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お千鶴さん事件帖「涙雨」第一話①/3 無料試し読み

「あらすじ」
 江戸時代後期、深川で岡っ引の女房千鶴が、夫を助けようとして、捕物に目覚める第一話「涙雨」三回完結。
 太一は酒浸りの父政次に虐待を受けていた。母松も、同じであり、隣家の修造がたびたび止めに入っていた。
 政次は、腹を刺され殺される事件が起こった。真っ先に松が自首したが、続いて修造も名乗り出た。二人の共謀と思われた。
 千鶴は、幼い太一を不憫に思い親切心から、世話を焼くようになった。初めは頑なだった太一も次第に心を開くようになる。松の実姉戸世からも事情を聴くうちに真相をつかむ。松の鋏、同じ部位を修造の包丁が刺された腹から、太一が抜き取ったのが死因だった。

お千鶴さん事件帖「涙雨」第一話②/3  無料試し読み  |牧山雪華 (note.com)
お千鶴さん事件帖「涙雨」第一話③/3 完結編 無料試し読み|牧山雪華 (note.com)

(一)
 目覚めが悪かった。
 おらは、おっ母に起こされてからも、隅の剥げた土壁を見つめていた。壁のシミが赤鬼の影を作り、今にも襲ってきそうなのを震えながら身構えた。
朝げの時、おばさんの家へ行って遊ぶように言われた。仕事が忙しくて手が離せないときには、よくそう言われる。おばさんは、おっ母の実の姉さんだ。おらによくしてくれるから言われなくても、ちょくちょく遊びに出かける。おばさんも暇なわけではなく、先月おじさんが亡くなってから一人で茶店を切り盛りしているのだ。おっ母としては、おらが顔を見せるだけでも寂しさが少し和らぐのではないかという気持ちでいるらしい。
 腕の痛みを感じ、青くなった痣に目を落としながら入口の腰高障子を開けた。深川のどこにでもある似たような裏長屋の木戸門を出て、小名木川を背に南へ向かう。ずっと前方左手に深い緑が見えてくる。木々の奥には広大な寺の敷地が広がっていた。確か、霊厳寺と、その奥が浄心寺だ。
 道端に蝉の抜け殻をいくつか見つけ、一つを拾い上げた。蝉のけたたましい鳴き声をうんざりと聞きながら背の高い木を見上げる。その向こうに白っぽく霞んだ空があり、今日もまた暑くなるのかな、と気もちがさらに沈んた。
 ここのところ夢と現の間をさまようことが多い。暑さで頭がぼーっとしているせいもある。
 でも、あれは確かに昨日のことだ。
 太った赤鬼がまた暴れまわった。いつものことだけれど、慣れるということはない。
 おっ母と二人で夕げを食べ終えようとしていた時分だった。箱膳に、アジの焼き魚がのっていて、思わず喜びの声を上げた。手間賃が入ったのだなと自ずと顔がほころぶ楽しい時だったのに、急に赤鬼は帰ってきたのだ。
 お膳の茶碗が宙を舞った。その次には箸が飛んだ。赤鬼がおらの首根っこをつかんでにらみつけて言った。
「おまえはガキのくせに性根が悪い。人をさげすむようなその目つきが、気にいらねえ」
 顔を近づけて、フーッと吐き出す息が臭い。
 ――ああ、やめて。やめて。吐き気がする。
 でも、声が出ない。恐怖にすくんで赤鬼から顔をわずかに背けるしかできない。
「あれさえ、飲まなければ、いい父ちゃんなのにね」
 おばさんがそう言っている、お酒の匂いだ。
 ――痛い! 
