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お千鶴さん事件帖「涙雨」第一話③/3 完結編 無料試し読み

 千鶴は手招きして橋蔵に伝えた。気絶でもしそうなことが無い限り、つかつかと御用の場に入っていくわけにはいかない。薄く開く戸口から、怪訝そうな顔の橋蔵が覗き返した。「どうしたんでい? もう、うちに帰っているのかと思ったが」

 橋蔵は自身番の戸をさらに開けそっと出て来た。もう宵の五つ(八時頃)に近づいている頃だろう。千鶴は早口になって、太一から聞いた事を仔細に伝えた。何かひっかかるふしがあったようで、首をひねりつつも、ふんふんと辛抱強く橋蔵は聞いていた。
「今自首しに来ているのが、その修造だ」
 とだけ告げて、危ないから早く帰るようにとぶっきらぼうに言いながら帰り道を指差した。
「あの……」という間もなく自身番の戸はピシャリと勢い良く閉められた。
 役に立ちたい一心なのにと、戸口に向かって右目の下に指をやり、「あかんべえ」と小さい声を漏らす。少し気が晴れたように思い諦めて帰ることにする。
 ――わたしが出るまでもなく、お調べは進んでいる。と、千鶴は胸の中に言い聞かせた。
 修造は、あさりの棒手振だと先ほど聞いてきたが、色の白いほっそりとした男だった。太一親子に同情したのだなあと思うと、いたたまれなかった。松の姿はちらりと見たことがあるぐらいだったが、あのふたりが違う世にいたら結ばれたのかもしれなかったのにと痛ましい。
 小名木川の河べりを持参した提灯を手に急ぎ足で歩いた。さわさわという河の流れる音を聴きながら、事件について頭を冷やしもう一度考える。何より早く手を打つべきだったと我が身の無力さにさいなまれる千鶴だった。
 ――身内の単なる、いざこざではなく、初めから事件だったのではないか、と。放置した末に事件はさらに大きくなったのだ。
 でも、直接の死は松の鋏ではない。鋏は、あの場に落ちていた油紙の中身である鶯の糞で、血を拭いさられた。それは密かに思い合っていた隣に住む修造の仕業であろう。腹の鋏の刺されてあったのと同じ処をめがけて、包丁をもう一度深く刺した。それから鋏は、気をつけて抜き取る。包丁が死に至ったのだろうか。つまり、包丁で刺した修造が下手人だったのか?
 前から示し合わせた事が無かったとしても、松との一味ということになるのか? あるいは、はなっから、全部を疑えば、事を練った上の事件であり、もちろん一味なのか? 
 しかし、待てよと千鶴は思った。その土間で凶器がはずれたと言う檜山の言葉を思い返していた。しかし、凶器である包丁が寝間に無かったことが千鶴にはまだ解せない。
 千鶴の目の中に血のように真っ赤な色が広がった。これはまた、気が遠のく兆ではと、一瞬ふらついた。その時あることが紙芝居の絵のように浮かんだ。こんなことは初めてのことだった。
 驚きながらも、ゆっくりと六間掘の方角へと道を横切った。すると店から寛西がのれんをくぐって、のっそりと表に現れるところへ出くわした。
「お千鶴ちゃん、夜も遅いから私が送っていこう」
 千鳥足の寛西を見て、逆に寛西を送っていかなくては、と心配になった。千鶴の方が猫背ぎみの背中に、そっと手をやる。寛西はすっかり頭が禿げ上がり僧侶のような風貌だが肩幅が広く、がっしりとした体格だ。おまけに年のせいで腹回りには、かなりの脂が乗っている。
「大丈夫ですか? 寛西先生を背負う力はないと思いますから、しっかり歩いてくださいまし」
「これは、これは有難う」
 にんまりと口の端を上げ、少しだけ体を預けた様子だった。気をよくして千鶴は気がかりな事件のことを聞いてみた。
「太一ちゃんと会ったのは、先生じゃなくて留守役のお種さんでしょうか?」
