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ゆきおんな 第1話

ゆきおんな 1/11

#創作大賞2024 #ホラー小説部門   に応募しています

あらすじ
私は9歳の頃に雪山で不思議な白い女を見た。
女は私の命を救ってくれたが父は死んでいた。
私は19歳の時、スキー場で美しい女性に出会う。
後年、その女性と一緒に暮らすことになる。
彼女には不可解なことが多かった。
調査を進めた私は千年前のある出来事に辿り着く。
そして雪女誕生の悲劇的物語を知る。
それは呪いと恨みに満ちた恐ろしくも悲しい伝説だった。
救われる方法は老婆が語った歌語りの中にあるという。
恐怖と怨念の彼方に、果たして究極の愛は存在するのか。
ホラーなのに泣ける極限の愛と救いの物語
ホラー純文学のさらなる確立にチャレンジした意欲作
この結末は誰にも分らない。
約13万字

  ゆ き お ん な 1
                 
           北川 陽一郎

   目 次

   序章   雪女
   第一章  子供の時に見た、あれは…
   第二章  蓬莱村の女     
   第三章  神ながら村の伝説  
   第四章  りんどうの墓    
   終章   ゆきおんな     

    序 章     雪 女

 平成22年12月

 雪の山中をたった一人で歩いていた。
 激しい吹雪の夜だった。
 なぜこんなところにいるのだろう。
 そこがどこかも分からなかった。
 細い道の両側は森で囲まれていた。
 深い雪は私が足を出すたびに膝まで埋もれるのだった。
 柔らかな純白の輝きは、ときどき光を受けるようにキラキラと輝いた。
 それはまるで銀河の星が、この雪の上に降り注いでいるかのように美しい光景だった。
 周囲に立ち上がる樹氷は、私にはそこにたくさんの巨人が立っているかのように見えていた。
 物言わぬ巨人は、静かに立ち上がって私を見つめている。
 樹氷の雪は時々静かな音を立てて落ちるのだった。
 気がつくと吹雪は収まっていた。
 私はまた歩き始める。
 するとまた激しい風が吹き荒れて雪が降る。
 周りには誰もいない。
「なぜ、誰もいないんだ」
 と私は呟いた。
 白い息が、口から出たとたんにすぐにでも凍りつきそうな夜だった。
 見上げると吹雪の夜なのに、私の頭上には月が見えていた。
 その月は今にもこの地球に落ちて来そうなほど近くに見えた。
 あれほど赤い大きな月を見たことは今まで一度だってなかった。いや、それは本当に月だったのかどうかもよく分からなかった。
 吹雪はその月を避けるようにして、奔流のように流れて降り注いでいた。
 それを異様な光景だとは思わなかった。
 渦巻く気流は次第に何かの形を取り始め、それは荒れ狂う龍神の姿へと変容する。
 どこかへ避難しようと思うと、それまで見えていなかった一軒の小屋が私の目に入った。
 私はその寂れた小屋へ入ろうと思った。
 周りには何もなかった。
 入り口は古びた木々が継ぎはぎされたような粗末な小屋だった。
 樹氷以外にはこの小屋しかない。
「昔この小屋へ来たことがある」
 と私は思った。
 それがいつだったのかは思い出せなかった。
 小屋の壁は隙間だらけだった。
 崩れた壁を補修したかのように板が貼り付けられていた。
 それでもとりあえず吹雪は避けられる。
 それだけでも寒さはかなりしのげるだろう。
 人がいる気配はない。
 私は入り口の板戸を開いて中へ入った。
 吹雪は当分収まりそうにない。
 床は土間のようになっていて、小屋の真ん中に窪んだ場所があった。
 土が古びた感じで焦げているので、おそらくここで火を焚いて暖を取っていたのではないのだろうか。
 私は小屋の隅にある小枝などの木切れを見つけた。
 タバコを喫ってひと息つくと、私はライターで何とか枯れた小枝に火をつけた。
 小枝の弾けるような音がして、炎は次第に暖かく立ち昇り始めた。
「よしこれでいい」

