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お千鶴さん事件帖「涙雨」第一話②/3  無料試し読み  

 とっさのことで鋏ならともかく、松が包丁を持ち出してまで刺すとは思えない。別の誰かなのでは、と千鶴には明るい兆しのようなものが見えた。

 寛西が、檜山に断って「どうせ、ついでだから」と、死に至った傷口を視てみようと申し出ているのが聞こえた。しばらくして、桶に水を汲み、仏さんの傷口を洗い始めたようだった。千鶴は遠目でその様子を眺めるが、たぶん寛西が仏さんに被いかぶさるようにして、覗き込んでいるのだろう。尚一層丸めた背中が見渡せるのみだ。
「包丁の巾、奥行きと符合する。一気に一刺しというよりは、ためらったような複雑なギザギザとした刺し口に見える。このような跡は初めて見る。近い場所を数度刺したような。そのためか、やがて血が噴出し、大きな発作が起きて死に至ったのだと思われる」
 見立てを述べる寛西に対して、ふんふんと満足げに檜山が頷いている。
 千鶴は改めて寛西を敬いつつ耳を傾けた。
「鋏はいったいどうなってるわけで?」様子を見に来た橋蔵が檜山に尋ねた。千鶴の疑いと同じように死に至るほどの一刺しは何によるものなのかを問うていた。これにも檜山は何も答えず、懐から薄い紙の束を取り出し辺りにある細々としたものを再び集め始めた。
 しばらくたってから、
「血が吹き出たことによる発作の死。最初の鋏は足元が相当おぼつかないぐらい、政次はひどい二日酔いだったので抗う力もなかったのかもしれない。その後に刺した包丁による傷が死に至ったと思われる。松さんの凶器が包丁ということになると、はずみの事件だと言ってることが怪しくなってくる」
 そう檜山が答えながら、寛西の血だらけになった指を頼もしそうに見つめている。千鶴はそっと目をそらしつつ、思わぬ成り行きに千鶴はギクリとしながら息を呑んだ。
 相変わらず裏庭には、風は無く、蒸し暑い。
 そうこうしているうちに橋蔵は汗を手ぬぐいで拭きながら、帰り支度を始めたようだった。
 檜山は他の同心二人と小声で話し合った後、片付けの人足たち四人が、今か今かと待っている方に向かって、「もう始めていいから」とその者たちに目で合図を送った。
 檜山が集めたものは、石ころや紙くずのようながらくたばかりに見えた。そのうちの一つを懐から取り出した。油紙に包まれた粉末をまじまじと見つめてから、千鶴の方へと近付いてくる。
「この粉は、何か、わかりますか?」と、檜山が尋ねた。
「それは、鶯の糞。着物のしみ抜きに使うものです。高値のものですが、お松さんの職には必要な道具でしょうね」
「これで鋏から血の跡を残さずに拭えるな」と独り言ちた。
「ところで、お松さんはまだ自身番ですか?」千鶴が、たまらず尋ねた。
「大番屋へじきに連れて行かなくっちゃあならないだろう。……トドメを包丁で刺したのか、初めから包丁も持っていたのか」
 と、考えながら檜山は長屋中をせわしなく動き回り、落ちている物を相変わらず集めたりしたあと、橋蔵を呼んだ。と同時に橋蔵が連れてきた男の子に何やら、また懐から取り出したものを見せながら話を聴いたりしている。
 お勤め中の厳しい表情の檜山を見るのは初めてだったのでとても驚いた。
 とは言っても、土間での酷い様には全く目をそらし、遠くから聞こえる皆の声だけを聴き、他人事のように姿を追っただけである。素人考えはいくつか浮かんだが引っ込めた。長居するところではないと寛西に黙って礼をした。裏庭から脇の路地を通ろうとすると足音が迫ってきたのを聞き、振り返る。
