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音楽を消費するものとして失っていた心構え

―聞きなれた音楽を再び聴きました。再び、素敵な音楽に会うことができました。ひとりの消費者として、音楽との向き合い方について考えました。

 僕、あいみょんさんがめっちゃ好きなんですね。2017年に彼女が作詞作曲を手掛けて、北村拓海さんらのバンドDISH//によってリリースされた「猫」は、2020年にfirsttake によって、大きな再興を得ました。TikTok、テレビ番組のBGMにはもちろん、街中でもながれ、Youtubeには多くの「歌ってみた」がアップロードされるなど、少なくとも一度はメロディーを聞いたことがあるのではないでしょうか。
でも
 リリース当時は、素敵だと思った曲でしたが、2020年に再び有名になった際、違和感を抱き距離をおいてしまいました。古参自慢をしたいとか、「何をいまさら!」ということではなくて、ただなんとなく、飽きに似た変な感じで勝手に排除しようとしてました。今回は『猫』でしたが、その他にもYOASOBIの『夜に駆ける』などもおんなじ感じ感覚になったことがあります。Spotifyで流れてきたときには、スキップをするほどでした。
でも
 作業中に『猫』が流れてきた時に、それは変わりました。集中してる手を止めるほど、聞き入ってしまいました。改めて聞くと、詩と北村さんの歌いかたがあいまって泣きそうになるほど素敵な曲でした。ここから、感じたことをちょっと書こうと思います。(今更すぎ、自分語り長すぎ)

 音楽は、消費されてこそなんぼのところがあります。現に多くのバンド、J-popのジャンルに属する人たちは、それを目指していて、売れるということは、聞く機会が社会の中の割合として増えるということを意味します。そんな中で、「多くの人が知っているから」、「今、流行っているから」という理由で、粗雑に大量消費されてしまうと、その音楽が流れている状態が当たり前になることは、想像できるでしょう。そうすることで、僕はなんとなく、「あー『猫』ね、いいや今度で」みたいになってしまっていて、音楽として本当にあいみょんさんやDISH///の皆さんが表現したことに対して向き合うことを忘れていたのです。愚かです。何も1回1回全力で聞け、向き合えというわけではないですが、消費するものとしての気持ちでどこか忘れていたことがあったのだと気づきました。

 ただ、消費させる側の立場としても考えてみると、これも日本の感覚だと仕方がないのかなと思います。話は発展しますが、K-popアイドルには「カムバ(컴백)」という文化?ビジネス戦略?があります。「カムバ」は、アイドルが新曲や新アルバムのリリースなどをして、活動を開始することを意味します。カムバしてからは、音楽番組などでひっきりなしに新曲を披露するのですが、オフに入るとメディアに一切露出せず、髪の色を変えたなどの報告を避けるアイドルもいるぐらいです。アイドルなどを期間をある程度定めてメディアに出すことによって、ファンが「飽きる」ということや「見慣れる」ということが少なくなり、カムバを待つまでの期間、リリースされた曲の中で熱心に楽しもうとします。このメリハリがあることによって、大量消費は一時的なものとなり、根強いファンを獲得するのではないかと考えます。

 特にまとめることが難しくなってしまったのですが、純粋に音楽に向き合う、一消費者として、集中して聞くということを忘れていたことに気づいたといいましょう。露出し続けることがよいかどうかは、一概に白黒つける事ができません。ポップスにおいては、大量消費されることが、ある種、アーティストの支えになるからです。大量にアーティストの作品が行き交い、消費される現代では、消費させる側、する側の意識が、文化を活気づけ、存続させていくうえで必要になるのかなということで、終わりたいと思います。


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