「ああ、そうだ。痛ましい事件であった。それにしても、留守にしていたのが悔やまれるなあ。突然の通り雨で、立ち往生していたのだ。お種さんの話では、太一ちゃんがうちに来たときに、着物が血でびっしょりだったらしい。それで、わしは太一ちゃんの方が重症なのかと政次には悪いが、肝を冷やした。あの、血だまりじゃあ、無理も無いな。あんな父親でも、抱き起こしたりしたのだろうな。さぞかしつらくて怖い思いをしただろう」
 その言葉に千鶴はまたしてもハッとした。同じ絵が先ほどよりはっきりと思い浮かんだ。それは昼の半時(一時間)ほどの通り雨の景色だった。
 重い足取りで夜道を行く。別の長屋で木戸番が戸締りをしているのが目に入る。やけに早い戸締りだなと思うが、これも事件のせいなのだろうか。河べりまで来ると、ひっそりとして歩くものは、二人っきりのように見えた。ポチャッという、蛙が水に飛び込む音が響き渡る。
「もう、夜だけは秋めいてきましたねえ」
「堀を渡る風は心地よいなあ。わしは堀のある、ここの景色が大好きだ」
 寛西先生はうーん、と伸びをして千鶴から離れた。六軒掘の長屋への分かれ道にさしかかったからだ。
「白湯でも、いかがです? うちで酔いを覚まされたら」
 木戸の前で手招きをして促すと、虫の音がやかましく答える。
「もう、大丈夫。だいぶ酔いが覚めた。あっこれをやる、そのうちに渡そうと思っていたが、ちょうど良かった」
 懐から真新しい巾着袋を取り出す。水色の地に、小さく赤い椿の花が縫いこまれている。
「まあ、きれい」
 寛西はいつも懐に飴玉やら、子らに受けそうな小物を必ずもっている。それをひょいっと手渡すので、昔から小さい子に人気の医者だ。それで、千鶴も寛西を見習った。
「太一の家の前で会ったあと、これを小間物屋でみつけた。お千鶴ちゃんにぴったりだと思ったのだ。昔から青い色が好きだったものなあ。空も海も青だものなあ」
 喜ぶ顔が見たいという気持ちを物でしか表わせないな、と付け加えて頭をかいて笑った。千鶴は自分に似ているなと思ったが、すぐに打消した。千鶴が寛西に似たのだ。
「わしはな、夜の帳の濃い群青色が好きだな。酒が飲める時間だからかな、ははは」という一際大きい笑い声をあたりに響かせながら寛西がゆっくりと、でも先ほどよりもずっと確かな足取りで去っていくのをいつまでも見送った。
 橋蔵はその夜遅くに帰ってきた。
 千鶴が聞きたがるので橋蔵は調べの仔細を話し始めた。
「雨が降りそうだったので早めに仕事を切り上げて長屋に戻ったと言ってから考えて、九つ半(十二時半頃)だと。
『やめて』というお松さんの声が何度も聞こえた。でも政次の暴れまわっている時のお松さんのつんざくような悲鳴ではなかったから、様子を窺っていたらしい。政次の罵声も聞こえなかった。長屋の壁は薄いから酷くなりそうな時にはいつでも駆けつけていた。それから『うっ』という声がした。しばらくして引戸を勢いよく開け、走り去る音が聞こえたので、出て行ったのは政次だと思った、と言うんだな。
 隣家に入ると政次が寝間で鋏を突き刺されて倒れていた。これでは、お松さんがやったのだとすぐにばれてしまう、と思ったそうだ。迷っていると政次さんは生きていて、うめき出した。だから、あっしがやりました、てえのが顛末だ。
 同じ傷口に包丁を慎重に、でも思い切り深く突き刺した。鋏を抜いてきれいに血をふき取り、裁縫箱に仕舞った。
 着物が出来上がっていたようだったから、それもまとめて届けたそうだ。何回か運ぶのを手伝ったことがあり、仕事の段取りは知っているらしい。お松さんの仕業でないように、とっさに謀ったんだとよ」
 長い言葉の後、橋蔵はため息をついた。

(五)
 翌々日、千鶴は形ばかりの弔いに太一の家へ出かけた。
 事件後、二度目の訪いである。誰が真の下手人であるのかということに、かかわるのが、いい加減つらくなってきた。
 ただ太一に、あまりにも入れ込んでいる様子を見かねたらしく、檜山が御用の覚え書きとして記しているものを見せてくれたのは昨夜のことだった。檜山は仏さんの周りをいちいちと、細かく正しく調べる男だとわかったが、几帳面でもあるらしい。惨たらしい事件の場を見ることができない千鶴には、かなりきつい内容だった。しかし太一に真を知らせねばと勝手に思い込んでいたから、まずは千鶴自身が真と向き合わねばと、意気込んで読んだ。
 