 わざわざ調べの手を止めて、檜山が微笑みながら千鶴を見送るために近づいて来た。
「太一ちゃんをよろしく頼みます。私も聴きたいことがあるから、後で行きます」
 眉間のしわがとれて、いつもの檜山に戻っていた。
 先程の話が本当なら、誰もが、ひどい夫に苦しめられていた松を知っているのだ。堪忍袋の緒が切れたための行状としか、千鶴には思えない。
 事件そのものよりも太一のこれからのことを考えようとした。不憫でならないのだ。どんな理由があろうと、人一人を死なせてしまえば重罪だ。しかし、この江戸で女の死罪は慣らいとしては、少ないのが救いだ。一番重い刑で遠島というところだろうか。遠島にしたところで、幼い子を残して遠いところへ行く事は、母親にとって死罪に等しいのではないか、と子供のいない千鶴でも察しはつく。
 松の齢は二十九で、千鶴と同い年であった。あれくらいの子供がいてもおかしくないのだな、と太一の顔を思い出すのだった。
 千鶴は長屋の木戸を開け、通りのやじうまの中をようやく抜け、細道を左に折れた。表通りを歩き、日中に出会った太一のおばが商っている茶店へと向かう。
 途中、寺の塀が長く続くが、さほどの距離ではない。
太一の心細さを思うと、千鶴は我が身の来し方と重ね合わせてしまう。何度、思い巡らせたか知れない、己の出生の謎にまたもや、はまってしまっていた。
 千鶴は捨て子だった。生まれて間もなく、大きな屋敷にも出入りしている植木職人の頭領夫婦の家の前に、捨てられていたそうだ。今でも育ての両親を本当の親と思って敬っているし、十分な情を受けて育った。両親に実の子がいなかったことも、幸いしたのだろう。
 それでも、なぜ捨てられたのだろう、という深い傷は癒えることなく残ったままだ。その傷が苦しいのではない。育ての両親への手前、癒えないでいることを口にすることが、憚られたのだ。両親が苦しむ姿は見たくないので、傷を見せてはならないと思った。その捻じ曲がった気持ちや、自分のうじうじした性根をはがゆい、と物心ついた頃から感じて育った。
 十歳も年の離れた橋蔵に嫁いだのは、父のように頼れる人を求めたのかもしれなかった。
 二十歳になった千鶴に、母の光は言った。
「千鶴ほどの器量なら、もっといい縁談は山ほどあるんですよ。橋蔵さんのことは、よく、お考え。私としたことが、顔合わせの順番を誤ったねえ」
 年の差が光には不服のようで、整った顔立ちを曇らせては繰言を述べた。
 千鶴は温厚な橋蔵と話していると心がほっと落ち着くようで、特に丸い大きな目が気に入ったのだ。分け隔てなく、人を真っ直ぐに見る。太い眉と四角い顔は、いかつくも見えるが、愛嬌があるようにも見える。みなし子に、職を探してやったり簡単な用を言いつけては駄賃を与えたりしていることも、やがて知った。中肉中背の平凡な体つきの中に、非凡な思いやりの心を、なぜか初めて見たときから感じた。橋蔵も天涯孤独の身であったため二人が同士となるのに時間はかからなかった。だからそれまでは、稽古事に明け暮れていたのが、所帯をもってからは夢中で髪結いの修行をした。この人に、どこまでも、ついていこうと思ったからだ。
 橋蔵には髪結い以外に御用の手当てが入ることもあるが、暮らしが決して楽なわけではない。それでも何かにつけ、千鶴の実家へ、季節の初物や珍しい菓子などを持たせてくれる使いに出した。
 その度に千鶴が朗らかに暮らしていることを知り、次第に光は橋蔵のことをやたらと誉め始めた。
「岡っ引になる人って、怖い人が多いじゃないか。私は随分と心配したんだけど良かった。何でも思い込みで決めてはいけませんね」と、橋蔵を認め、己の浅はかさを笑うようになった。
