼれ落ちそうな人々」の中に生きるヒントがある:存在そのものが教えてくれること

先日、友人(フードデザイナーの横田美宝子さん)に誘われて、逗子の就労継続支援B型事業"mai!えるしい"に行ってきた。美宝子さんは、10年以上う前から、障害者の就労訓練を行うこの施設に関わり、「福祉の商品」ではなく、純粋に商品として手に取りたくなるお菓子を試行錯誤しながら、事業者や利用者さんと共につくってきた。実際、可愛くて、すごく美味しい。

作業場に入ると、みんな真剣に、でも楽しそうに自分の仕事に向かっている空気が伝わってくる。ここでの作業は、工程が細分化され、細分化された1つ1つに間違えを防ぐような工夫が見られる。それぞれ、得意な作業はあるようだけれど、誰かが欠けても大丈夫なように、基本的にはみんな全部の工程ができるようにしているそうだ。

「作業がわかりやすい」「間違えないような工夫がある」「無理をしない」「自分の特性が尊重される」「自分の仕事に誇りを持てる」っていう要素があるように私には感じられたが、実はこれって、障害や福祉という文脈を超えて、すべての人に必要なことなんじゃないか。

「標準の許容範囲」

だいぶ変化してきているとは思うものの、誤解を恐れずにあえて単純化すると、今の日本社会は「標準化された社会」だと思います。学校や会社では「標準的にはこれくらい」というラインが決まっていて、それに合わせて、物事が進むもんだから、どうもその「標準の許容範囲」から、こぼれ落ちる人は問題の対象になりがち。

発達障害なんていうのは、きっとそんな現象の1つで、学校の授業がスクール形式で黒板の前に座るのが「普通」だから「じっとしていられないこと」が問題になったり、「友達100人できるかな」みたいな歌があるから「1人でずっと遊んでいる」ことが変に見えてしまったりするように思います。

でも、なんとなく「標準の許容範囲」の中に収まってそうな「あなた」だって、その標準空間に違和感を感じませんか?あるいは、その標準空間にい続けるために、違和感を押し殺したことはありませんか?

「社会からこぼれ落ちそうな人々」は、その標準化社会で生み出される「ひずみ」みたいなものに気づかせてくれて、なんとなく収まっている人の無理を思い出させてくれる。生きやすい社会に向けてのヒントをその存在で教えてくれているなあと感じます。

無理を強いない空間は居心地がいい

あれはセカンドキャリアで通った看護大学生時代のことでした。精神科の実習で、最初は精神科病院のアルコール病棟、次に精神疾患の方が多い就労継続支援B型作業所に行きました。

アルコール病棟はきつかった。患者さんが「管理」されているのを見て、気持ちがどんよりして行く。いや、正直に言うと、実習を実りあるものにしようと精一杯頑張っていたので、自分が精神に負荷がかかっていることに気づいていませんでした。それがわかったのは、病棟の実習が終わって、作業所に行った時のこと。

その作業所では、走るのが好きな方がポスティングしてて、単純作業が好きな人がダンボールを組み立てたり、タコの釣具を作っていたり。ガンガン楽しんで作業をしている人の横で、昼寝をしている利用者さんがいたり。それが望ましい状態だったのかどうなのかはわからないけれど、それぞれの特徴が尊重され、無理を強いない環境は、私にとってもホッとするものでした。そこで、肩の力が抜けて初めて、自分が病棟で過度な緊張をしていたことに気づいたのです。

若年性認知症の男性が職場の仲間の助けになる

以前、福祉の勉強を集中的にしていた時、38歳で若年性認知症を発症した丹野智文さんのお話を聞いたことがありました。

最初は戸惑ったようですが、職場の理解もあって仕事を継続することができ、忘れてしまうことをとにかくメモするなどの工夫で乗り切ります。コピー機など、会社にある機材の使い方を初め、ミーティングの内容や約束事など、とにかく忘れてしまうので、メモをとる。

しかし、メモをとることが必要だったのは、認知症を発症した人だけではなかったようです。会社の同僚が丹野さんがメモをしているのを知っていて、「これどうやるんだっけ?」「あれは、何日のことだったっけ?」みたいな忘れたことを、丹野さんに頼るようになったとのことでした。