 赤鬼におらの首根っこがつかまれ土間に放り投げられた。またしても声は出ない。腰をしこたま打った。しばらく息ができない。肘がひりひりする。
おっ母が矢のように飛んで来ておらを抱き包んだ。震える手で近くにあった薄い布をおらの頭にかぶせる。
「太一だけはよしとくれ。私を殴れば気がすむだろ。堪忍して」
 と、泣いて頼んだ。
 畳に頭をすりつけているのを布の隙間から盗み見る。許してくれるのかと思う間もなく、今度は顔を上げたおっ母の細面の頬を平手で殴った。顔が歪んで真横に吹っ飛んだ。「ひーっ」という叫び声が、おらの閉じた眼をあざ笑うかのように耳の奥へと突き刺さる。
「絶対、別れねえ」
赤鬼が声をいくらか詰まらせながら、おっ母に向かって吐き捨てるように言い放った。
 ――おっ母、大丈夫か? 助けに行かなくっちゃ。今行くから。こんなことは夢だ。夢だと言ってくれ。
 おらは、目をしっかり開いて赤鬼の腕に食らい付いた。しかしあっという間にもう一度土間に投げられて気を失ったようだった。夢の中に落ちていけるのは心地よい。痛みも忘れられるから。

 おっ母は、そんなことがあった翌朝でも、着物の仕立てや染み抜きの内職に忙しい。おっ父はたぶん昼まで眠っていることだろう。お酒の抜けたおっ父がおっ母をなぐることはまずないと、今までのことから察して出かけることにする。暴れるのは夜と決まっていた。でも、夜でなくても赤鬼に替わってしまうようなおっ父には朝だって昼だって会いたくもない。
 おらは立ち止まり、掌の蝉の抜け殻をもう一度見てから木に向かって投げた。それから、またトボトボと歩き始める。おばさんの茶店は霊厳寺門前町という所で、おら達の住む海辺大工町の裏長屋から大きな通りを二つほど南にある。
 おんぼろな店だが、人通りが多いので客足はそこそこある。おばさんはそこに住んでもいる。おっ母よりも五歳も年が離れているらしいが、後姿やふっとしたときの仕草やなんかが、うりふたつだとびっくりする。とりわけ声などは聞き間違うほどにそっくりだ。
 つい先日の火事で途中の長屋一棟が焼け落ち、半ば原っぱになったためか、寺が以前より近くに感じた。寺の塀に沿って曲がる門前の表通りは道幅が広く遊びがいがある。おばさんに、来ていることだけを告げてすぐに向かいの通りに飛び出した。
 おらは独楽の釘の部分に念入りに糸を巻く。今日の調子はどうかな、と占う。手首の力をちょうど良い加減に引き、力いっぱい地面に放り投げる。サクッと独楽が土に着地する快い音を聞く。
 くるくる回る独楽は何て面白いのだろう、見ているといやなことを忘れるのだ。しかし、花火のように短い間しかもたない。これは小吉という幼馴染の方がずっとうまい、あいつにはかなわない。あんなに美しく長くまわせるのは近所でも小吉が一番だったから。何とか近付きたいものだとおらは日々鍛錬している。小吉は三軒並びの同じ長屋の一番木戸に近い西側に住んでいる。
 半時(一時間)ほど続けると、さすがに飽きてきた。回す以外に芸が無いせいもある。
 陽はますます高くなり。おらはおなかが、グーっと鳴いた。でも世話になっているおばさんに、昼餉の催促を言い出すのは気がひけた。
 次に、店先の通りに小さいこぶしぐらいの大きさの穴を掘った。穴からおらの歩幅で、五歩離れる。そこから振り返って穴に石ころを放り投げて入れる遊びに替えた。穴一という名の遊びだ。
 年の違う子らで勝負をするときにも、小さい子は小さい子なりの歩幅で五歩の所から投げればいいので、みんなと遊べて気に入っている。
 遊びに必要な道具は石だけ。でも、これが肝心なのだ。手頃な大きさと重さで、よく手に馴染んだ石は大事なお宝だった。今持っているのはかれこれ五代目だが、この石に勝るものは無いと思っている。半年ほど前から隣に越してきた修造兄さんに教えられ、やり始めてから上手に入れられるようになってきた。これは小吉より上手い。証拠に、上達したおらをからかって太一と呼ぶときに「穴一」と言ったりする。