 光の好物の初鰹を持参したのが、ついに効いたのかと、おかしかった。いつ帰っても父の源太は少し離れた場所から、母と子のたわいない話をじっと聞いていて、このときも静かに微笑んでいた。
 帰りがけに光はいつも、こっそりと千鶴に寄り添った。小遣いにしなさい、と紙包みを千鶴の着物の袂に無理やり押し込むためだった。
 血の繋がりが、有ろうが無かろうが、こんな両親がいてくれるのは恵まれている、と改めて思い直す。
 塀に沿って歩きながら、松は子を一人ぼっちにせねばならないほどの耐え難さだったのかと、事の大きさに身震いする。
 ――きっと、ご膳どころではないだろうから、あさり飯を持って行ってあげよう。
 千鶴は目的の霊厳寺門前町が目と鼻の先ほどに近くなってから踵を返したのだった。六間堀の裏長屋へ来た道を取って返し戸を勢いよく開けた。あさり飯を大急ぎで握り飯にし、竹の皮に包んだ。あれくらいの男の子は何が好物なのだろうかと、思い巡らせるが、わからない。台所にある在り合わせの煮物を、みつくろって一緒に風呂敷包みに詰め込んで抱えた。
    
(三)
 もう日が暮れかかる薄暗い中を千鶴は急いだ。暮れ六つ(夕方七時半頃)の時を知らせる鐘の音が響いていた。いつも聞く音なのに、今は妙に重く響くように感じた。
 最初に捨て鐘が「ゴーン・ゴ・ゴン」と三度鳴る。間を空けてから時刻の数だけ鐘が響き、一打ごとに速くなる音をいつも指折り数えるのだ。
 太一が長屋の路地でうずくまっている様子が角を曲がったところから見通せた。
 ほんの近くまで寄っても、太一はぴくりともしない。
「太一ちゃん、たいへんだったね」
 可愛そうに、という言葉は出せなかった。太一はゆっくりと、顔を見上げて訝しげに千鶴を見た。千鶴は同じようにしゃがみこんで、肩にそっと手を置く。抱きしめたい気持ちはあるが、固く拒まれているように見えて、それ以上は踏み込めない。
「ご飯食べたかい? あさり飯を作ってきたんだよ。中の太一ちゃんのおばさんを呼んできてもらえないかなあ。お話させてくださいって」
 太一はこくりと頷き、茶店の奥へと入っていった。店はとっくに閉めている様子だった。中から「おばさん」と呼ぶ声が聞こえたあと、千鶴を招きいれた。一番奥の勝手場にいた、おばらしき人物が顔を出す。年季の入った前掛けをしていた。入れ違いに太一が引っ込み、物入れの大きな行李の上にちょこんと座って言った。
「千鶴おばちゃんだよ」
 その女はうつろな表情で千鶴を見つめ直してから、思い出したように言葉を発した。
「太一から聞いとります。私が松の姉の戸世です。いつも太一がお世話になっているそうで有難うございます。もう、この度はたいへんなことをしでかしてしまい申し訳ありません、泣き暮れているところで。先ほど同心のお侍さんも来られたばっかりで……」
 家に引き返しているうちに檜山に先を越されたようだった。
 戸世の目はウサギのように真っ赤で、腫れぼったい瞼を何度もしばたたいて、深くて長い辞儀をした。かと思うと急に伏し目がちになりもじもじし始め落ち着きが無い。千鶴が茶店にある長いすに腰掛けるように促した。太一ちゃんは、とか今後の事は、などと言う言葉をかけた後、とうとう戸世の目から堪えていた涙が零れ落ちた。千鶴には、慰める言葉も見当たらないで深い息を吐くしかなかった。
 このとき、奥にいる太一と目が会った。
「わたしでよければ、何なりと相談してくださいね。お役に立ちたいと思っています。亭主は岡っ引をしていますから、お力になれることもあるのではないかと」
「有難うございます」
