じぶんをかえるひつようって、あるのかな?
「なぜ、あなたの話は響かないのか」
講演家の鴨頭嘉人さんはこうおっしゃいました。
「僕は日常でもアウトプットの場面と同じモードで生きている。だから僕の講演は人の心に届く。」
「僕の講演は本番で決まっているんじゃない。日常で決まっている。」
「日常(インプット)とスペシャル(アウトプット)が一致している人の話が伝わるスピーチなんです。」
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はたまた、かの有名な実業家ひろゆきさんは
「人と違うは価値である。」
「けれど日本では人との差をなくさなきゃいけないと思い込んでしまう。」
「また“欠点”は”手持ちカード”として使えばいいんじゃないですか。」
「”与えられたカード”のなかで生きるだけ。」
「ムリに克服しようなんて思わないです。」
とおっしゃっていました。
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このお二人の話を聴いて、
「無理に自分を変える必要って、あるのかしら?」と疑問に思いました。
人の心に響く作品を提供する人になるためには、日常の自分・ありのままの自分も作品と同じモードでいた方がよい。
たとえば、わたしはnoteで色々日々の気づきや学んだことをアウトプットしているけれど、日常のわたしが実は自堕落でめんどくさがりで愚痴ばっかりで攻撃的で全然行動しない人間だったら、読んでくれているあなたにも違和感が伝わるはず。そしてきっと、あなたの心に響かない文章となるでしょう。(少なくとも愚痴ばっかりで攻撃的で全然行動しない人間では無い・・・はず。)
でも、あまりに理想的で自分とかけ離れた作品ばかり提供していたら・・・もちろん最終的には理想に近づきたいとは思っているけれど、今の自分とのギャップにきっと苦しんでしまう。そうすると「日常(インプット)とスペシャル(アウトプット)が一致していない人」になってしまい、「人の心に響かない作品」となってしまう。
わたしは、今まさに、この状態なんじゃないかなと思うのです。
目指したいこと、やりたいこと、創りたい未来。それに向かって情報発信しているけれど、現実の自分と差がありすぎる。だからなんとなく嘘くさい、きれいごとだけで、人間味のない情報発信になってしまっている。そんな気がするのです。
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そこで、ひろゆきさんの「人と違うは価値である」「ムリに克服しようなんて思わない」が大事になると思うのです。
以前『才能とは、人と違ってダメだと思っているところ』というnoteを書きました。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんは「才能はコンプレックスの裏側にある」、「自分が人と違ってダメだと思っている部分にこそ、自分の才能は隠されている」とおっしゃっていたのです。ひろゆきさんのお話と似ていますよね。
理想の自分・未来を目指すあまり、無理やり自分を変えてしまうと、日常とアウトプットが一致せず、人の心に響かない作品となってしまう。結果、誰からも見向きもされない。全然理想に近づかない。
それよりも、ダメな自分・人と違う部分をそのまま活かし、同じモードでアウトプットしていくことで人の心に響く作品を提供できる。
そういうことなのではないでしょうか。
無理に自分を変える必要なんて、本当は無いのかもしれません。
もちろん、誰かを傷つけてしまったり、自分を大事にできていなかったり、不幸を生み出してしまっているのなら、変わる必要はあるでしょう。
でもそうでないのなら
わたしは、もっと”わたし”でいいんじゃないかな。
誰かを喜ばすために本当の自分を押し殺してつくりあげた自分なんかより、成功した人の真似をするために本当の自分を押し殺してつくりあげた自分なんかより、人と違っても、人よりダメだと感じても、ありのままの自分を表現した方が、相手にも自分にもメリットが生まれるんじゃないかな。
もっと泥臭く、人間らしい発信をしよう。
牧 真姫子🍙エッセイスト(@makicome1986)
数多ある文章の海から、 みつけてくれて、ありがとうございます。 現在、不定期更新・お休み中です。 鹿児島から愛を届けています。