 ……顔に凍りつくような何かが吹きかかる感じがした。
 いつの間にか眠っていたらしい。
 瞼を開けた私の目の前に憎しみに満ちた恐ろしい瞳が見えた。
 瞳の中は、毛細血管が無数の蜘蛛の巣のように幾重にも張り付いていた。
 怨念の深さを感じる目だった。
 叫ぼうと思ったが声が出なかった。体も金縛りにあったかのように動かなかった。
 女だった。
 白い女だった。
 何から何までまっ白な女だった。
 振り乱した髪は女の口の中へ幾筋も入り込んでいた。
 声も出せない、動くことも出来ないでいる私を見て、女は静かに立ち上がった。
 見るとこの世のものとは思えないほど美しい女だった。
 女の背後の扉は開かれていて、激しい雪が舞い込んでいた。
 女はもう一度私の顔をじっと見つめた。
 そして、その頬を摺り寄せるほど近くに寄せてくる。
 あれほど恐ろしげだった瞳には、もう蜘蛛の巣はなかった。
 暖かいぬくもりが感じられた。
 まっ白な女は笑顔を見せた。
 それはとても優しい笑顔だった。
 女が私の頭を撫でると、私は子供になっていた。
 私を撫でる女の顔が、なぜかとても悲しく見えた。

 ………………

 私は目を覚ました。
 また、あの夢か。
 最近よく見る夢だった。
 これは警告なのだと私は確信した。
 隣で寝ている妻と子供を見た。
 妻はぐっすりと眠っているように見える。
 私は戦うことを決意していた。
 それは滅ぶべき存在だ。

