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話が上手い人、話が美味い人

今朝、ふっと「話には上手いと美味いがある」という言葉が心に浮かんだ。なんだろう。食いついてみる。

世の中には口が上手い人と口下手な人がいる。口が上手ければ聞き手が要領を得やすかったり相手を乗せることができたりする。当然、口下手よりは口が上手いほうが何かと得をするわけだ。

「コミュ力」が重要視され、話し方講座が世に溢れているのも、その口の上手さの恩恵を受けたい人が沢山いるからなのだろう。
ただ、ちょっと立ち止まってこっちに話を引き寄せてみよう。その「口が上手い人」の話は「美味い」のだろうか?

口が上手い人の一方で、口は上手くないが(ときに口下手なことさえある)なんだか魅かれてしまう人がいる。何というか、話に独特な味わいを感じさせる人。この人の話は拙いかも知れない。でも美味さがある。

口が上手い人は大体似た話し方をするようだ。わかりやすく、流れるようで、それでいて面白かったりする。話している間、まるで催眠術にでもかかったかのような恍惚を感じることもある。一見まるで非の打ち所がない。

けれども、もう一度聞きたいかと言われたらそうは思わない。いや、もしかしたらその催眠術に心酔してしまう人がいるかも知れないが、僕はそうは思わない。得てして、口の上手い人たちの話は紋切り型で、単語先行型で、そして軽い。

紋切り型であることは決して悪いことではない。すでにある様式に倣って話が展開されると聞き手も理解が早い。前菜が運ばれ、次のメニューが来て、ああそろそろメインだなと予想もつくからだ。

予定調和の展開にヴィヴィッドさをもたらそうと単語選びには熱が入る。横文字の名前でキャッチーな政策の、中身のなさにがっかりしたことがあるのは僕だけではないだろう。話の上手い人の多くは、言葉が聞き手に刺さる形さえしていればいいのであって、その針が実のところ何なのかをわかっているかも怪しい。

話が美味い人の言葉は重い。展開は紋切り型になることもあれば、(一見つながりの見えないような)予想のつかない飛躍をすることもある。だが、いずれの展開にせよ、一つ一つの言葉が重たいのである。

その重さは実践や経験に即していることが所以であろう。
話し方講座を受講して、トレーニングを積んでも、言葉は重くならない。同じトーン、テンポで話したとしてもそうだろう。その人の人柄や気迫のようなものが混じりあって美味さを形成している。その美味み成分を分析できたところで真似ることはできないように思う。それにそれを真似たところで何になるだろうかとも思う。

散々口の上手い人を貶すように書いたが、僕自身、営業をしていたこともあり話が上手いことの大切さも解っているつもりだ。けれども、短くで、分かりやすく、キャッチーなものが絶対的に良しとされる風潮の中で、自分の味を埋没させないように注意したいと思うのである。

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