私が物を書く原点 -1- 私のおじいちゃん
おじいちゃん(母方)が亡くなったのは、私が大学生の時だ。
ガンだった。
大学生だった私は、最後はあまり頻繁にお見舞いにも行けなかったが、大好きなおじいちゃんだった。
おじいちゃんの思い出
初孫だった私は、他のいとこたちと一緒に、小さい頃はおじいちゃんによく遊んでもらった。
一緒にザリガニを取りにいったり、セミの幼虫や抜け殻を探しに行ったり。
人生についての、いろんな話も聞いた。
「何かに迷ったら、人を頼り、素直に尋ねればいい」とか、
「なんでも楽しむこと」とか。
私が中学生の頃には、おじいちゃんに会うと、松尾芭蕉が被っていたような帽子に和服を着ていることが多く、その口から繰り出される言葉に、より深みを与えていた。
とかいいつつ、もっとあったはずの具体的な内容を、他に全然思い出せないポンコツな私だけれど、
「〇〇(私の名前)、人生は□□ぞ!」
と、膝を打ちながら、いろんな話をしてくれていた。
孫に限らず、近所の子どもたちへも、おじいちゃんは、常におじいちゃんだった。
晩年、マンションの管理人さんの仕事をしていたとき、クリスマスにはサンタクロースの恰好をして、住人の子どもたちにお菓子を配ったり、
こどもの日には各家庭の鯉のぼりを集め、そのマンションの建物と建物の間に、つらつらとたくさんの鯉のぼりを泳がせてみたり。
いつも子どもたちを楽しませた。
「私の尊敬する人は父です。」と文集に書いたことがある、という私の母。その母から聞いたことのある、おじいちゃんの印章強いエピソードといえば。
就職面接のとき。
とにかく面接官の記憶に残るために、椅子に掛ける前、
「失礼します!」という声とともに、
一発オナラをかましたらしい。
結果は…採用だったそうだ。
お酒が好きで、お正月みんなで楽しく過ごして、夜酔っぱらってくると、右腕を振りながら校歌を歌うところは、子どもながらにちょっとめんどくさかったけれど、「破天荒」という言葉が似合う人だったのかな。
ガンの出来た場所が悪く、手術できない、と判断され、ホスピスに転院させられるまでは、おじいちゃんは、その「なんでも楽しむ」精神で、毎日自分の自画像を描いて日に日に上達していったり、「ガン殿よ」で始まる俳句を作ってみたりして、入院生活をも楽しんでいた。
私のおじいちゃんは、そんな人だった。
おじいちゃんの手作り本
私がそこそこ「自分だけでなく周囲が観察できるような年齢」になってきた頃、おじいちゃん家に遊びに行って、あるとき気が付いたことがあった。
おじいちゃん家の本棚に、なにやら手作りで製本されたっぽい、やたらと分厚い本のようなものが、たくさんある、ということ。
ダマスク柄のベージュの壁紙のようなもので厚紙を包んだ表紙は、丁寧にヒモで綴じられていて、
背表紙には、
「孫」、「フランス旅行」など、
そして子ども心に、ちょっと見てはいけないと思ってしまった「デカメロン伝説」、
そんな毛筆手書きの文字が貼りつけられていた。
それは全部、おじいちゃんが原稿用紙に青いインクの万年筆で文章を書きつらね、写真を貼った、私文集だった。
当然「孫」には、私といとこたちの産まれてからある程度まで、のことと写真が綴られていた。
「フランス旅行」には、出発の場面で、空港へ向かうために、当時の私の実家の近くを通るJR線(当時はまだ国鉄だった…)に乗るということで、母に「○時頃、そのあたりを通るとき、電車の窓から手を振るから、見に来て見送って」と言い、赤ちゃんだった私を抱いた母が見送ってくれたことが書かれていた。
実家のアルバムには、母が撮った、電車の窓から帽子を手にして振っているおじいちゃんらしき人の小さい姿が写った写真があった気がする。
おじいちゃん通信
しばらくすると、おじいちゃんはワープロを買った。
原稿用紙手書きから、ワープロへ。
時代にしっかりついていくおじいちゃん。さすがだ。
ワープロになったあたりから、地域のコミュニティー誌に、とんち昔話みたいなものを連載する仕事をしていた覚えがある。
狸が主人公だったりするような、教訓性のある、そしてとんちの効いた話だった。