 あの雪山で見た女は、この世のものではない。

     第一章

       子供の時に見た、あれは…

 平成元年12月

 私の記憶にあるのは美しい雪と樹氷の風景だった。
 去年の12月にも、私は父親と一緒にこの山へやって来たことを覚えている。
 去年だけではない。
 毎年、私はスキーが好きな父親に連れられてやって来ていた。
 ほとんど遊ぶことのない父だったが、スキーだけは本当に好きだったのだ。
「俺の道楽は冬に雪山へ行って滑りまくることだ。酒でもあれば最高だ」
 といってはいたが、酒はそれほど飲まなかった。ほろ酔い加減が好きなだけの人だった。
 子供の頃の私には酒のことは分からなかったけれど、それは大人の人をとても気持ちよくしてくれる飲み物らしいとは感じていた。
 日本酒という透明の飲み物や、ビールという炭酸のような琥珀色の飲み物はいつも父を上機嫌にしていたから、お酒というのはきっといい飲み物なんだろうと私は思っていた。
 一度、父が子供の私に「お前も飲んでみるか」とたぶん冗談半分にいってグラスをよこしたことがある。
 渡されたコップに残るビールを飲もうとしただけで、とても子供の私には飲めないことが分かった。あの匂いの刺激は子供には強すぎる。
 父親の名前は村岡山六郎。村岡が苗字で山六郎が名前である。山六郎はそのまま「やまろくろう」と読む。
 子供心にも変な名前の父親だと思っていた。
 子供の頃、父親はこの名前のおかげで随分と嫌な思いをしたらしい。
 父親の子である私でさえ、それは奇妙な名前だと思っていたので、他人が聞いたらやっぱり変な名前だと思って当然だろう。何が変かといえば、やっぱり「山」はいらないのではないかと思う。六郎ならよくありそうな名前ではないだろうか。
それは私の名前が比較的すっきりした、韻のよいスマートな名前だったから余計にそう感じていたのかもしれなかった。
「名前は人間にとって最も大切なものだ。名前が人生や生き方を決定することだってある。いい思いをする名前も嫌な思いをする名前もある。だったらいい名前がいいに決まっている」
 父は私に良くそんなことを語っていた。
「女の子の名前に美しいという漢字が多いのも、自分の子供には美しく育ってほしいからだ」
 などとも語っていた。
 だから父親は私に五条というどこかしら格好よく感じる名前をつけてくれた。
 村岡五条。
 それが私の名前である。
 私はこの名前をとても気に入っている。
 同姓同名には一度もお目にかかったことは無く、五条という苗字には一度だけお目にかかったことがあったが、名前は一度も聞いたことが無い。
 多くの同級生は、聞いてみると自分の名前があまり好きではないという。 しかし、「名前負けするな」
 という父の言葉はいつも私の心にのしかかっていた。
 結果的にそれが私にいつも努力することを教えてくれた。勉強もスポーツも、必死に取り組むことを決意させてくれたのだから、私は父親にこの名前をつけてもらったことを感謝するべきだと思う。
 父親は子供の頃にこの名前のせいで、学校で一部の生徒たちからからかわれるなど、嫌な思いをしたらしいが、不運はそれだけではない。
 酒を浴びるように飲んでいた父親の父、つまり祖父三郎輔はまともに働くことをせず、母のパートタイムで得る収入をあてにしていたらしい。父が10歳の頃、両親は離婚。父は母に引き取られたが、女手ひとつの貧しい生活が続いた。三郎輔は仕送りしてくるような人間でもなく、どこでどうしているのか今も分からないままだという。
 そんなことから私たちは父親方の祖父を含む縁戚と顔を会わせたことは、それ以降はまったくなかった。
 父は育った家庭の貧しさから高校へも行くことができず、中学を出てすぐに近くの工場へ働きに出た。それと同時に長年の苦労が災いしたのか、母親はまもなく亡くなった。父は10代にして天涯孤独な身の上となったのである。
 高校さえ行くことができなかった、たったそれだけのために、父は大変な苦労を重ねたという。
 スキー以外にこれといった遊びはせず、お金を必死に貯め続けた。
 父は20歳になる頃に調理師の免状を取得していた。2年間大手の蕎麦屋で修行を積んだ。父は努力家だったのだろう。
 そして名古屋市内に50人くらい入れる和食の店を開いた。一番利益率がよくて店がはやるのは麺類だ、ということを信じてか、父は本格的な信州蕎麦や更級蕎麦などを中心にして、うどんも和風ラーメンも品揃えしてたくさんの顧客を獲得した。
 そして店で事務や調理の補助をしていた2歳年下の女性と結婚した。
「俺のような学のないものでも大学出の女の子と結婚できた。学はないが、俺もそこそこいい男だしな」
 といって笑顔を見せた父の言葉を覚えている。確かに父は食べ物を扱う関係からか、いつも身ぎれいにしていて、ひげは毎日剃り、髪の毛もスポーツ刈り、彫りの深い顔立ちは女性にもてそうだった。
 私が9歳で父は35歳だった。

 母のことを少しだけ話そう。
 母の両親は地元では名士とでもいうのかもしれない。小さな医院の院長をしていた。小さいながらも病院を経営していた。
 母は地元の有名女子大英文科を出たものの、お金にも困らない家柄だったことから、お茶や生け花などの習い事をして、あとは何もせず趣味の美術品鑑賞を毎日のようにしていたという。時々自分でも油絵を我流で描いたそうだ。学生時代にはかなりアルバイトをして、海外へも友達とよく一緒に行っていたらしい。
 卒業してしばらくしてから、母は自分で使うお金くらいは自分で稼ごうと思ったのか、料理の勉強が出来ると考えたのか父親の店で働くようになった。
 母の両親が父の店の常連だったためか、そのつてで来ることになったらしい。それほど大きな店ではなかったが、うまいと評判だったのが縁を生んだのだろう。
 母親の名前は真千子といった。
 こういっては何だが私は母親似であり、写真で見る母親は結構美人だった。
 だから私は子供の頃は結構いい男でもあったと思う。
私は母親のことは写真でしか知らないのだ。
 なぜなら母親は産後の肥立ちが悪く、私を生んですぐに死んでしまった。
 昔はたくさん産後の肥立ち悪くて死んだ女性がいたそうだが、医学が発達した今でもそれはあるものらしい。
 初孫であった私は子供の頃から母方の祖父母には可愛がられて育った。
 父はよほど母のことが好きだったらしく、再婚しようとしなかった。
「俺の女房は真千子だけだ。あいつ以外はいらない」
 時々父はテーブルの上に母の写真を置いて、何かぶつぶついいながら一人で酒を飲んでいることがあった。
 子供の私には、大人の男にとっての女性がどういう存在なのかは知る由もなかった。
 私は写真の中の母親に子供の頃からあこがれていた。その写真の中の人は後年、私が大人になったときに見てもやっぱりきれいだった。
 母の胸の中に抱きしめられて、ただ眠ることが出来たなら、どんなにか嬉しかっただろう。

