ゆきおんな 第2話
ゆ き お ん な 2
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北川 陽一郎
雪は次第に激しく降るようになっていた。出来れば歩きたくはないと思うほどだった。
「少しあそこで休んでいくか」
暗くなってきたし、私もその方がいいと感じていた。
小屋は土と木でつぎはぎした様な粗末な古びた建屋で、朽ちてこのまま倒壊してしまいそうなほどだった。
小屋の中にはほとんど何も無かった。少なくとも住むための小屋ではなさそうだ。
「なんだ、今にも吹き飛ばされそうだな」
とはいっているが、雪と風が防げるだけでも有難いはずだった。
ここになぜこんな小屋が一つだけ建っているのか、子供の私には分からなかった。父にも分からなかったに違いない。
中は狭くて、部屋2つあるわけではなかった。広さはせいぜい6畳程度ではなかっただろうか。
もちろんトイレとか風呂場とか台所だとか、そんなものがあるはずもなかった。むき出しの土の床は踏みしめられたようにしっかりと固まっていた。その上に古びて朽ち果てそうな板が置かれていた。小屋の真ん中あたりにはわずかな窪みがあって、土が焦げたように黒くなっていた。
「もう百年も二百年も前に建てられたような古い小屋だな。いやもっと前かな」
父はぶつぶついっている。
長いこと誰も来たことが無いような感じだった。
父は持っていたタバコを取り出すとライターで火をつけて一服ついた。
「ふー。とりあえず生き返るようだな」
と煙をはいてどかっと座り込んだ。
そして隅に散らばっている、いつからあるのか分からない枯れた木切れを手に取った。ぼろぼろと崩れ落ちるような木片を、小屋の真ん中にある窪みの中に置いた。
「これなら燃やしてもよさそうだ」
部屋の周囲や上を見上げて、
「まあ、隙間だらけだし、これなら大丈夫だ」
ちょっと待ってろ、というと父は外へ出て5分ほどで戻ってきた。手には枯れた木がたくさん握られていた。細かい木の枝がたくさん付いている細い木もあった。
「暗いな」
父はそういいながら入って来た。
「紙が無いけどこれなら火がつくだろう」
そういって父はライターで火をつけた。プラスチックの青いライターで中が透けて見えていた。細い枝に火が付くのが見えたがライターを離すとそれはすぐに消えてしまった。
「あっちっち」
父は火の消えたライターを手のひらに乗せたまま、指に息を吹きかけた。
「仕方ない」
父はそういうとポケットからタバコを取り出した。そして包みを破いて中のタバコをすべて取り出すと、それをポケットの中に入れた。
「うん、この紙で火が付くだろう」
「大丈夫? パパ」
火が付くかどうか心配だった。
「大丈夫だ。これで火がつくさ」
父は指先でタバコの包装紙を持ってライターの火を近づけた。するとすぐに火は燃え移り、それを父は小枝の下にかざした。火はすぐにパチパチと弾けるような音がして緩やかに炎が上がった。
「よし、これでいいぞ」
窪みの中に組んだ木の下に、燃え盛る小枝を入れると、やがて火はしっかりと燃え移った。
「あったまるぞ、これで」
父は笑顔を浮かべると、
「五条、もっと近くへ来い。あったかいぞ」
枯れた木を燃やすとこんなにもパチパチと弾ける様な音がするのかと、私はその音に少しうきうきした。
心地よく耳に響くのである。
火といえばガスの火しか知らない私には、その燃え方はとても新鮮だった。
手袋を外して手のひらをかざすと、炎のぬくもりがすぐに伝わって来て、それは近づけると熱いほどだった。
「あったかい」
寒いというより冷たいといえるような吹雪の中に長いこといたため、かなり体は冷え込んでいた。スキーウェアは暖かいので凍えるということはなかったが、それでもこの寒さの中では火がないと休んでいられない。
頬や口までぬくもりを感じる暖かい火が包んでくれると、まるで生き返ったように感じた。赤く、時に黄色く揺らぐ炎を見ながら、道に迷ってから初めて笑顔が浮かんでいた。