 次第に、お腹が空いて辛抱できなくなり、おらはおっ母の元へと走った。おもいきり駆けていけるぐらいの道のりである。おっ父にだけは気付かれないように、そっと戸を開けた。外から中をよく見たがおっ母はいなかった。またそっと戸を締めて、とにかく大急ぎでくるりと向き直った。
 だいたい、急に帰るとろくなことがない。寝ているおっ父の側に誰か男の人の背中が見えたけれどもおっ父に拘わるのはやめた方がいい。最近は飲んでいないときでも、それはそれで気味が悪くて、うかつに本心を見せてはならないと、おびえながら過ごしている。だからおっ父やおっ父の知りあいにも近づかない方がいいに決まってる。飲み仲間がときどき今日のように家にも来るのだ。
 隣を通り過ぎるとき、入口の戸が開いているのを目にした。
 この家の修造兄さんは独り者で、礼儀正しくて、とてもしっかり者だと、おっ母はいつも誉めちぎっている。
「お兄さんみたいに独り立ちできるように、来年は手習いに行って、たんと学ぶんだよ」と、うれしそうに言う。手習いが楽しいのかどうかわからないが、一歳年上の小吉も通っているから、遊び友達がいるかと思うと、待ち遠しい気がする。修造兄さんは、あさりやしじみを担いで売り歩く棒手振をしている。とびきり朝早くに出かけるから午前中は遊んでもらえない。あわてて出かけ、戸を閉め忘れたんだなと思った。
 おっ母は、いつも内職をしている。ご膳のときには片付けるが、たいてい家の中には色とりどりで、ツヤツヤした着物が広がっている。たいへん立派な物で、おっ母の着ているものとは全く別物だ。
「汚れるから、触っちゃあ駄目。どうしても、これを昼までに仕上げてお店に持って行かなくっちゃあならないから、あわててるの。おばさんの家に行って遊んできなさいよ」いつものように邪険にされる。
 ここでは昼餉にはありつけそうにないのかなあ、とグズグズしていて、結局四つ(十時頃)を少しまわった頃に出かけた。握り飯の妄想で頭が、いっぱいになる。二日前もおばさんに、ご馳走になったばかりだったから。
 前におらが急にうちにもどった時、修造兄さんとおっ母が大事そうにひそひそ話をしているのを聞いてしまったことがある。
「大家さんに離縁の申し立てを頼んでみてはどうでしょう? 酷い目にあっているのを、どうやって止めていいものか、あっしも生きた心地がしねえ。いつでも守ってあげてえと思うが、ままならねえ」
 リエンって、何だろう? 修造兄さんも普段とは全く違う悲しげな声の響きだった。でも、すぐに振り返っておらを見つけると、いつものように遊んでくれたのですっかり忘れていた。
 修造兄さんの隣の小吉の家をちらりと見て通りすぎる。小吉は手習いに行っているので、今はいない。やっぱり、おらは一人で遊ぶしかない。
木戸近くの表通りに面した家から、白髪のおじいさんが出てきて「やあ」とおらに声をかけた。この人は大家で、おかみさんも同じ傾きに背の曲がった老夫婦だ。おじいさんの方が、なにくれと世話をやいてくれる。おっ母に特に優しいように見えるのは気のせいだろうか。
 それにしても、おっ母がいないことには困り果てる。おっ母だけを探しに帰ったのに。
 おらの目以外から見ても、おっ母はきっとべっぴんだ。普段は優しくて明るい人なのだから、修造兄さんにも好かれているのだろう。
 また、走って走っておばさんの店の前にもどった。おっ母はどこに行ったのだろう? やっぱり、店が一段落するまで待って、おばさんの家で昼げをもらおう。
 さて、それまで何をして遊ぼうかと懐を探り、石を取り出した。おばさんに買ってもらったけん玉と、お宝の石はいつも持ち歩いている。
 商いで修造兄さんは今時分この道を通るはずなのに今日は来なかったなと、小名木川の方角をまた見やったときに、ふっと修造兄さんの背中を思い浮かべた。背が高くて右肩がわずかに下がっている。さっき、うちにいたのはおっとうの知り合いではなかったのだと気付いた。
「まあ、太一ちゃん。一人で大人しく遊んでいるのですね」
 と近付いてきたのは、髪結いの千鶴おばちゃんだ。なにやら懐から包みを取り出した。