          2

1989年1月、昭和天皇の崩御に伴い、1月8日に元号は平成と改められていた。
 昭和64年は1週間しかなかったことになる。昭和の始めも1週間しかなかったことを考えると、この世の中には私たちの常識を超えるような不可思議な因果や出来事などが、確かにあるのだろうと思わずにはいられない。
 これから私が経験することになる恐ろしくも悲しい出来事のように。

 スキーに行くときは、いつも父親ご自慢のランドクルーザーに乗って出かけていた。私が知る限り、この大きな自動車は父の唯一の贅沢品であり道楽だった。
「ガソリンばっかり食いやがるけどパワーはあるし頑丈で安心だからな」
 私たちが行くのはいつも長野県の羽衣高原と決まっていた。私がまだもっと小さかった頃にどこか別のスキー場へ行ったことがあるらしいが、私の記憶の中にはない。
 羽衣高原の天人高原スキー場にある天人高原ホテルにいつも宿泊していた。そのホテルは天人高原スキー場のゲレンデの向かい側に、通りをはさんで建てられていた。
 そこは私が産まれる前に母と来たホテルだと聞いたことがある。父が日本有数のスキー場といわれる信州の羽衣高原を好んだのは、その理由からではなかっただろうかと今の私には思える。父は思い出を旅していたのかもしれない。
 スキーには一年の終わり頃にいつも1週間くらい行っていたが、年に一度の贅沢だといってその期間だけは、父が経営する店は最初の頃は臨時休業となっていた。人が増えてからは信頼のおける従業員に任せていたらしい。
 天人高原スキー場の天人高原ホテルは、鉄筋6階建てで白亜の殿堂のようなホテルだった。ほかにもいくつかのホテルが建っているが、その中でも一番大きくてきれいなホテルだった。
 広いロビーには、のんびりくつろげるソファやマッサージチェアが数台置かれていた。ゲームコーナーにはゲームセンター顔負けの遊戯施設がそろっていた。食堂や売店も立派だった。
 しかし客室はそれほど広くはなく立派でもなかった。
 スキー板は自分の札をつけて、1階に設けられている専用のスキー板置き場に置くようになっていた。スキー靴は部屋の中へ置くようになっていた。
 広大な羽衣高原にはゲレンデが60以上もあり、そのほとんどをリフトとスキーだけで行くことができるようになっている。
 つまりスキーがある程度滑ることが出来れば、この広大なスキー場のほとんどをスキー板一枚で回ることが出来るようにつながっているのである。
 父親は最初に就職した工場へ勤めに出てから、会社の仲間に連れられてスキーに行ったのが最初で、以来そのあまりの面白さに毎年のようにスキーに行ったという。スケートも大須スケートリンクへよく行ったらしい。
 母が死んでから私を一人で育てていたため、数年間はスキーへは行かなかったようだが、私が小学校へ上がる頃に再びスキーへ行くようになったのだ。
 私はうまくはないにしても、ほとんどの場所なら滑ることができるようになっていた。上級コースも下手ではあるが、何とか降りることは出来る。
 ただし、天人高原スキー場のすぐ前にある西立山スキー場裏側の上級コースは、最大斜度が38度もあって、上から見るとまるで直角に落ちているように見えた。どんな上級コースにも雪のこぶがあるのだが、そこにだけはほとんどこぶはなかった。それほど斜度がきついのだろう。
 そこだけは子供には怖かった。だからそこは滑ったことが無い。
「ここはな、下手に転ぶと一番下へそのまま滑り落ちるまで止まらねえ。仰向けにひっくり返ったまま下まで落ちて行く奴を何度か見たことがあるんだ」
 そういう父の言葉も私の恐怖心をあおるには十分だった。
 しかし他のコースなら十分に滑ることができるまでになっていた。
 その日、私と父は食事を済ませると朝10時頃にゲレンデへ出た。空は曇っていたが雪は降っていなかった。
 ホテルを出ると目前に広大な天人高原スキー場がある。
