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この世相ではパニックになるほうがむしろ合理的では? じゃあ、反対意見はあるの? っていう話です。

新年早々、隣国からは超音速ミサイルが何度も飛んでくるし、ウクライナをめぐるロシアと西側諸国の交渉は手詰まりで戦争の兆しが切迫しているし、オミクロン株の新規感染者数はこれまでとは異次元のスピードで爆増だし、来週は小惑星が地球に接近するし、もうね、普通の神経していたらパニックにならないほうが不思議だ。。。

今日の聖書の言葉。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

パニックって、危険が差し迫ったとき人間の身体に起きる反応だけど、それは、心拍数が上がる、冷静な判断が出来なくなる、叫び出したくなる、胃の中のものを吐き出す、全力で走りだしたくなる、などなど、すごい過激な反応だ。

でも、そのすべてには合理的な理由があるんだと思う。。。

心拍数が上がるのは、全身に行き巡る血液酸素量を増やして、即座に筋肉を動かせるように準備するため。敵と戦ったり、走って逃げたりするのは、筋肉の出番だからね。

冷静な判断が出来なくなるのは、もし、のんびり落ち着いて過去をふりかえりながら「じゃあ、いまの場合はどうしよう。1時間ぐらい考えようかな」なんてやってるとライオンに食われてしまうから。たとえ間違っていても、すぐ行動した方が、生存の確率が上がるからだろう。

叫び出したくなるのは、大声で叫んだり怒鳴ったりして威嚇することで、敵はビビッてひるむかもしれない。ひるんだ隙を狙えば、反撃したり逃げたりが有利に出来る。

胃の中のものを吐き出すのもわけがあると思う。食事の直後だと消化のために血液が胃に集中している。このため、筋肉にとってのエネルギー源である血液酸素量が不足気味になる。だから、嘔吐することで胃からリゾースを解放して血液を筋肉に行きわたらせるのだ。こうして、全力で走って逃げることが可能になるというわけ。

以上の方式を採用した場合に、危機を脱出して生き残れる確率が上がるということなのだろう。われわれのご先祖さまたちはパニックになることによって生き残ることができて、その結果が現在生きているわれわれだと言えるのかもしれないねー。

そうだとすれば、パニックになるのはあたりまえ、というか、当然というか。逆にパニックにならないと生き残る確率が下がるから、むしろヤバイ。。。

そういうことを考えると、今日の聖書の言葉は自然に反している、っていう見方が出来るかもしれない。。。

神は、おくびょうの霊ではなく
力と愛と思慮分別の霊を
わたしたちにくださったのです

生存に有利になるものが自然である、と考えるのであれば、神の霊である「聖霊」を受けた人間は落ち着きに落ち着いてパニックにならない、という考え方は自然に反しているよね。

それは、つまり、超自然っていうことか。。。

こういうことが書いてある聖書は、だから、自然の成り立ちという枠組みだけでは由来の説明がつかないんじゃないか、と思ってしまう。そこには超自然の要素がある、と自分は感じるんだ。

じゃあ、もし、その超自然が書いてある聖書を読んで、信じて、祈って、神から「聖霊」を供給されて、だから、危機に直面しても落ち着きに落ち着いて、パニックには全然ならなくて、その結果として生き残ることに失敗してしまったら?

それはつまり生命活動の停止ということだから、自然の枠組み内で見れば、結果は失敗だ。

だけれども、超自然が書いてある聖書には、墓の向こうに続くセカイがある、って示されているんだよね。それは、霊魂の不滅、身体の復活、天国、永遠の命、新しいエルサレム、というような概念で示されているわけなんだけど。。。

で、この変数を考慮に入れるか入れないかで、人生においてパニックになった方がいいのか、パニックにならないほうがいいのか、っていう判断が分かれることになる。

この変数を「永遠の命」(Eternal Life) の頭文字を取って "E" と呼ぶことにしようか。。。

Eつまり永遠の命を考慮に入れないのであれば、だんぜんパニックになった方がいいよね。そうやって人類は生き残って来たわけだから。

しかし、Eを考慮に入れるなら、落ち着きに落ち着いて死を迎えても、墓の向こうで栄光の復活を遂げる、ということになるから、パニックにならない選択も「あり」ということになる。

でもねー。。。Eを考慮に入れることが、果たしてよいのか、どうか。。。

だって、墓の向こう側のセカイがあるかなんて人間にはわからないじゃん?

だから、イエスは墓から出て来る必要があったんだろうなー、と思う。

十字架につけられて死んだイエスは、三日目に栄光の復活を遂げて、文字通り墓から出て来た。そして、われわれに示したんだ。変数Eを。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
ルカによる福音書 24:36-43 新共同訳

。。。というわけで、今日のお昼は、焼き魚にしよう。そして、自分の人生に変数Eを考慮に入れることが合理的かどうか、食後のコーヒーを飲みながら、落ち着いて1時間ほどゆっくり考えよう。いや、2時間でも3時間でも。。。

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