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Makot's Eye

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考えすぎて答えが出ない日常から、その一歩先へ。
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#自己認識

ないものをつくる

ないものをつくる

あるものを認識することは易しい。
ないものを認識することのほうが難しい。

ないものを認識することは、
「ないもの」があると認識することでもある。
本来なかったことを「ある」と認識する。
これが想像をもたらし、創造を生む。
ないものを認識して初めて、ものづくりが始まる。

ものづくりこそ人間の真骨頂。
それが、例えば地球環境にとっていいことなのか、悪いことなのかはわからない。
けれども、
想像する

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途上

なかなか思うように行かなくて歯がゆい。悔しい。
・・・当たり前か、私は途上の人生を生きているのだから。

と、言うのは簡単だけど、
「言う」のは、単なるスタートの合図でしかない。
単なる合図よりも、実際に始めてからのほうがやっぱり大事。

今を生きる、そのなかで、
「直視すれば、すべては無意味でむなしい」
なんてことを書いた時もあった。
その時の私は、何かをわかったつもりになっていたのかもしれない

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人の役に立つ

人の役に立てれば、うれしい。

けれども、「他人の役に立つ」だけではいけない。
あくまでも「人の役に立つ」こと。
・・・ここで言う「人」には、当然ながら「自分自身」も含まれる。
ただ単に「他人の役に立つ」だけで、「自分自身の役に立たない」ようなら、
「人の役に立つ」とは言えない。

人の役に立てれば、
「今ここに自分自身が居てよかった」と自然に思える。
そう思えれば、しあわせだ。

できることなら

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Re-Creation

レクリエーション。
これが人間の本分なのだと思う。

「遊ぶのが子どもの仕事だ」とよく言われる。
でも、大人だって同じじゃないの?
・・・というか、遊ぶことをナメてる人が多い気がする。
目先の快楽を追求することだけが遊びじゃない。
命懸けで真剣に遊んでいる人たちだっている。
というか、真剣に遊ぶ、ってそういうことなんじゃないかと思うし、
真剣に遊び続けて生きている大人は、
もう、その遊びが仕事にな

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自我と境界線

自我は存在しない。
自我は想定されているだけだ。
ちょうど、境界線のように。

人は、リンゴの絵を描くとき、
たいていリンゴの輪郭をイメージしながら描く。
この輪郭こそが、
リンゴである部分とリンゴでない部分とを分けている境界線
に他ならない。
しかし、その境界線はじつは存在しない。
単に想定されているだけに過ぎない。

点や線は、厳密には、幅や厚みを持たない。
しかし現実に、幅や厚みを持たないモ

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「信じる」ことと「知る」こと

「信じる」
「願う」
「頼る」等々は、

「悟る」
「わかる」
「知る」等々のことと同時には相容れないが、

実は緊密に連携していて、交互に表れる。

片方だけに留まらず、ちゃんと両方を求めていけば、
長い目で見れば、(交互に表れる、という形で)ちゃんと現実化する。

「世界」と「私」

「世界」と「私」

私自身が「その気」になれば、いつでも世界はフィードバックをくれる。
でも、「私のほうから」動かない限り、決して余計な介入はしてこない。
たとえ「私」がどんなに困っていても、苦しんでいても(例えば餓死しそうでも)、
その「私」に動くつもりがなければ、冷徹なまでに無視される。
誰かの誕生日でも、悲しい事件が起きた日にも、
同じように太陽は昇り、同じように時間は過ぎていく。
それが、この「世界」。

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