 戸世が無理やり笑みを浮かべてくれたのを機に、聞いてみた。
「本当に松さんが、手をかけたのでしょうか? ここに駆け込んできたのは何時ごろのことでしたか?」
「あれは、昼九つ(正午近く)をだいぶまわっていたと思います。通り雨がザッーとくるほんの少し前。いえ、その後だったか……とにかく、『自分がやった』の一点張りでした。もちろん悪い事ですけれども、日頃の政次さんの振る舞いを知っているものですから、無理も無いではないかと、実の姉としては考えてしまいます」
「酷い暴れようだったのですよね」
 太一の腕の青い痣が思い出されて、ちらりと太一の方を見やると、さらに隅っこに隠れてしまい出てこようとはしない。でもしっかりとこちらの様子を窺っているような気配だけはするのだ。太一の心はいかばかりであろうかと気になりながら、さらに続けた。
「私も、うすうす気付いていたのに、何もできなかったことを、今頃になって悔いています」
 言うか言わないうちに、千鶴の頬にも涙がつたった。
 千鶴がしきりに涙をふいてから、再び太一の方に顔を向け、精一杯微笑んだ。太一は目を伏せたまま、しばらく固まってしまったかのようだった。どれくらいたってからか、流しで石のようなものを手にして洗い始めた。
「ついさきほど檜山様という同心の旦那が、太一にあの石ころを届けに来られたのです」と、戸世は言った。
 檜山は千鶴の思いも寄らないことを、さすがに見つけているのだなと、はっとした。
「太一ちゃん、大事な話を聞くけど、最後におっとうに会ったのはいつ?」
 千鶴が立ち上がって太一の隣へ歩み寄り尋ねた。手を止めはしたが、返事を返さなかった。
 千鶴は我慢強く待っていていたが、何かをためらっているようで太一は俯いたままだ。
「いいのよ。無理に話さなくても。わたしが悪かった」と、戸世に向き直った時に、思わぬ返事が後ろから返ってきた。
「おなかが空いたから、おっ母に会いに帰った」
 千鶴は己の喉がごくりと鳴る音を聞いた。
「うちに、戻ったのね。お昼。その時の様子は?」
「おっ母は、いなかった。おっ父は眠っていると思った。いつもそうだから。仰向けになって放り出された足先しか見なかった」
「他に何か見た?」
 太一は唇を一文字にして、俯いた。また長い時がたったように感じられた。
 ふと気付くと辺りに闇が迫っていた。
「そうそう、お戸世さんも夕げはまだでしょう? たくさん作ってきましたから食べませんか?」
 千鶴が、持ってきた風呂敷包みを開き始める。太一を責めるように問いただすのはよくないことだ、と省みながら、あさり飯を取り出した。
「助かります。すっかり忘れていました。昼げも食べていませんでしたから。お腹がすいていることを忘れていたなんて。灯もつけませんとね」
 太一は戸世が置行灯に油さしで油を継ぎ足し、灯がともるのをただ見つめていた。灯りに照らし出された太一のあまりにも小さな横顔を覗き見る。
 それから戸世が勝手場に立って行き、お茶を入れているようだった。その横に濡れた太一の見覚えのある着物が土間に干されてある。
 千鶴が竹の皮の包みをほどくにつれ、あさりと醤油の香りがあたりにあふれ出した。その途端、太一が目を見開き、つばを飲み込んだのがわかった。
「おっかあは、ご飯を食べているんだろうか?」
 戸世に尋ねるが、力なく首をかしげるだけだ。
 それでも幼子らしく空腹には勝てなかったのだろう、あさり飯の握りを三つほど立て続けにほうばった。無我夢中の様子だった。全てを飲み込み、もう充分というぐらいにお腹がいっぱいになってから、少し寂しげな表情を浮かべたのを見逃さなかった。こんなときにでもおなかが空くなんて、と悔いているようにすら見えた。戸世を見ると、やはり太一と同じようにむさぼるようにほうばっては、千鶴に何度もおいしいですと言った。皆がお茶をすすり、落ち着いた頃、