 下の方の幅は200メートルくらいあるのだろうか、緩やかな斜面になっている。緩やかな斜面は100メートルから200メートルくらい続き、そのあたりから上は斜度が少しきつくなっていた。上に行くほど斜面はきつくなり、一番上の方は上級コースとなる。つまり初級中級上級と続くゲレンデで、全長は1000メートルほどある巨大なスキー場だった。
 天人高原スキー場側にはホテルは無く、ゲレンデの下の方にレストハウスが建っていた。中では食事やコーヒーなどを取ることが出来る。
 真っ白な斜面の輝きは、一切の混じりない高貴な装いを私に感じさせていた。
 雪深い冬の山で無ければ見ることができないほどの純白は、見ているだけで、汚してはいけない世界のように私には思えていた。ゲレンデの雪の上に降り積もった新雪の上を滑ることほど気持ちの良いことはなかった。
 ゲレンデの両側には樹氷が並んでおり、雪に包まれた木々の立ち姿は遠くから見ると、子供の私には綿菓子のようにメルヘンチックに見えていた。
 ゲレンデの中ほどより少し下に、隣のゲレンデへ通じる道が2本作られていて、一方はこちらから向こう側へ行くために緩やかな下り斜面になっており、もう一方は向こうのゲレンデから天人高原スキー場へ来るために、こちらから見れば緩やかな登り斜面になっていた。
 そこを数百メートルほどスキーで滑って行くと、隣のゲレンデである一の松スキー場へ出る。
「あっちは女の子が多いぞ」
 などと父親はよくいって、一の松スキー場へ行くことも多かった。かといって父親がどこかの女性と仲良くなったという光景は見たことが無かった。
 私には、なぜ父親が再婚しなかったのかが長く分からなかった。
 しかし、今なら私にはその気持ちが分かるのである。
 天人高原スキー場には、途中で降りるリフトと頂上まで一気に行ってしまうリフトとがある。頂上までは全長が900メートルくらいはある長いリフトだ。リフト1日券を首から提げておいて係員にそれを見せて乗って行く。
 頂上でリフトを降りると、周囲が一望の下に見渡せた。しかし、今日は曇っているせいで見通しはよくない。晴れていれば見えるはずの山の稜線はどこにもなかった。はるか下に、向かい側の西立山スキー場の初心者向けの小さなゲレンデが見える程度だった。
 それでも雪の白さは際立っていて、細かな光の反射が際限のない綺羅星のように光って見えた。
 午後からはかなり天気も荒れて来ていた。
 風が強いときの雪山は本当に凄い。
 雪がある程度のアイスバーン状態だと、風で簡単に押し戻されてしまうことがある。板を外して靴で歩いていてもアイスバーンの上を滑るように押し戻されることがある。
 風で飛ばされる、というのは都会では滅多なことでは考えられないけれど、雪山では子供の私など本当に飛ばされそうな勢いで吹くこともあった。
 その日、吹雪とはいえないまでも、風が強く吹き始め、もう少し強くなったらリフトが止められるとのアナウンスがあった。
「おい、五条、風がこれ以上吹いたらリフトが止まるらしい。そろそろ戻ろうか」
 と父はいった。
「うん」
 私はもっと滑りたかったが、子供の私にそれ以上のことがいえるはずも無い。
「山の日暮れは早いからな」
 と父は独り言をいった。
 私たちはそのとき、一の松ファミリースキー場から一の松:沢の神プラチナスキー場、雪沢山スキー場へと来ていた。何と奥羽衣高原方面まで滑って来ていたのだった。
 ところが山の天気はあっという間に変わってしまう。
 私たちがリフトから降りて、奥羽衣高原近くから戻るため神城山(かみしろやま)でリフトを降りたときには、風はかなり強くなっていた。ただ、ここが神城山であったことを思い出したのはつい最近のことである。
 今ではリフトが外れることはよほどのことがない限りはないだろうが、昔は強風で滑車が外れることがあったらしい。そのため風が吹くと危険なのでリフトは止まってしまう。
