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1月28日 幻想を解体する勇気。

しかし、ヨーロッパ的人間は、本当に、かつて「本」のなかに生きていたのだろうか。「本」は一つの作り物、幻想ではなかったか。マルソーの指の間から飛び出した蝶のように。すべての人間は、始めからー始まりの一点というものが、どこにも見出されない時間の始め(原著2字強調点あり)からーデリダのいわゆる「本の向こう側のエクリチュール」に生きてきた。「テクスト」への開扉は今に始まることではない。ただ、人間がそれを意識していたか否か、というだけのことだ。「本」の幻想に生き続けるか、幻想を解体する勇気があるか、ということにすぎない。ニーチェ=オルタイザーのように「神の死」とは言わないまでも、「本」幻想の源泉であった神が、使い古されて疲労困憊し、ついに姿を消しかねないほどの状態にある現在、幻想の解体がそれだけ容易になった、ということは事実だが。
井筒俊彦 意味の深みへ P.155

いささか長い引用になった。

神を信じぬことが場合によっては自らを死に至らしめるような時代を経て、

ここ日本で過ごしていれば神という考えはどこか時代遅れであるような気分さえあるが、アメリカ南部へ行けば今も神は強固に信じられ、進化論は学校では教えられない、と聞く。

結局「生きていては基本答えがわからない」問題であるなら、その問題がないかの如く生きるのも、全身全霊でチャージしてゆくのも、幅があるようでけっこう似たような生き方、と言えるのかもしれない。

ようは「なんでもあり」「確実なものはなにもない、ということだけが確実」といった世界に、我々はいるのだから。

(この次はどのような世界にゆくのでしょうか。やはり「電脳の神」の方向でしょうか。あるいは老荘・禅の方向かな??)



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