 風の全くない蒸し暑い夕べ。
 男の死体がうつ伏せになり、血の海に浮かぶ島のように横たわっていた。
 到着した時、既に何人かの同心、岡っ引が検分のためにそれぞれの持ち場で働く。
 開かれた戸口から差し込む夕日が長く伸ばした左腕を照らしている。手首にはシワが深く刻まれ、ごつごつした指先も真っ赤な血に染まる。頭は白髪がわずかに混じり、首筋の肌の色は日に焼けて黒し。
 最後の力を振り絞り、入口の腰高障子をかきむしったような赤黒い幾筋もの血の跡が残っている。投げ捨てられたかのように、死体から少し離れた水瓶の近くに包丁が転がっていた。
 暑さと死体のまだ生暖かい温もりから発せられる酒の匂い、血の臭いなどが狭い部屋で交じり合ったまま動かず。
 そこは、九尺三間(間口三メートル弱、奥行き六メートル弱)のありふれた裏長屋のひとつ。腰高障子の表側には少し前の通り雨が激しく打ち付けた跡である雫が残っていた。長屋のたいして代わり映えのしない戸を開けてすぐが、三畳ほどの土間である。土間に入って左側が、カマドや水瓶のある勝手場。右側が血の色に染まった土間。ところどころに水はねのにじみ有り。
 上がりカマチを超えて六畳ほどの畳の寝間へと続く。奥の突き当たりに障子戸と板の戸があり、裏へ出られる。裏庭には長屋の共用井戸、物干し場、はばかりがある。
 木戸口からどぶ板が連なり、三軒同じ家が並ぶ。事件の場は木戸から一番奥。
 千鶴が目をそむけていた土間での仏さんの様子が手に取るようにわかった。
 お上からの正式な御用ではないが、檜山の下働きとして死体の検分をぜひ寛西先生に頼みたいとの書き込みも含まれていた。
 事件から二日が経ち、土間もきれいに掃除が施され惨い影は全く残っていなかった。戸を開け放していると、走りながら石を投げつけては逃げ去る不心得者がいた。線香の匂いにいぶされた大家の夫婦が出てくるところだった。入れ違いに畳の間に上がり線香を上げ祈った。
 戸世を探し二言三言の挨拶を交わしたあと、太一を連れ出す許しを得た。
 太一を探しに裏へ回ると、一人ポツンと佇んでいる。
「駕籠になんか、乗ったことが無いでしょう? わたし達は軽いから頼んで一緒に乗りましょう。おばさんには話したから、いい所へ連れていってあげる」
 そう言って太一に含み笑いをすると、「うん」と勢い良く返事した。
 頼んでおいた駕籠かきに前金を払って、さっそく乗り込む。ぴったりと寄り添い、太一は顔を見合わせて最初は恥ずかしそうにしていた。ところが駕籠がひとたび動き出すと、思った以上に揺れるものだから、千鶴に思いっきりすがっては大声で笑った。こんな声は初めて耳にする。太一の体は柔らかすぎて怖いほどだった。
 次第に潮の香りが鼻をくすぐるようになる。駕籠は永代寺をさらに南下して洲崎の浜まで連れて行ってくれた。ここは、品川と並んで潮干狩りの名所だった。しかし満潮時分だったので、人影はまばらだ。青い海を太一と一緒に堪能することができそうで、ますます気持ちが昂ぶった。
 いきなり遠く海に浮かぶ洲崎弁天がこの世のものとは思えない姿形を現わした。
「おお」と、太一は指差された方を見て叫ぶ。白い雲は幾重にも厚みがあり、底のほうなら掴み取れそうな気さえする。
 浜に着くと、太一は砂の上を走り回った。
 時に転げまわっては千鶴を振り返って、こっちにおいでと誘うように微笑む。背中を追うのに走り回る。こんな笑い顔を、もともと幼い子はするべきなのだとつくづく思った。
「お千鶴ちゃん、巾着を落としたよ」
 と、寛西にもらった青い巾着を拾い、ひらひらと上下させる。
「ありがとう。頂戴な」と、掌を差し出すと小さな獣のような身軽さで、さっと体をひるがえして逃げていくのだ。
