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新年の抱負を語るわけでもなく、未来を予測するわけでもなく、それでも、新年をどのように生きようか、っていう話です。

あけましておめでとうございます。

始まりました。あたらしい一年。

果たして2022年はどのような年になるのか。

期待と不安に胸は膨らむ。。。

だから、いろいろ想像もし、予想もし、計算もするんだけれど。。。

しかし、はっきり言ってしまえば。。。

それは「わからない」よね(苦笑)

2022年がどういう年になるのかは、わかろうとしても、わからない。

だって、自分の意識で認識できる範囲というのは前後3秒ぐらいの広がりしかないんだもん。

今日の聖書の言葉。

初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
イザヤ書 43:18-19 新共同訳

認識不可能な未知の領域が、これから自分が向かって行く前方に茫漠と広がっているわけであって。。。それが未来だ。。。

それは、わからない、知ることが出来ない、表現のしようがない、という意味では、荒野であり砂漠であると言えるんじゃないかと思う。

でも、われわれはそこに進み入って行くしかないんだよね。

だって、3秒間という「現在」を急速冷凍して、いま・ここ、にずーっと座り込んでいることなんてできないんだから。

しかし、未知の荒野、不知の砂漠を進んで行くにあたって、「神」が言っているこの言葉は力強い励ましになると思う。

わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる

スゴイ言葉だよね、これは。。。

大丈夫だ、心配するな、オレがオマエのためにちゃんとルートを確保するから、オマエはそれを進めばいいんだ、って。。。

自分は青ざめていても、神はやる気満々だ。

時空の連続体の中にいるわわれれにとって未来は未知の荒野、不知の砂漠であっても、時空の連続体を超越している「神」にとっては、その手のひらのしわみたいなものなのかもしれない。

神は「神」なので神の掌中で未来をコントロールしているのだ。

でも、そうだとしたら、多少なりとも知りたくなるよね。。。

神はどういうふうに未来をコントロールしてくれるのか、ってことを。。。

それを知るには、神が「神」として過去にどのようにふるまったか、っていう記録を分析すればいいんだろうけど。。。

いわゆる、現在の立場から、過去を分析して、未来を予測する、って手法。

だけどね。。。

それをすることを今日の聖書の言葉で「神」はバシーっと禁じている。

だって、これだもん。

初めからのことを思い出すな
昔のことを思いめぐらすな
見よ、新しいことをわたしは行う

過去の分析もするな、未来の予測もするな、って。。。

いやー、それじゃあ、身も蓋も無いよね(笑)

しかし、未来において「神」はどう行動するかについて、一点だけヒントが示されている。これだ。

見よ、新しいことをわたしは行う
今や、それは芽生えている
あなたたちはそれを悟らないのか

それは何かと言うと、神は「新しいこと」を行うという、その一点だ。

しかも、その「新しいこと」は、いま・もう・すでに、芽生えている、って言うんだ。

「いま」というのは、自分にとって、自分が認識可能なあの前後3秒間の広がりにしか過ぎないわけなんだけど。。。

その自分の意識の3秒間の広がりのなかで、神は、いま・もう・すでに「新しいこと」を始めている、って言うんだ。神が未来にしようとしている、その「新しいこと」が!

なんだろうね、この感覚。。。

神の掌中にある未来が、自分の小さな手のひらの中に落ちて来るみたいな感じ。。。

だから、待ち構えていよう。。。

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! って思ったら、すかさずそれを受け取ることができるように。

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