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おはよう、を言う時に、ちょっと立ち止まって考えてから言う、おはよう!

ひと、と、ひと、が一緒に生きるためには、忍耐が必要だよね。

でも、ずーっと忍耐ばっかりさせられてると、だんだん、怒りのゲージがたまって来る。

で、一定の容量を超えると、感情が爆発してしまう。

いわゆる、堪忍袋の緒が切れる、というヤツ。

そうならないためには、忍耐とセットで慰めが必要だ。

今日の聖書の言葉。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマの信徒への手紙 15:5-6 新共同訳

忍耐のゲージを時間と共に積み増していく作業。。。

それが、人生なのかもしれないねー。

10年前の自分と、いまの自分をくらべると、かなーりゲージが増えてる気はする。

これを、この先、どこまで伸ばせるんだろう。。。

聖書を読むと、神もけっこう怒ることが、わかる。

つまり、神でも堪忍袋の緒が切れる、ってことがあるわけで。。。

「神」は、永遠で無限で普遍で全能で全知の絶対他者である、と神学的には考えられているんだけど。。。

でも、聖書に描かれている神は、人間みたいに怒るんだよね。

ノアの洪水なんて、まるで、ちゃぶ台がえしだ。

永遠で無限で普遍で全能で全知の神が怒るわけだから、人間の怒りとは比べ物にならないぐらい、スケールが大きい。

どれぐらいのスケールかというと、そりゃもちろん、無限の怒りだ。

だから、神が怒ることは、宇宙の終焉を意味する。

だって、無限の怒りを受け止められる存在なんて、この宇宙には、いないもん。。。

しかし、それだと、どこにも慰めはなくなってしまう。。。

なので、神は、神の方法で、神の怒りを終焉させることにしたんだ。

それは、このような方法だ。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
ローマの信徒への手紙 5:6-11 新共同訳

神の無限の怒りを受け止められる存在は、この宇宙にはいない、ってさっき書いたけど。。。

ひとりだけ、いるんだよね。受け止められる存在が。

それがイエス・キリストだ。

無限の怒りを受け止めるためには、受け止める側は、無限の容量を持ってないといけない。

しかも、この宇宙に対する神の怒りを受け止めるわけだから、受け止める側は、この宇宙の一部でなければいけない。

この2つの要請にワンストップで応えるために、イエスは「ほんとうに神であり・同時に・ほんとうに人間である」という存在になってくれた。

そのイエスは、十字架で神の怒りをぜーんぶ受け止めて、終わらせた。

三日後、イエスは復活して、弟子たちに「おはよう!」と声をかけたんだけど *。。。

その日、全世界は、というか、全宇宙は、永遠に変化してしまった。

それは、神の怒りが永遠に終焉し、愛とゆるしだけがある世界に、変わってしまったんだ。

これが「慰め」の構造なんだけど。。。

この慰めがあるので、もうちょっと忍耐してみようかなー、という気持ちになれる。

そして、気をとりなおして、「おはよう!」と声をかけてみる。

あの、イエスの「おはよう!」が世界の空にひびきわたっているのを、こころの耳で想像しながら。

註)
*  Cf. マタイ 28:9

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