「さっきの話ですがね。私に聞かさないようにと、妹は太一に黙っていなさいって、小声で言っていたことが気になるのです」
 と、戸世が千鶴に話を蒸し返してしまったことが、なぜか太一を驚かせたようだった。
「エッ」と小さく言ってから震えているように見えた。
「太一ちゃん、おっかさんの言ったことを守るのは偉いことです。でもね、ひょっとして、おっかさんがそのためにたいへんな目に合うことになったら取り返しがつかないでしょう? 太一ちゃんがおっかさんが無実だって知っていても、お奉行さんが知らなければ罪をかぶって、お仕置きをされてしまうから。それでは困るわね」
 太一は千鶴の言葉をよく噛み締め考え込んでいるように見えた。そのあと、すっくと顔を上げ、両の目は一点を見つめながら堰を切ったかのように、話し始めた。
「おっ母はやってないと思う。昼に探しに行ったけどいなかったから。別の人がいたんだ。でも、それは見間違いだって、おっ母が言ってた。だから、だから、人には言うなって……でも、おっ母が仕置きされるのはいやだ。どんなことがあってもいやだ」
「それは、誰だか知っているの?」
 太一は長い間を置いてから、それでも、はっきりと言った。
「最初はおっとうの知り合いかと思ったから、早く逃げようとして気にもしていなかった。けど、あれは、修造兄さんの背中だった、と後で思い返した。修造兄さんがやったのかどうか知らないけど、おっ母じゃあないことは確かなんだ。やっぱりこれを言わないとおっ母のせいにされるだろ? 泣く子も黙るっていう三四の番屋とかに、おっ母はしょっぴかれてるの? 大番屋の牢の中? 今どこにいるの? 助けてほしい。助けてー」
 こらえていた言葉と涙が一気に溢れ出した。その後「うーっ」と泣き崩れてしまった。
「修造さんが!」
 戸世は口を開けたまま驚きを隠せないでいる。千鶴は聞いたことのない名前だったので修造のことをいくつか、戸世に尋ねた。その後、顔を引き締めて、また太一に問うた。
「わかった。おっ母さんがやったんじゃないんだね。よく、うちの人に話して偉い人に、かけあってみるから。本当のことを話してちょうだい。おっ父さんが刺されたのは、どこで?」
「奥の寝床で」しゃくり上げながら答える。
「入口の戸より外で見ていたのね」
「そう。おっ母にやりようがないじゃないか」
 ここは一番大事なところだ、というように太一は力をこめた。
「そうよね。覗いたとき変な様子だと思わなかった?」
「別に、そのときは見つからないようにこっそりと覗いてただけだから」
「刺したのは包丁だった?」
「そう、それは後で見たから。おらのうちにある、あの重い包丁だった」
「えーっ修造さんが!」戸世はまた、悲鳴を上げた。
「それで、太一ちゃんはその後どうしたの?」
「何が起こっていたのか、よくわからなかったけど、とにかくお医者を呼びに走った」と言った言葉は途中から蚊の鳴くような小声になった。
「それはいつ時分?」
「わからない、お昼頃」
「今日、わたしと会ったでしょう。その前? 後?」
「わからない、とにかくおっ父は死んでなんかいない。おっ父を助けようとした。けど、駄目だった。ごめんよ。ごめんよ、おっ父」
 太一は、あのときの惨たらしさが再び、津波のように襲ってでもいたのだろうか。壁の隅に自分の背中を打ち付けたかと思うと、しゃがみこみ膝を抱えて丸まったのだ。大きく震えながら、絞り出すような声でさらに言った.
