世界は永遠に矛盾しているのに、なぜ、世界内存在である人間は、矛盾を空気や水のように「あたりまえ」に受け取ることができないんだろう、っていう話です。
どっちやねん?!って思うこと。。。
あるよねー。
生きてると、いろいろ、ある、どっちやねん問題。
かっこよく言うと「矛盾」だろうかね。
自分はクリスチャンなので、たまーに、聖書の矛盾について質問される。
そうですねー。。。そういうふうに指摘されてみれば。。。
うーん、たしかに矛盾しているように見えますよね。。。
でも、そもそも、なんでオレが聖書の矛盾について釈明しなきゃいけないんでしょう?
だって、べつに、オレが聖書を書いたわけじゃないんで。。。
。。。って、ハラのなかでは思っている。。。
でも、言わないけど。
そういうことは、おくびにも出さず、対応する。
でもねー。。。
考えてみれば、「矛盾」を原動力に使ってる思想や言説って、すっごい、いっぱいある気がする。
そういうのは棚上げしておいて、聖書の矛盾だけ指摘する、って、どうなのよ?
いや。。。べつに。。。喧嘩を売っているわけではないんですが。。。
人生で矛盾は避けられないわけだから、矛盾が普遍的な現象であることについては、異論のあるひとは、いないんじゃないかと思う。
じゃあ、その次。
事象Aと事象Bのあいだに矛盾がある場合、そのギャップを埋めようとして、人間はいろんなことをするわけだけど。。。
ギャップの埋め方の数あるカタログから、代表例を挙げるとしたら、こんなのがあるんじゃないかと思う。
1.臨済宗『碧巌録』
2.ヘーゲル『弁証法』
3.マルクス『弁証法史観』
4.西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』
5.毛沢東『矛盾論』
1(碧巌録)は、禅の公案。矛盾した問いをつきつけられた弟子は、脳がバグって変性意識状態になっちゃう。その効果に狙いを定めた問答集。
2(弁証法)は、意識の作用の説明。人間は推論によって個物を普遍化することで事物を把握している。つまり、人間の意識はいつも普遍と個物の間の矛盾を処理している、ってこと。
3(弁証法史観)は、歴史のダイナミズムの説明。対立する二つの階級の闘争によって、古い体制が打破され、新しい体制が構築されて、歴史が発展する、っていう、革命のための形而上学的なエンジンだ。
4(絶対矛盾的自己同一)は、モノ作りのエートス。人間は生産活動によって過去と未来を統合して現在を生み出している。絶対的に矛盾している自分のアイデンティティーの統合は、自分のなかには見つからない。モノ作りのなかにしかないんだ。
5(矛盾論)は、科学の本質論。矛盾を克服して統合へと突き進むダイナミズムこそ科学の本質で、それは、永遠に終わらない。なぜなら、世界は永遠に矛盾しているから。なので、科学に根差した革命も永遠に終わらない、という永久革命論。
うーん。。。
このカタログを見ていると、どうして人間って、矛盾を矛盾として放置しておくことができないんだろう、って思っちゃう。
謎の性質だよね。矛盾を見ると、何かせずにはいられない、っていう。。。
そもそも、世界は永遠に矛盾している、と言うのであれば、なぜ、世界内存在である人間は、矛盾を空気や水のように「あたりまえ」に受け取ることができないんだろう。空気や水なんて、意識にすら上がらないじゃない?
今日の聖書の言葉。
永遠に矛盾している世界で、矛盾に我慢できなくて、矛盾と葛藤し続ける、世界内存在としての人間、っていうのが、そもそも矛盾しているし(笑)
だから、やっぱり、人間の意識には、世界の外部からインプットされた、そうせざるを得なくさせちゃう精神的動因みたいなものが、あるんじゃないのかなー、って思う。
で、自分はクリスチャンなので、インプットしているのは「神」なんだろうなあ、と考えている。
あなたがたの内に働いて
御心のままに望ませ、行わせておられるのは
神であるからです
自分のなかに、まごうことなく確かにある、「救われたい」という思い。
だって、ほんとうに、救われたいんだもん。。。
しかし、救われたい、と思った瞬間、もう自分は矛盾に直面している。
それは、救われたい・けれど・自分で自分を救うことは不可能、という矛盾だ。
不可能なら、あきらめるしかないんだろうか?
でも、聖書は言う。
救われたい・けれど・自分で自分を救うことは不可能。。。
にもかかわらず「救いを達成するように務めなさい」って言う、聖書。。。
なので、救いに向かって、全身を傾けて生きて行こう。
救いは可能だ、と聖書は言う。なぜなら、救われたいという願いを起こさせ・かつ・救いを実現するのは「神」だから。
あなたがたの内に働いて
御心のままに望ませ、行わせておられるのは
神であるからです
最後に残った問題は、じゃあ、神と自分のあいだのギャップって、どうやって埋まるのか? ってことだ。
神と自分、つまり、無限と有限という、究極の矛盾。
このギャップを埋められるは、禅の公案でも、意識の作用でも、革命でも、モノ作りでも、科学でもないんだよね。。。
ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立った「神」のうちに、無限と有限が、みごとに統合されている。
それが、イエスだ。
つまり、自分にとって救いとは、イエスそのもの、ということになるんだ。
クリスマスまで、あと88日。。。
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