女性が働きやすい職場は、男性だって働きやすい

看護学生時代から、保健師として企業で働くようになったときも、健康と「働き方」は切っても切り離せないので、よく考えていたテーマでした。

「標準化日本企業」は男性を中心に組み立てられて来ましたから、残業や急な出張や異動はできて当たり前だったし、「子どもが熱を出したので早退」なんて、もってのほかだったと思います。

でも、少しずつ時代が変化し、社会側からの必要もあって女性の活躍が謳われるようになってから、女性に働きやすい環境が整えられるようになって来ました。「子どもが熱を出したので早退」できる職場は、自分が過剰に無理しなくても、誰かにカバーしてもらえる職場。自分が病気になったり、大切なライフイベントがあったときに、自分を大切にできる職場だと思います。それは、女性だけのことではありませんよね?

男性優位の「標準化日本企業」で、男性では気づけない無理に、女性はその存在そのもので気づかせてくれるんじゃないかと思います。

外国人労働者が教えてくれる対話の必要性

先日ご縁があって、とある工場で働くベトナム人の方とお話しする機会がありました。どうも話していると「仕事が辛い、辞めたい」ということでしたが、その原因は仕事の内容というより、「上司がコミュニケーションをとってくれない」ということのようです。

仕事で理解できないことがあったり、間違えがあると、頭ごなしに指摘されるけど、話し合いの場を持ってくれない。お互いの思っていることを出し合った方が、いっときは、喧嘩のような感じになっても、最終的にはいい結果になると思う。そもそも、「上司が何を考えているかわからない」というのに一番困っていると言うことでした。

日本人同士なら、なんとなく空気を読んで収めてしまうところが、外国人の方にはわからない。でも、本当のところ、「上司が何を考えているかわからない」のは、日本人だって同じではないでしょうか。産業保健師時代、同じ理由でメンタル不調になった従業員の方に出会ったことがあります。

問題は問題ではなく、ヒントだ

再び、看護大学生だった時のことですが、保健師の資格を取るために、保健所に実習に行ったことがありました。

そこでは、普段出会わない「社会問題」のオンパレード。「若年妊娠の世代間連鎖」「幼児虐待」「障害者虐待」「引きこもり」「8050問題」「ゴミ屋敷」「外国人結核感染者」。当時、私はもうアラフォーで、それなりの体験はしていましたが、20代前半の若い同級生が、社会に出る前に出会う事象としては、なかなかにヘビーなものだな、と思ったことを覚えています。

しかし、部分は全体を、全体は部分を表します。この一見、極端な出来事の中に、社会が見なかったことにしてきたことが詰まっていると思いました。社会の生きづらさを、身をもって現象として見せてくれている人たちに出会った感じです。個人の問題ではなく、社会の文脈で起きている問題。これを対処療法的に解決するのではなく、なぜ起こっているのかに目を向けると、「みんなの生きやすさ」につながるように思いました。

だから、自分ゴト:人やモノが大切にされているのを見ると安心する

先日、木が伐採されて、山肌が露出している小山を見て、「痛々しい」と思った自分に驚きました。山は別に痛いなんて思ってないでしょう。

また、私は、路上で大人が子どもをむやみに叱っている様子を見ると、言いようもなく苦しくなります。もちろん、親にもそれぞれ事情はあるのでしょうが、どうも、私は大人の方より、子どもに自分を重ねがちです。

人は見るものの中に、自分を投影します。だから、誰かが排除されたり、大切にされていなかったのを見ると、自分のことではなくても、なんらかの傷が無意識の中に刻まれていくように思います。

高齢者が邪険に扱われているのを見れば、自分が高齢になることに恐怖を持つだろうし、障害を持つ人が社会から排除されているのを見れば、自分はそちら側に行きたくないという感情も立ち上がるでしょう。

逆に、子どもが意見を聞かれたり、病気の人に職場の人が配慮したり、木が心を込めて手入れされている様子を見ると、なんだか安心な気がするのです。だって、自分も大切にされるだろうなって思えるから。だから、これは、他人ゴトじゃない、自分ゴトなんです。

「社会からこぼれ落ちそうな人々」は、みんなが生きやすい社会をつくるために、その存在そのものでヒントをくれる。そんな風な視点で生きていくことができたら、問題が問題でなっていくんじゃないか。そして、実のところ、誰もが「社会からこぼれ落ちそうな人々」足り得るのです。




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