「はい、良い子だから、あげましょうね」と、ニコニコしている。
「ありがとう」
 小さな声で礼を言って、差し出した掌は土でまっくろに汚れていた。あわてて引っ込めて、着物で掌をゴシゴシとふき、もう一度出した。千鶴おばちゃんは、再び、微笑んでから、腰を折り曲げて包みをくれた。このおばちゃんはいつも飴玉の包みを持ち歩いているのだろうかと、うれしかった。
「おっ父さんは、相変わらず酒びたりですか?」
「そんなことない」
 必ず隠す事にしている。袖口から覗きそうになる青い痣を飴を持ってない方の手でそっと覆った。
「困ったことがあったら、なーんでもおばちゃんに言うのですよ。力になるからね」
 千鶴おばちゃんは疑わしげな顔で、おらの腕と顔をじっと見つめた。ほんの少し逃げ出すことはできても、ずっと、おっ父から逃げることはできないのだ。五歳でも、おらは、とうに知っている。他の人にはどうすることもできないのだと。おっ母をなんとか守ることで、頭はいっぱいだった。だから、激しく首をふった。
「困ったねえ。今度おっ母さんやおっ父さんと話し合ってみようねえ。何かいい策がないものか」
 そうつぶやいて、おらを何度も振り返りながらも行ってしまった。いつもの大きな道具箱を持っていたから、たぶん仕事に出かけるのだろう。みんな、大人は忙しいのにおっ父だけは、なぜあんなに遊んでいられるのだろう。おっ母がかわいそうで仕方がなかった。
 木戸の奥からは、おかみさん達が入口辺りに並べられた鉢植えを指差したりしながら大声で話しているのが聞こえる。わーっとけたたましい笑い声が響いてきて、飛び上がるくらいに驚いた。
 木戸の奥からは、おかみさん連中三人が長屋の入り口に並べられた鉢植えを指さしながら、満足そうに自慢し合っていた。たまに、わーっと、けたたましい笑い声が響いてきて、飛びあがるくらいに驚いた。
 でも、もっと驚いたのは空が真っ黒になってピカッと光ったことだった。辺りの人がさっと家々に引いて行った。まだ雨は降り出していなかったが、なにか嫌な心持ちがした。昼九つ時(午後一時頃)のことだ。
 東の通りから、女の人がヨロヨロとおぼつかない足取りで近づいてくる。
(あっ、おっ母だ!)なんだ、こちらに向かっていたのかと、入れ違いになった合点がいった。そんなことよりも様子がおかしい!
おっ母が真っ青な顔をして、おらに向かってくるではないか。崩折れるようにしゃがみ込んだかと思うと、きつく抱きしめられる。
「たいへんなことをしでかした。ああ、どうしよう……」しゃくりあげている細かい動きが伝わった。
 おっ母が道端で泣くなんて、初めてのことだ。
 おらは、ただ棒のように立ち尽くした。
 背中をかきくどいた後、今度はおらの顔をまじまじと見る。目を伏せると、おっ母の着物に、かすかについている血の跡を見て、はっとした。
「おっ父がやったのかい? 大丈夫?」と、おらは初めて口をきいた。
 首を横に降っただけで、おっ母は茶店の中に入っていった。
 それから、直ぐに、おばさんを呼んでいる大きな声を聴いた。
「姉さん、姉さん、たいへんなことをしでかした」
 中には何人かの客がいたので、おばさんが表に連れ出すと、店の軒先でおっ母が血相を変えて話している。中身までは聞こえない。
「えーっ」
 おばさんの驚きの声はすさまじかったから、ますます怖くなった。
 耳を、うんと澄ませて、おっ母の取り乱した声を必死で追いかけた。でも大粒の雨がついに降り出して、その声の、ほとんどをかき消した。
 みるみる雨は激しさを増した。雨が屋根に当たるザアザアと地をたたくザクザクの凄まじい音の中、泣きそうになりながら、おっ母の声を探した。とんでもないことが聞こえてきた。
 ――そんなことってない、おかしいよ。おっ母がおっ父を殺したって? 空から溢れ出る雨、雨。空まで泣き出したじゃないか……。
 
(二)
 髪結いの千鶴は二件の仕事を終えてから、買い物などを済ませて六軒掘の住まい近くまで戻って来た。地名は、南北に走る堀の名前からついている。堀を渡ると風は生まれ変わったように涼しくなる。