 ――お千鶴ちゃんですって? 生意気な。太一を励まそうとした己の方が、童心に戻りすっかり楽しんでいるのだろうな、と千鶴は一人照れる。「いい加減にして、穴一」と、千鶴も大いにふざけながら駆け寄る。穴一遊びの講釈は駕籠の中ですっかり聞かされていた。
 ようやく捕まえて、大きな岩の上に腰掛けさせた。息が切れたが爽やかな疲れだった。ここまで、駕籠でなくても千鶴は一人で、たまに歩いて来ることがある。この岩場は千鶴の特別席だ。その横に並んで、小さめの岩に腰掛けた。
 青い海が目の前に、ただ広がる。寄せては返す波の規則正しい水の舞いと歌声は、なんと心を鎮めてくれることか。
 海原がゆったりと膨らんでいるのは、あの下に想像もつかないものを、人には重過ぎるものを実はこっそりと包み込んでいるせいだと千鶴は思っている。
 ザーザ、ザーザという響きに包まれながら太一にゆっくりと話しかけた。「おっ母さんやお兄さんが、今どうしているのか、聞いてまわったんだけどわからなくてごめんね」
「ううん」
「おっ父さんとは、お別れができたかな?」
「どうかな。でも、おっ父はいい人だったんだよ。大工仕事で怪我さえ、しなかったらって。人って変わるんだね」
 言葉を選びながら順序だてて父親との思い出を語り始めたのだ。事件のすぐ後とは違い、ずいぶん落ち着いていることを知る。この子は頭のいい子なのだろうという思いを強くした。はきはきとした話し方だ。
 おっ父が飲んだくれるようになったのは、大工仕事で負った大傷から後のことだった。大事な右腕が動かなくなったのだ。ほんの半年ほど前。それまで職人として働くおっ父は格好良かった。しょっちゅう仕事場を見に行ったし、誇りだった。だから、おっとうの右腕は大好きで、おれをなぐる左腕は嫌いだ、と言って俯いた。
 長屋の物干しや、木戸を作ったのはおっ父なんだ。だいぶ古くなっていたから家主さんに頼まれたのだった。あんなものは大工仕事に入らないらしくて、朝飯前だと鼻息が荒かった。カンナを動かすとみるみる木くずが上へ上へと盛り上がる。その様子はまるで生きているようだった。わずかな不具合をちょいちょいっ、とノミで加える手さばきの早くて、まっすぐなことといったらなかった。長屋の人達もみんな見に来て、そりゃあ褒め合ってたよ。
 そんな時のことだった。
「あんた、このあたりにとげが刺さって抜けないんだけど」
 おっ母はそこらの木片にうっかり触れてしまったようで、親指の先をおっ父に見せた。頭に手ぬぐいを巻いたおかみさん連中が、一斉にワーッとはやしたてた。おっ父は四苦八苦してた。
「それは、職人技でも無理だろうよ」
 と、大家のおかみさんが言って、皆がそれに応えるように大笑いした。そんな声は全く聞こえなかったようにおっ父は刺抜きを使い、やっきになっていた。
「痛い。そこじゃない」
 おっ母が叫ぶと笑い声はもっと大きくなった。
「このままにしておこうか。そのうちに溶けるんじゃない?」とおっ母は諦めかける。
「駄目だ、駄目だ。とげがな、血の管を通って心の臓まで回ったらていへんだぞ。命取りになるぜ」
 物干し作りよりも、おっ父には刺を抜く方がずっと一大事だった。おっ父とおっ母は仲が良かったのだなあと思い返す。ようやく無事に抜くことができたのだ。
 人って、変わるものなのだなということが初めは信じられなかった。おっ父も変わったが、おらも、きっとそう、変わったのだ。
 そんなことを話してから、涙が頬を伝うのをそのままにして瞳はまっすぐに海に向けたままだった。今までのように感情に任せて泣いているのではく、ただただ、涙だけが勝手に伝わるというように。
 そのとき、ようやく千鶴は恐れていたことが真であることを解しつつあった。解するということが、全て良い事とは限らないことも、このとき初めて知ったのだ。
 その考えをそのまま太一に知らせることが正しいのかどうか迷った。しばらくして波の音がなぜか止まったように感じた刹那に、ようやく決めた。たとえ幼い子らでも真に向き合わせるのが大人の務めだと思い至った。それで太一の目をしっかりと見つめ、静かに話した。