 ここから元の天人高原まで戻るには、いったん一の松スキー場まで滑って行けばよい。もしくはリフトが止まっていたとしても、道沿いに平坦な路面を、ストックを使って滑って行っても帰ることは出来る。たいていは道の端には雪が少し残っているのだ。実際に多くのスキーヤーがその場所を滑っていることがあった。
 しかし、リフトを降りた私たちは強くなって来た風と降り始めた雪のため、視界が悪くなっていることに気が付いていた。もう羽衣高原全体のリフトはすぐに止まってしまうだろう。
 だが私は何も心配していなかった。父親がいる。
「パパ、早く帰ろうよ。雪でよく見えないよ」
 さっきまではもっと滑りたいと思っていたが、吹雪いてきた雪に小さな体が押され、私は急に怖くなって来ていた。
「そうだな」
 リフトの降車場から滑り降りて行くと広い場所へ出た。案の定リフトはそれからすぐに止まってしまった。
 分岐点があった。初めての場所だった。すでに晴れていれば見えるはずの山の稜線はどこにも見えず、ただ斜めに降り注ぐような雪と雪の地面しか見えなかった。
「こんなに急に吹雪くとはなあ……。さすが山の天候の変化だ」
 父の言葉が奇妙なほど耳に響いたのを覚えている。なにか怖いことが起きそうな雰囲気があった。
 ゴーグルに雪が張り付くように当たって来る。
 もう人の姿も見えなかった。ゲレンデの中ほどさえ見えなくなっていた。前と後ろに広いスロープが見え、左にも細く続く道があった。右側は森になっていた。始めてきた場所だった。
「ここは奥羽衣で最後のゲレンデだから、ここからは正面以外はどっちへ行っても同じだ。こっちにはリフトはないから一の松の方へ行けるだろう。進入禁止にもなっていないしな。あとは道を滑って帰るとするか」
「うん」
 見ると目の前の斜面の入り口は緩やかで広かった。両側は森があるようだったがその幅は100メートルくらいあっただろうか。
 リフトのあった方と細い道の方は狭い急な斜面となっていた。急といっても私にでも滑ることはできる程度のものだった。
 誰がどう見ても広い緩やかな斜面の方がこの吹雪の中、安全に思えた。
「こっちから行くか」
 父は立ち止まってストックで広い方を指し示した。
「まあ間違ってもどこかのスキー場へ出るだろう。行ってみようか」
 と父はその広い道へ入って行った。
 そのとき私は広い入り口の隅の方に木に繋がれたロープが、少し垂れ下がっているのを見た。隅に少し見えるだけで、あとは降り積もった雪の中に垂れ下がるように埋もれていた。
 吹雪のためにこんな雪溜まりができることがある。多くは何かに遮られて雪が吹き溜まり状態になるのだが、このときはおそらくロープがその原因を作ったでのはないかと、今は思う。後から分かったことだが、ロープには注意書きの看板が取り付けられていたため、かなり垂れ下がっていたのだろうと思う。
 反対側を見ても雪の吹き溜まりがあるだけで何も見えなかった。
 出ている部分のロープの上には雪が積もっていて、きっと父親の高い視線からは雪だけしか見えなかったのだと思う。私はロープの位置とほぼ平行に近い位置だったから確認できたのだ。もう何日も前から少しずつ埋もれていたのではないだろうか。吹き溜まりは1メートル2メートルと普通に積もっていく。
 そのロープがどういう意味を持つのかまでは、当時の私には分からなかった。
 今ならはっきりと分かる。
 ロープは左右につながっていて、それは「これより先進入禁止」という意味であり、埋もれているロープの真ん中あたりにはその但し書きがあったのだ。
 雪山やスキー場では、入ってはいけない場所にそのようにロープを張って注意を喚起しているところが多い。
 そういう場所は、入り口は良さそうだが、入って行くとみな行き止まりになったり谷へ出たりする。
 私は父親が選んだその道へ入って一緒に滑って行った。
 お父さんのあとをついて行けば、なんでも間違いはないのだから、と。