中学生になって、あまり遊びに行けなくなった私に、おじいちゃんはコミュニティー誌に載せた昔話のコピーを送ってくれていた。
たぶん数年間、ずっとコピーを送り続けてくれていた。
そして、会って話をする代わりに、一緒に入っている手紙に、人生についての思いを書いてくれていた気がする。
そして、私はおじいちゃんに文章を書くのが好きだと話したことがあったのか、覚えていないのだが、文章を書く、ということについても、そこに記されてあった、そんな記憶だ。
そのあたりからだろう。
私は文章を書きたいんだ、ということを自覚するようになった気がする。
私が今こうしてnoteという場で文章を書いている原点の一つは、確実におじいちゃんだ。
最初こそ、とんち昔話の感想や返事を送っていた私だったけれど、そのうち、もらうばかりになった。
娘が生まれてから。ずっと思っている。
長生きをして、私の娘に会っていたら、どんなことを話してくれたんだろう。
どんなことを教えてくれたんだろう。
会えなくても、どんな手紙をくれたのだろう。
その当時は当たり前になってしまっていて、ありがたく思えていなかったものに、おじいちゃんを亡くしてから、私が親になってから、ようやく気づかされた。
おじいちゃん通信が、恋しい。
お盆に現れたカマキリ
亡くなってからも、おじいちゃんは、間違いなく私の中で生き続けている。
私が困ったときは、きっといつも助けてくれている。
そう感じている。
たまに、どうしてこんなところに?という場所に急に現れて、こっちが観察しているはずなのに、なんだか逆にこっちのことを首をかしげながら見守ってくれているように見える虫に遭遇することがある。
たとえば、サムネイル写真のカマキリが、そうだ。
ある年の8月13日頃、ベランダの物干し竿の上に、急に現れたカマキリ。
まだ羽のない幼虫だったのに、マンションの高層階の我が家のベランダに、どこから、どうやって来たのかな。
「カマキリがいるよー!」
娘を呼んで、写真を撮って、一緒に観察。
金属の竿の上で、こっちを見ている。
よく観察しようとして裏側や横に回ると、不思議と私の顔のほうに、カマキリも毎回顔を向けてくる。
そして、たまに片方のカマを、まねき猫のそれみたいに、ちょいちょい、と動かしてくる。
あれ。
「もしかして、これ、おじいちゃんかも。」
自然とそう感じた。
昔一緒に虫取りしていたから、虫になって来たのかな、そう思えた。
ツルツル滑る竿の上だと、さぞ不安定だろう、と、娘と育てていた朝顔の上に移動してもらったあとに撮ったのが、サムネイルの写真だ。
13日に現れたカマキリは、15日までは変わらず朝顔で過ごしていたが、16日、嘘みたいだけれども、居なくなった。
* * *
何年か前の話ではあるが、今でも、不思議な形で現れた虫をみつけとき、文章を書くとき、
おじいちゃんを、自然と思い出す。
おじいちゃんは、私の心の中に、いる。
娘には会わせてあげられなかったけど、たまに帰省してお墓参りしたときには、
「このおじいちゃん、面白いおじいちゃんだったんだよ」と、
母と二人で娘に伝える。
数年前、おじいちゃんよりずいぶん長生きして亡くなったおばあちゃんが、亡くなる原因となった病気発症のタイミングで気を失って倒れ、病院に運ばれて、入院したあと。
「気がついたら、雲みたいなものに乗っててね、ポンカラポンカラ、空に上がっていったんよ。そうしたら、おじいちゃんがいたんだけど、
『もう、こっちにいい人がいるから、お前はまだ来るな。帰れ。』
って言われてね…
『ほぉ、そうかいね…』と思ってね、そうしたら目が覚めたんよ。」
そう話していた。
おじいちゃんが逝ってから、確かにずいぶんと年月は流れていたからね。
それを聞いた私は、
おばあちゃんには、なんだか申し訳なかったけれど、
「おじいちゃんらしいな(笑)」
そう思ってしまった。
おばあちゃんは、それから3ヶ月後、また雲に乗った。
おじいちゃん、おばあちゃんが来るまでに、いい人との関係、終わらせていたかな(笑)
そんなことを思った。
サポートしていただける、というありがたみ、深く心に刻みます。 子どもに繋いでいけるよう、子どもにいろんな本を買わせていただくのに役立てようと思います。