こうして山小屋で今まで体験したことが無いことを経験しているけれども、父がいるので私は何も心配はしていなかった。
「ねえ、パパ、いつまでここにいるの?」
「ううん? そうだな」
父もまた手をかざしながら、
「この吹雪じゃあな。夜に何キロも歩いて登るのは危ない。2時間、いや五条の足だと4、5時間はかかるだろう。この急な雪の坂道を深夜に2キロ以上も上ることは体力的にも危険だ。今夜はここにいて明るくなるのを待った方がいいかな。電話でもあればいいんだが、こんなところにあるはずがないしな」
雪を踏みしめてこの急な坂道を上るのは大変なことだと、さっき少し歩いたときに感じていた。
「うん。分かった」
父はちょっと待ってろ、というとそのまま小屋を出て行った。しばらくして薪になりそうな木をたくさん抱えて戻って来た。
「これだけあれば当分は大丈夫だろう。なくなったらまた取ってこよう」
父は小屋の隅にそれを置いて、木をさらに火の中へ入れた。
「なあ、五条」
「うん」
「帰ったらお前の好きなラーメンでも作って食べるか。あったかいラーメンが食べたくなった。お前の好きな煮卵2つくらい入れてな」
「うん。食べる」
私は父の作るラーメンがとても好きだった。早くラーメンを食べに家へ帰りたくなった。
「五条、手袋を頭の下に置いて少し寝ておけ。俺は火をもう少しつけておく。山の朝は早いからな」
私は言われるまま火の近くで横になった。父は腕時計を見た。昔ママにもらったロレックスの腕時計だといってよく自慢していた。父の車以外の持ち物では、唯一の贅沢品だったかもしれない。
私はそのままいつとも無く眠ってしまった。
寒い……
そう感じた私は、目を開ける刹那に、顔の近くに何かがあるのを感じた。
どのくらいの時間が経過していたのかは分からないが暗かった。
そっと目を開けた私は小屋の戸板が開いているのを見た。火はほとんど消えかかっていたが、まだ少しだけ炎が揺らめいているのが見えた。
その明かりの中にまっ白な人の姿が見えた。
白い女は私に斜めに背を向けて、寝ている父の顔のあたりに真っ白な息を吹きかけていた。
何をしているのか分からなかった。
不思議なことに私は恐怖を感じなかった。
それはなぜかといえば、おそらくそこに見えたものは、いやそこに見えた人があまりに美しかったからだった。この世のものとは思えない美しさだった。
しかし同時にそれは現実離れした光景に思えていた。
真っ白な女はふわっと近寄ってくると、私を間近に見下ろした。髪の毛の先から顔から身に着けている着物にいたるまで、まさに雪のような純白に覆われていた。
顔の両側を覆うように流れている髪の毛は白髪というより、それよりもさらに真っ白な一切の穢れを拒んだ無垢な白さだった。
唇さえ真っ白で、まるでそれは白銀をそのまま美しい女性に作り上げたかのようだった。
その女性は子供の私が見ても、周囲の何よりもきれいだった。今までに一度だって見たことがない不思議な美しさにあふれていた。
こんなに美しい人が怖いはずが無い。
「助けに来てくれたの?」
と私はその人に訊いていた。
そのとき、窪みの中の火がわずかに見えていた。小屋の中が異常なほど寒くなってきているのに気がついた。目を覚ましたときはわずかに暖かいと感じていたが、小屋の中にもどこからか雪が舞い始め、あっという間に凍えそうな寒さになった。
父親は横になったまま動いていなかった。ぐっすりと眠っているのだと思っていた。
白い女は頬が擦れそうなほど顔を寄せて、私をじっと見つめた。
その目は怖いようでもあり、優しいようでもあった。
そしてにっこりと笑うと、
「お前はまだ小さい。そしてとても可愛い。それにお前の心はとても純粋で美しい。その心を決して失うんじゃないよ、いいね」
「うん」
と私は頷いた。
「今日ここで見たことは絶対に誰にもいってはいけない。いいね、坊や。そうすればお前だけは助けてやろう」
私はもう一度「うん」と返事をした。
「もしお前が誰かに今日のことをしゃべったら、私は即座にお前の命をもらう。分かったね」