       3

 降り積もった柔らかい雪の上には、私の前を滑る父親のスキーのあとしかなかった。
 周囲にはもちろん誰もいるはずが無い。
 恐ろしいほど静かな雪の斜面には、私と父親の出すスキーの音と、過ぎて行く風の音しかなかった。
 100メートルくらい滑ったところだったろうか、道は左に緩やかにカーブしていた。そのあたりになると少し斜面がきつくなった。
 スロープの幅はその頃には40~50メートルくらいになっていた。この先はもっと細くなりそうな気がした。
 両側には背丈の高い木が続いていた。雪に埋もれているため実際にはかなり背丈はあるはずだった。
 木はその枝の上に雪が降り積もり、まるで無数に立ち並ぶ大小のだるまのように私には見えていた。
 人のいるところでは樹氷の雪は綿菓子のように感じても、このような人のいない場所だと違って感じることが何となく怖かった。
 一人であったらとても心細くて滑ることができない道に違いなかった。
 私はなんとなく怖いことが起きそうな予感がしていた。
 だから離れないようにと、必死に父親のなるべく近くを滑った。父も颯爽と滑ることはしないで、子供の私のためにゆっくりと滑ってくれていることが分かっていた。時々私の方を見て確認している。
 滑り降りて行くとまた道が分かれていた。もうここまで7~800メートルくらいは滑ったのではないだろうか。道幅はすでに20メートル以下になっていたと思う。
 父はその分岐点でスキーを止めた。
「こんな道は滑ったことも無いな。だが今さら引き返すわけにもいかん。一応はそれらしいコースになっているので大丈夫だろう。立ち入り禁止にもなっていなかったし」
 私は父親を信じていた。いつも頼りになるのは子供にとって父親なのだ。特に父は母の死後、たった一人で一人っ子の私をこの上なく可愛がって育ててくれた。子供の私にとって父親は何でも出来る万能の存在だった。
 私は父親に叱られたことはほとんど無い。何か私が悪いことをしても、きちんと言い聞かせるように父親は私を教育してくれたのだ。
 スキー場では、スキー板を担いで雪道を歩いて登ることは大変なことだということを聞かされていた。雪を踏みしめて斜面を何百メートルも戻るのはかなりの重労働らしい。
 山で迷ったときには必ず上に登ることだ。
 という山の鉄則を私が知ったのは、もっとずっとあとになってからのことだった。父親はそのことを知っていたのかどうか。
「暗くなってきたな」
 山の夕暮れはあっという間に暗くなる。
 周辺には光は無い。
 しかし雪山は雪の反射で意外なほど明るいことは知っていた。ナイター施設のあるスキー場で夜のゲレンデを滑ったことがあるからだ。照明のないゲレンデを見ても、雪があるだけで白さが際立ち、夜でもかなり明るく感じた。
「よし、こっちへ行ってみよう。降りて行けばどこかには着くだろう」
 父はストックを持った右手をかざすと、ゴーグルをかけなおした。
「うん」
 私もゴーグルの前にへばりついた雪をきれいに拭き取った。
 その頃には私は、この斜面へ入るときに入り口で見たロープの事などすっかり忘れていた。
「しかし」
 と父は今滑ってきた方を見た。
「こっちへは誰も滑って来んなあ。リフトも止まったからだろうな」
 自分を納得させるように父はつぶやいた。
 父に続いて滑って行くと、道は次第に細くなって急な斜面も出て来るようになった。西立山の初級コースに似た感じで、かなり曲がりくねっている。道幅はもう10メートルほどになっていた。ちょうど両側がすり鉢のようになった細い道が続いていた。
 このような道には、広いゲレンデのように雪が深く積もることはあまりないが、冷えてアイスバーンになり新雪が少し積もる、の繰り返しになる。
 いつしかあたりには宵闇が忍び寄っていることに気が付いた。
 雪の白さだけが異様なほど明るく見えていた。