 深川の町が大好きで、ここなら目を瞑っていても歩けると思っている。生まれ育った故郷は、北に堅川、南が海、東が大横川、西に隅田川とに囲まれている。
 表通りの威勢のいい呼び込みの声を聞き、賑やかな人の群れを上手に渡る。疲れと重い荷物を抱えているが、気分は晴れていた。
「お千鶴さん、暑いですねえ」
 小町娘が自慢の小間物屋のおかみさんから声がかかる。「はい、おかみさんも気をつけて」と、辞儀をしながら通り過ぎる。八百屋で売り子をしている小僧さんにも軽く会釈。「にゃあ」と目の前を横切る猫はどこのうちの猫か、目を凝らして見たがさすがにわからなかった。最近猫が増えた。
 陽が傾いているというのに、晩夏のむせ返る空気には辟易する。額の汗をぬぐいながら長屋の木戸を開けると。狭い路地には所狭しと、植木や草花の鉢が、どの家の前にも並べられているのが見通せる。中でもとりわけ目立つ夕顔の大輪の花が長屋の塀に、ぼんやりとした影を落としているのに気をとられた。そのまま住まいを通り越して隣まで見に行った。
 一雨来た後の湿った空気の中で、この花ばかりは気持ち良さげに見える。そうすると、秋の虫の音も聞こえてくる。裏長屋では家賃を滞らせる者もあるというのに、ちょっとした花の道楽を楽しむ深川っ子が多い。朝方は井戸端のまわりで、おかみさん達が、かしましいのだが、この時刻は流石に、ひっそりしていた。
 今の住まいは、夫である橋蔵の知り合いの仲立ちで借りられた。橋蔵も髪結いが本業だが、お上から十手を預かる岡っ引でもある。木戸を入ってすぐの家で、この裏長屋ではここ一軒だけが広い。元は長屋を治める大家のものだったらしいのだ。入口から続く土間の勝手場以外に、髪結いのための土間の仕事部屋があり、八畳の広さの茶の間と、六畳の寝間が東隣にある。井戸は共同だが、寝間の北側には小さいが専用の庭、はばかりまである。贅沢とは思いつつ千鶴は、とても気に入っている。
 六軒掘長屋は他に五軒がひしめく。その西側奥に共同の井戸と、はばかりがある。
 千鶴は少し行き過ぎた道を引き返し、腰高障子を開けた。ちょうど水屋が大甕に水を注いでくれているところだった。留守の間に水屋が来た時のため、甕のふたの上には水代の小銭を置いて出かける。家々は開け放しである。この辺りでは、みんなそうしているのだ。深川では井戸の水はしょっぱくて飲用には適さないから、飲み水を買わねばならなかった。
「水屋さん、お疲れ様。いつもありがとうございます」
 髪がちらほらと白くなる齢いの男だが、天秤棒に重い水をいつもかついでいるので体は逞しい。「いえ」と言って、ちょこんと辞儀をした後、置かれた代金を懐から取り出した巾着袋へ、丁寧に仕舞った。
「桔梗の花がきれいに咲いたなあ」
 水屋は愛想よく、入口の鉢植えをあごで指した。
「珍しくうちの人が買ってきてくれたんですよ」
「親分は気がきく人だ」
 亭主の橋蔵は同心の檜山という若い侍に遣えている。いつしか深川では知らぬ者のない顔になっていた。千鶴は橋蔵の髪結いの仕事は大いに敬うのだが、御用の手伝いは、なんとかお断りできないものかと案じている。危ない仕事であり、どんなことに巻き込まれるのか見当がつかない。手伝ってやりたくても、どうしようもない。小さな傷でさえ血を見ると怖気づくのだから。
「お千鶴さんは、お茶にお花にと、ていしたもんだってここいらで評判で。手習いの師匠だってできるのに、なぜか髪結いさんになったのが深川の七不思議ってさ」
「お上手だこと。母がね、嗜みだと言って習い事にうるさい人でしたから。でも今はうちの人が師匠。もう髪結いも十年近くになりますが、やっぱり師匠には追いつかない」
「そのうちに捕物もやったりして」
「そればっかりは無理ね」
 千鶴が噴出して笑うと、水屋も一緒になってお腹をかかえた。
「橋蔵親分は果報者だよ、昔から知っていますが花を買ってくるような方には見えなかったけどなあ」