「あんな酷いおっ父なんて死ねばいい、と思ってた。それなのに、今は、おっ父の顔ばかり浮かんでくる」
 息苦しそうにしゃくりあげながら言った。太一の握りしめた手の片方に優しく千鶴は両手を置いた。聞きたいことはまだあったように思えたが、黙って抱きしめることしか、しなかった。太一の体は硬い岩のようだったが、前よりは寄り添えた気がした。
「お医者を呼びに行ったのは正しかった。よく、がんばった」
千鶴は太一をかばうように言った。太一は、うんうんと千鶴の胸の中で何度も頷いた。
 ひとしきり泣いたあと、
「修造兄さんはどうなるの? きっと、兄さんはおっ母やおらのために、やったんだよ。そんなことぐらいわかるよ。いつもかばってくれていたから。おらのせいで、捕まるのだけは困る」
 吐き出してしまった言葉を惜しむように、太一が訴えた。
「私が殺したようなもんなんですよ」今度は戸世が低い声で話し始めた。
「だって、まだ政次さんは発見されたとき温かだったんでしょう? 妹が泣きながらここに来てから、自身番に自ら届け出るって、はなっから松は言ってたんですよ。だけど、話を聞かせろだの、落ち着けだのと、長く引き伸ばした。本当は私が松と別れ難かったからです。昼前にきたのに、自身番に一緒に行ったのは、八つ(午後三時頃)になっていた。あの間、政次さんは生きていたってことでしょう? 早くに手当てすれば、持ち直したかもしれなかったのに」戸世の目が一瞬遠くに泳ぎ、また続けた。
 自身番に向かう道をのろのろと、これ以上遅く歩けないぐらいにゆっくりと歩いた。辺りの景色など何も目に入らなかったです。松は私に『どうか、太一をよろしく頼みます』と拝むように手を合わせてから、自身番の戸を一人でたたいたんです。そこまでは三人一緒だった。つらいことも三人でまぎらわすことができたのに。あの時はまともに顔を合わすことができなくて、その後姿だけを見つめていました。今頃はたった一人で、どれだけ心細い思いをしていることか。
 あれは……。あれは、私思うのですがね。私だって政次さんに死んでもらいたいと願っていたのですよ。手を下さなくても十分に罪深いことじゃありませんか? 
 それにしても政次さんは二人に刺されたってことですか? それとも妹はかばっているだけで、修造さんが下手人ということですか? さっぱりわかりませんよ。お裁きはいったいどうなるのでしょう?
 戸世がそう話し終えると、「もし修造の仕業なら妹を思ってのことに違いない」と確信するようにつぶやいた。この際自分が牢に入った方がみんな円くおさまるではないかと泣いて、千鶴に詰め寄る場もあった。戸世がいるにしても、太一に母親がいなくなるのだけは困ると言い張るのだった。千鶴にしても、思いは同じだ。
 その時、店先で呼び声がした。
「穴一、いるか? いるのか?」
 聞きなれた声の主なのだろう、びくっ、と跳ね上がり太一はあわてて表に走り出て行った。それを見て千鶴も引き揚げる挨拶を告げようとした時、戸世ににじり寄られた。
「あの子の前では言えなかったのですが、松は政次さんとは、もう半年も夫婦の営みはありませんでした。それを、あの昼時分、無理強いしてきたのだと言っていました。心底怖かったのだと思います」
「わかりました。それをたまたま家に帰っていた修造さんが気付いたということでしょうか。長屋の壁は筒抜けですものね」
 なんとか力になりたいと思っていることを、最後にもう一度告げて別れた。店の外に出ると、太一と同じ年ぐらいの男の子が今にも泣き出しそうな顔で立ちすくみ、太一と無言で向き合っている。
 ――そうだ、この子は現場で檜山が聞き込みをしていた男の子だ。
と、思い出した。穴一って何だろうと気になりながらも、二人に軽く会釈してそのまま帰った。

    (四)
 千鶴は一刻も早く亭主の橋蔵に会って話さなくては、と六間堀の住まいへと帰り道を急いだ。そのうち早足が駆け足になっていく。夜風は火照った体を冷ましてくれた。
 走りながら、いつも亭主を追いかけている気がするのには、心の中で苦笑いをする。しっかりと手をつないでいないと、離したとたん消えてしまいそうで恐ろしくなるのだ。そんな夢を何度か見たこともある。橋蔵には「意外に気が小せえな」と言われるが、この気持ちはどうしても治まらない。小猿は生まれて直ぐに、飛び回る母に抱きついて離れないのだという。千鶴は手を離した己のせいで、実の両親を失ったのだという思いにとらわれている。だから、橋蔵だけは失うまいという思いがどこかにある。
 途中、事件のあった海辺大工町の自身番に明かりがついているのが、目に飛び込んだ。
 ――うちの人は、まだここかも。
 恐る恐る戸を薄く開けて、中を覗いた。見覚えの無い若い男が、檜山と向かい合っていた。その脇に橋蔵が立ち会っているのが見える。
(ちょっと、出てきてくれませんか?) 

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