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友だちについて、あれこれ考えて、結局「これ、好き!」という話です。

聖書は古代の言語で書かれている。あまりにも古代過ぎるために、聖書をどう訳すかで、専門家や研究者から、いろんな見解が出て来ることになる。だいたい「この単語」の意味は実はよくわかっておらず、便宜的に訳してみた、みたいな箇所もあるぐらいだし。加えて日本語表現の問題がある。原文の雰囲気を忠実に・日本語表現は二の次、っていう方針で訳したら、ユニークな日本語の聖書になるし。礼拝にふさわしい厳かな日本語を、っていう方針で訳せば、そうなるわけだし。

今日の聖書の言葉。

どのようなときにも、友を愛すれば
苦難のときの兄弟が生まれる。
箴言 17:17 新共同訳

自分の属している教会は新共同訳を使っているので、ふだんはそれを読んでいるけど、時々、いろんな訳を読み比べてみる。すると、やっぱり、自分の魂にフィットした訳を選びたくなる。フィットって、どういう感覚か、って言うと、単純に「これ、好き!」ってことだろうかね。

きょうは、今日の聖書の言葉を、4種類の聖書で読み比べてみた。まず、定石の新共同訳では、こうなっている。

どのようなときにも、友を愛すれば
苦難のときの兄弟が生まれる

うーん。。。これって、がんばって友だちを作りなさい、そうすれば、友だちができるから、みたいに聞こえてしまうのは、自分だけだろうか? だって、条件文になっているんだもん。人生、大変な時もあるけど、頑張って相手を愛するなら、きっと苦しいときに助けてくれるよ。でも、愛さなかったら、そうはならないよね。。。みたいな。。。

これに対して口語訳はシンプル、かつ、条件文に。。。なってなーい!

友はいずれの時にも愛する
兄弟はなやみの時のために生れる

人生の知恵を集めた箴言らしく、宣言するスタイルになっている。どんなときにも愛するのが友だち。苦しいときの友だちは、ほんとの兄弟。これって普遍的真理を宣言する感じだよね。今日も太陽は輝いている。窓から光が差し込んでいる、みたいな。いいね、口語訳。でも、これを条件文にしちゃうと、光を浴びたかったら、ちゃんと起きてカーテンを開けなさい、みたいになっちゃう。

新改訳2017では、こうなっている。これも口語訳みたいに宣言文になっているんだけれど、日本語が微妙に違うね。

友はどんなときにも愛するもの
兄弟は苦難を分け合うために生まれる

微妙な違いだけど。。。なんだろう。。。宣言文っていうよりかは、定義文みたいな印象。あなたがどんな状態になっても、それでも愛してくれるのが友であり兄弟だよ。だから、見限ったり、見捨てたりするなら、それは友でも兄弟でもなかったんだよ(残念でした)っていう目に見えないカッコの内のニュアンスを感じちゃう。自分だけだろうか。。。

現代口語にパラフレーズしているリビングバイブルでは、ほんとうの友だちは絶対に裏切らない、って大胆に言い換えている。

真の友は決して裏切りません
兄弟は苦しみに会ったときに
助け合うためにいるのです

絶体に裏切らない、ってなると、普遍的真理の宣言、から、絶対の領域に踏み込んでいくことになる。で、絶対になったとたん、不思議なことに、もはや普遍ではなくなっちゃう。。。だってさ、絶対に裏切らない友だちに自分がなれるか、っていうと、無理だし。逆に、自分を絶対に裏切らない友だちがいるか、ってなると、それも無理だし。。。だから、そういう「友」は、事実上、世界に存在しないことになっちゃう。存在しないのであれば、普遍ではなくなっちゃう。。。

でもねー。。。ひとりだけ。。。ただひとりだけ、いるんだ。自分を絶対に裏切らない「友」が。そういう友は、世界にただひとりしかいないんじゃないかと思う。その意味で、超特殊なんだけど。。。

それが、イエスだ。

わたしたちが誠実でなくても
  キリストは常に真実であられる
*

註)
*  Cf. テモテ二 2:13

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