「ああ見えて、優しい人ですよ。桔梗の花びらが、こんなに淡くて、何とも儚げな薄青色のものはとっても珍しいでしょう? なんて言って買ってくる人ですから」
 小ぶりの鉢を持ち上げ、もう一方の手で水色の花びらを撫でながら、千鶴は水屋にもっと見えるように差し出した。水屋はうれしそうにうんと一つ頷いてから、はっと思い出した言葉をつないだ。
「ところで、ていへんなことが。漁師町の政次が殺されたっていうんで、大騒ぎになってまさあ。おかみさんのお松さんが自身番に下手人だと名乗り出たとか」
「なんと! 太一ちゃんのおっ父さんを、おかみさんが?」
「親分が同心の旦那と一緒に調べに行かれてるって、ついそこの家で聴きましたぜ」
水屋は噂話が過ぎたとでも思ったのか「それじゃあ」と、そそくさと立ち去った。
 買ってきたあさりを流しのざるにザッとあけて何度もすすぐ。空になった桶に半分ほど水を注ぎ、あさりを入れた。それから塩をつまんで放り込みながら、あの人は当分の間、家には戻れそうにないなと思案した。
 夜のために、汁物にするよりもあさりご飯を炊いておくことにした。お米はたいてい朝一度っきりしか炊かないのだが、今朝は千鶴が忙しかったものだから残り物の飯でおかゆにしたのだ。こんな夜はいつでも食べられるように作っておくのがいいと、これまでのことから察する。段取りをてきぱきこなしながらも、やはり頭の中は別の事でいっぱいになっていた。
 ――困ったねえ。太一ちゃんが心配だ。 
 両手を何回も手ぬぐいでふきながらしばらく悩んでいたが、飯の炊けたのを潮に、体は表へと吸い寄せられて行った。七つ半(五時頃)になろうとしていた。
 早足でさほどの時間はかからないだろう。今頃仏さんを調べているはずで、そう思うだけで、恐ろしい限りだが、今日は行くしかないと決める。千鶴の住む裏長屋を出て六間掘に沿って南へ向かった。行き止まりの小名木川をまた川沿いに右に折れて高橋を渡ってすぐの処が、海辺大工町だ。そこいらの虫の音が急に騒がしくなったように感じながら風を切った。
 木戸口から既に黒山の人盛りの中をかきわけながら、亭主の橋蔵を探した。
 その時、やじ馬に押しつぶされそうになりながら、ふと知り合いの後姿に目が留まった。
「はて、来るのが遅かったのかのう……何事だろう」
 声を上げた小太りの背中に親しみを感じる。
「あの、寛西先生じゃないですか?」
 千鶴が生まれたときから世話になっている医者の寛西だ。長屋の中の様子を窺うのをやめて、汗をふきながら振り向いた。
「お千鶴ちゃん、こんなところで会うなんてな。太一が怪我人がいるから助けて欲しいと、うちに来たんじゃ。あいにく、わしは知人の法要で留守にしておった。先ほど戻ってから、あわててここへ来てみたのだが、怪我人というのは誰だった? 松さんじゃなかろうか。しかし、この人盛りは事件かいな?」
「政次さんがお亡くなりになったとか。あっ、一緒に檜山様のところに行きましょう。そのお話は大事なことです、きっと」
 千鶴は檜山を探すためにうんと背伸びした。
 入り口付近がざわついている。仏さんはどうやら戸を開けたすぐ後ろの土間に横たわっているようだった。どんな形で横たわっているのだろうか? 仰向けなのか、うつぶせなのか? 血が流れているに違いないと思い浮かべたとたん、千鶴の血の気が引いた。寛西が倒れかかっている千鶴を抱きかかえ、さらに千鶴の後ろにいた人が大あわてで背中を押さえてくれたようである。その様子を見つけた同心の檜山が駆け寄った。
「お千鶴さん、お千鶴さん。しっかりして。裏で休んでくださいな。御用の身内なのだから、こちらに。橋蔵親分の大事なおかみさんに何かあったら、私が恨まれる」
 檜山と寛西が千鶴を支え、長屋の裏側にまわった。
 ここの長屋の裏にも井戸や洗濯場や物干し場があり、腰掛けられる板を渡してある所に千鶴を引き寄せ、座らせた。長屋の各家には、戸も裏口の障子戸も鍵はない。そもそも土間と一間だけで腰高障子と呼ばれる入口の戸しか無い長屋も多くある。裏長屋全体の入口である木戸が鍵に近い役目を担っている。