 「刺されている包丁を引き抜くとね、一気に血が流れ出て発作を起こすんですよ。ただ、時の長さを考えると、元々間に合わなかった命かもしれないけれども」
「えっ? 知らなかった……『は、早く医者を呼んでくれ。頼む』と、戸口にゆっくりとにじり寄ったんだ。おらは怖くて、しばらく固まった。こっちに近づいたとき、包丁がささっているのが見えたから、それで痛がっていることが、やっとわかった。なんとかしてあげないと、と思った。痛いのだけはイヤだから、力を振り絞って抜いてあげたんだよ」
 太一の顔が恐ろしげに歪んだのを見て千鶴は心をえぐられた。海へと目を背けると明るい海は何の変わりもない。人の死さえかくまうかのように、ザーザ、ザーザと波打つばかりだった。
 こうしてまた、海は一層深く青くなるのだと千鶴は思った。

(六)
 数日の後、松と修造のお裁きの結果がついに出た。
 長屋の者達もせめてもの償いだと思って団結し、皆の嘆願書が奉行所に届けられるという異例の事もあった。それが吟味されたのかどうかは定かではないが、はずみによる事件ということになった。松の裁きは罪一等が減じられ、江戸所払い中の一番重い罪という処分に決まったのだ。
 檜山が、懇意にしている与力の弱みと引き換えに、便宜を図ってもらったりもした。まじめ一方の檜山にそんな振る舞いがよくできたものよ、と橋蔵と千鶴は驚いた。
 朝げの味噌汁の入った鍋から湯気が上がる。おたまで椀に注ぎ、息をフーフーと吹きかけてから橋蔵に手渡す。橋蔵が一口すすり、おいしそうな顔をしたのを見て話しかけた。
「今日から四人で、新たな土地で暮らすことになるんですね」
「そうだなあ。お互いにかばいあってたから、かえって事件がややこしいことになったぜ」
「わたしが口を挟んでいい?」
「なんだよ」
「わたし、御用の手伝いができるかも」
 千鶴には、殺しに及んだ下手人のやむにやまれぬ事情や心境がなぜか見える、ということに先日来気付いて己一人で震えていた。それは、丹念に理を積み上げて考えるような難しいものではなく、見えるのは、人の思いや気持ちなどが一刻にして絵となり目の奥深くに浮かぶという赤い幻だった。どんなに思いつめた行状だとしても、それは単なる下手人の言い訳とも言える。ともかく真が明らかになってからお役人が吟味すればいいではないか、数日来千鶴はそう割り切ったのだ。
 事件はむごたらしく、霧に包まれたかのようだったが、真は算術のように一つである。いつもの暮らしの欠片から音曲のように共鳴しあう真だけを繋ぎ合わせる。そして出来上がったものと絵が一つに重なったときの胸の昂ぶりを今一度思い返していた。
「なんだ? 何かわかったのか?」
 汁椀を箱膳に戻して橋蔵が不思議そうな顔をして千鶴を見つめた。
「二人に刺されてからも、まだ息があったんですよね?助けを呼ぶのなら裏の障子戸を開ける方がずっと土間に行くよりも近いでしょう?」
「まあ狭い裏長屋の中だが、瀕死だからなあ。ちっとでも近い方がいい」「入口に誰か来たから、這って行ったとしか考えられない」
「太一が修造を目にしていたじゃねえか」
「確かにそうです。だけど、それがそんなにたいへんなことだとは思っていなかった。だって、戸口から包丁は見えないでしょう? 背中だけしか」「するってえと、どういうことだい?」
「太一ちゃんは、おっかさんがお姉さんの茶店に飛びこんできてから、もう一度家に帰ったの。つまり家に(二度)帰っているはず。太一ちゃんの話をよく聞いておけば、わたしも間違わなかったんです。修造さんを見たのは、(最初)と言っている。それから、包丁を見たのは(後で)見たと、ちゃんと言ってましたから。恐ろしさで気が入り乱れていましたが、聞いているわたしも早とちりしてしまった。びしょぬれの着物であわてて寛西先生の家に走っているわけだし。何より、仏さんの周りに水が滴っていたと檜山様の覚え書きにもありました。最初に帰ったときに、すぐにお医者へ駆けつけたのなら、濡れるはずがない。血を浴びるはずもない。最初に修造さんを見たときには、戸口から一歩も中には入っていなかった」