 樹氷が次第に人の姿へと形を変えてきているように感じられた。
 周囲は森ばかりで、どこかに人家やホテルなどが出てきそうな気配さえなかった。それどころか人がどこかにいるような気配さえなかった。遠くに明かりが見えることさえなかった。
 そしてついに私たちは道が行き止まりになっていることを知った。
 行き着いた先は高い崖になっていた。その手前10メートルほどのところにロープが張られていた。
 この先行き止まり 崖
 と古びた立て看板があった。このあたりも吹雪いてはいても、周囲は森に囲まれているためそれほどではないのだ。ロープが埋もれているということもない。
 怖くて崖下を見ることはできなかったが、険しい崖はそこから先へ進むことを拒んでいた。
「いやあ、まいったなあ。行き止りだ。崖になってやがる。下には川が流れているみたいだな」
 父はゴーグルを額の部分へあげた。
「行き止まりなら立て札くらい立てとけよ」
 今来た道の方を見上げた。
「誰も来ねえよなあ。まいったなあ」
「もう行けないの」
 と私は訊いた。
「だめだ、五条。どこにも行けん。この谷でも飛んでくか」
 向こう側まではどのくらいあるのだろう。暗がりと雪とではっきりとは見えなかった。
「下の方には川があるみたいだがな。とてもじゃないが降りられん。雪間に少しだけかすんで見えるけどな」
 私には父が見ている崖下の光景は背丈の関係か見えなかった。切り立った崖では羽でもない限り降りることは不可能だ。
 私は急に周囲の雪山のすべてが怖くなって来た。
 白銀というけれど、すでにあたりは闇の中に沈みかかっていて、物音一つしない静寂があった。それはしゃべることをやめると不気味な静けさに変わってしまう。
 山の夜は月が出ていないとまさに真っ暗闇だと聞いていたが、とりあえず雪の反射は不思議なほど明るく感じたことを覚えている。樹氷の奥は闇が深いけれど、その表面は明るく感じた。
「ねえパパ、早く戻ろうよ」
「そうだな」
 どの道ここを進むことはできない。戻るしかない。
「仕方ない、歩くしかないな」
 父はスキー板を外した。
「お前もスキーを外せ。歩いて登るぞ」
 私はいわれるままビンディングを外してスキー板を父と同じように肩に担いだ。
 雪はかなり激しい降りになっていたが、狭い道であるためか、風は周囲の木々に少しは遮られていた。しかしそれでも顔などはとても冷たく感じた。
「大丈夫か、五条。歩けるか」
「うん、大丈夫だよ。このくらい平気だよ」
 疲れたなどといっていられない。歩かなければ置いていかれてしまうかもしれない。こんなところで一人にはなりたくない。
 怖く感じると、木がお化けに見えると聞いていたので、私は帰ったらおいしいものを食べたいと、そんなことを考えるようにしていた。

       4

 降りてくるとき道は曲がりくねっていた。おそらくは2キロくらいは降りたのではないだろうか。
 歩いてその雪の斜面を登るとどのくらいの時間がかかるのだろう。私と父が雪を踏みしめるザク、キュっという音だけが耳の中に響いていた。
 行き止まりになった場所からそれほど歩かないうちに、父が「あれ?」と左の森の方を見た。
 父が見ている方へ目をやると、そこに一軒の小屋があった。おそらくその小屋を見ているのだろうと思った。
 振り返るとまだほんの少ししか戻っていなかった。
 雪の斜面を歩いて登ることは想像以上に大変なことだったのだ。
 その小屋は子供の私には、積もった雪に隠れて、森の手前に上の方が少しだけ見えていた。
「なんであんなところに小屋なんかあるんだろうな」

 「ゆきおんな」2へ続く(長編小説 全11回)  およそ13万字

#創作大賞2024 #ホラー小説部門 #雪女 #ゆきおんな #ホラー純文学



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