 裏庭は検分の場なので、御用の筋のものしかいなかった。
 橋蔵が手を休めて千鶴に声をかける。
「珍しい場所に顔を出すじゃないか? いったいぜんたいどうした? 何でもあっしの真似をしたがるんだから弱るなあ。先生もご一緒でしたか」
 橋蔵は寛西に辞儀をしてから、檜山にも手数をかけているという気持ちからか頭を下げた。
「だけど、お千鶴さんの一途な行いを私は偉いなあと常々思っていますよ。ここに来た訳がなんとなくわかります。先生はまたどうして、ここへ?」
 檜山は三十半ばの侍の三男坊だ。とびきり気の優しい男なのだが、なぜか所帯を持たない。もっと変わっているのは橋蔵夫婦などの町人相手に珍しく丁寧な言葉遣いは、異常ですらある。
 寛西に詳しく事情を聴くために井戸端に移り、言葉に頷きながら顎にしきりと手をやっていた。すらりとした細身の長身に黒羽二重の着流し、博多帯を小粋に締める八丁堀の旦那そのものの姿が、とても映える。
 千鶴は二人の話をうっすらと耳にしているうちに気分がましになってきたので、橋蔵に向かって話しかけた。
「おまえさん、松さんが自首してきたっていうのは真ですか?」
「だよ。それでここに来たって訳だから」
「太一ちゃんはどうしているの?」
「お松さんの姉さんが、預かっているって」
「そうだったら心強いですね。なら、あわてて来ることもなかった」
「左脇腹を包丁でひと突きにされて、土間にうつぶせになって事切れた。凶器は土間に転がっていた。お松さんの話では、鋏で突き刺したということだったが、凶器は包丁なんだよ。変だろ?」
 血という言葉でまたもや、千鶴は気が遠のきそうになるのを必死でこらえた。裏の障子戸は開かれていて、畳敷の寝間の様子を見渡すことがきでる。こちらからは、一番奥が入口の土間にあたる。そこは一段低く下がっているおかげで、生々しい場は見なくて済むので、ほっとした。檜山は、裏口近くで紙切れを拾い、また布団に貼りつくほど腰をかがめ、何かを見つけては、懐紙を取り出し、それらを丁寧に包んだ。
 一間しかない部屋に布団一つは敷かれたままだ。他に、枕屏風が倒れ、たたまれてあったのがくずれた様子の年季の入った布団が二組ほどと裁縫箱が見える。
 ――いつも針仕事をしていると聞いているのに、縫いかけか、出来上がっている着物などが見当たらない。
 千鶴は気の赴くまま裁縫箱に近づき手に取った。フタを取ると、鋏はちゃんと納まっている。刃を夕陽にかざしてみるが、きらりと光った。
「ああ、まだ何も手を触れちゃあいけないよ。鋏はふき清められてるようだと、さっき検分済みだがな」
 あわてて千鶴を止めようと、橋蔵が近づいた。
「そうでした。勝手に触れてごめんなさい。わたし、なんとかしなくちゃって激しく動揺している。悪かったなあと思っているの。もっと早くに太一ちゃん親子の力になるべきでした」
「千鶴のせいじゃないって。知らせがあってすぐに駆けつけたが、そのときには、仏さんはまだ温かだった。もう少し早ければ救えたかもしれねえ。でも、おかみさんはあわててしまって、姉のうちに駆け込んだらしい。それで、ちいっと知らせが遅れたってわけだ。仕方がねえなあ。仏さんは酒の匂いがぷんぷんしてる。いつものように暴れ出したんだろうよ。力には力が返されるというのが真のようだな」
 橋蔵がやりきれない表情を隠さずに、また検分に戻っていった。
「畳に引きずったような血の痕がわずかだが残っている。引きずられたものではなく、当人の指の跡だろう。刺された包丁が土間で、はずれたと考えれば、土間に血が多いことも無理からん」
 檜山が、そう仲間の同心と話している声を聞きながら、一人になるところを見計らって気になることを思い切ってぶつけてみた。
「最初の一刺しは命に至る傷ではなくて、土間で亡くなっているのですよね。なぜ、土間に向かったの? 助けを呼ぶなら、裏口がすぐそこ。傷口は確かに鋏と包丁によるものとわかるんですか?」
 

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