「おっ母さんが泣き崩れるのを見て、初めて異変を思い起こしたってわけかい?」
「はい、それが二度目のことで包丁を目にしました。そう言えば、重さのことまで。とても生々しい言いようでしたから。宝ものの石を落としたのもこの時」
「土間近くまで政次が這って来たから包丁が見えた。包丁は刺さったままだったてえことかい?」
「そうだとわかりました。助けようとして、包丁を脇腹から抜いた。その時たくさんの血が溢れ出て、発作を起こして死に至ったんだと思います。包丁は太一ちゃんが恐ろしさのあまり放り投げたんでしょう。寛西先生のところに走ったときも、通り雨の真っ最中でその中を走ったらしい。かなり血は雨に流されたようだけど、お戸世さんは太一ちゃんを着替えさせたときに気付いたはずです。わたしが事件の場での話を聞きだしているときに、修造さんに驚いているふりをしながら、実は太一ちゃんと事件のかかわりから、話をそらせた」
「おまえ、女岡っ引をやるかい?」
「いやですよう、血が怖い。ですが、血を思い浮かべたり見たりすると赤い幻とともに絵が頭の中に浮かんだんですよ。信じてちょうだい。激しい雨模様の絵でした。それで、ひらめきましたから。あれは太一ちゃん一家の涙雨だったって」
「……絵ってなあ、ひらめきってなあ」
 橋蔵は不信感を露わにすると、千鶴は追い討ちをかける。
「おまえさんの助っ人をしてもいいです!」
「小さい子の事件だったから、女のおまえに有利だったのかもしれない、今後は、事件に一切口出ししないように」
 千鶴の少し得意げな顔に、橋蔵は釘を刺しさらに続けた。
「女岡っ引なんて、いるわけない……馬鹿らしい」
 橋蔵は両手を頭にやり前に倒して抱え込んだ。それから、こうも言った。「ひでえ暴れようだったことは確かだが、政次さんもちっとばかし気の毒だよ。あっしも仕事ができなくなると殺されちまうのかな」と、千鶴を恨めしく見つめる。
 戸を開ける音とともに、聞き馴染みのある声がした。
「親分、千鶴さん、入るよ」
 勝手知ったる上がりカマチに座り、浮かない表情の檜山を見る。
「朝げはもう済ませましたか、檜山様」と、尋ねた。檜山専用の箱善を取り出そうと、さっと千鶴は立ち上がる。 
「今朝は飯がのどを通らないから、やめておく。松さん、戸世さん、修造さん、太一ちゃんの四人で江戸を出て行くのを、お役目で見送ってきました」
 その言葉を聞いて、千鶴は力が抜けたように座り込んだ。
「これで良しとすべきなのか?」檜山がふっとため息をついた。
「痛ましい事件でしたが、一件落着して良うございました。なあ」
 と言って、橋蔵は救いを求めるように千鶴を見た。
「太一ちゃんのこともおわかりだったんですね」
「ああ。あのあと太一ちゃんは私に会いに来ましたよ。全てを承知して、『おらが一番悪いのだ』と自首しに来た。お千鶴さんが御用の話をお見通しのようだが、どうしたというのかなあ?」
 橋蔵が頭をかかえているのを檜山はきょとんとした顔でながめる。その檜山に向かって、千鶴はきっぱりとした口調で言った。
「新天地がわかったら、教えてくださいね。わたし手紙をしたためますから。じきに字も読めるようになるでしょう。利発で優しい子でしたもの。四人が、穏やかで幸せに暮らせる事と信じています」
 檜山が帰った後、その実、千鶴も橋蔵と同じ悔いに責められ、胸のつぶれる思いを抱えぼんやりと茶の間を見渡した。
 食べかけのご飯がそのまま膳の上に残っていて、敷物の上に置かれた鍋からはまだ湯気が昇っている。それが、ふっと揺らいだ。
 茶の間の北側にある小さな窓からイワシ雲が覗き、昨日までとは明らかに違う秋の風が入り込んだ。(了)

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