「分かったよ。僕、絶対に誰にもいわないよ」
私はこの不思議な女性に約束をした。
「分かったらお眠り」
白い女はそういって私を胸の中に抱きしめた。
冷たいと思っていたまっ白な女の胸の中はとても暖かく感じた。頭を優しく撫でられると、私は睡魔に襲われて深い眠りに落ちていった。
次に私が目を覚ましたのは明るくなってからだった。
「おい、大丈夫か」
と私の体を揺する人がいたのだ。
「おい、こっちは生きてるぞ!」
「こりゃいったい何なんだ。この坊主、良くこんなところで寝ていたな。どこから来たんだ」
「何があったんだ。火もないこんなに寒い小屋の中で眠っていてよく凍死しなかったな」
「それによお、どうやってこの坊主はこんなところまでやって来たんだ? 昨日の夜は吹雪だったんだぞ」
「こんな所よお、もう何年も誰も来ていないようなところだぞ」
口々に叫んでいる声が耳の中に入って来た。
私が目を開けると、目の前で私の肩を揺すっていた赤ら顔の中年の男が、私を抱きしめて背中を軽く叩いた。
「良かった、本当に良かった。もう大丈夫だからな、坊や」
「パパは?」
「え? パパ? 一緒だったのか。おい、もう一人この子の父親がいるらしい。小屋の回りを探してくれ」
「そりゃ大変だ」
「よし、分かった」
防寒着に身を包んだ3人の男たちがあわてて外へ出て行った。
私はそのとき部屋の中がとても寒くなっていることに気が付いていた。窪みにはすっかり燃えきった木と灰だけが残されていた。
そしてその向こう側に、父親が反対側を向いて寝ているのが見えた。
「パパ!」
とそれを見て私は父親を呼んだ。
「坊や、あれはパパじゃない。最初からここにあったらしい死体だ。もうだいぶ昔に死んだらしい。パパと見たんだろう、きのうあれを」
「違うよ。パパだよ。あれはパパの服だよ」
「ええ?」
私は男の手から離れると、這うように火の消えている窪みの周りを回った。
「パパ」
とその肩に手をかけると、私はその顔を覗き込んだ。
「わ!」
全身に戦慄が走り、私はひっくり返るように飛び退いた。
そこに横たわっていたのは、干からびた骸骨の上に皮だけが貼ってあるかのような顔であり、袖から出ている手もまたミイラ化していた。
「パパ、どうしたの。パパは。パパじゃないよ、これは。なぜパパの服を着ているの?」
このときの衝撃をどう表現していいのか分からない。
幼い私には、そこにある光景はあまりに現実離れしていて、悲しみや恐怖などをさえ超えていた。
「これが君のパパの服だって? この死体というか骸骨は君が来たときここにあったんじゃないのか?」
「違うよ。無かったよ。僕はここへパパと一緒に来たんだ。誰もいなかったよ」
そのとき私は夕べ私の身に起きたことを思い出した。
不思議な純白の女性が現れて、父親の上に覆いかぶさっているのを見たように思う。
きっとあのときパパは死んだ。
凍え死んだだけでないことは、この異常な死に方を見れば分かる。
あの白い女の人がやったんだ。
と私は思った。そのときになって、私は昨夜の夢うつつの様な異様な出来事をありありと思い出していた。
あれはこの世のものとは思えなかった。
あれは、あれは、いったいなんだったのだろう。
それとも。
とふと私は思った。
自分は夢を見たんじゃないだろうか。
父親の死をそのまますぐに受け入れることができず、夢と現実とが混同されていったのではないだろうか。雪山や凍死などを象徴する妖怪を、自分自身で創り上げてしまったのではないだろうか。
しかし、だとすると父親の死体はどう説明できるのだろう。いや、あの服の中のミイラは別の人のものでパパはどこかにいるんじゃないのか。
「君のお父さんの名前は村岡山六郎さんというのか?」
男の一人が、父親の干からびた死体のポケットから探し出した免許証の名前を読み上げて尋ねてきた。
「うん。それはパパのだよ」
「こんな馬鹿なことが」
「じゃあな、坊や、この腕に巻かれている腕時計は見覚えがあるか?」
それはパパがいつもはめていた時計だ。
「知ってるよ。それはパパがママにもらった時計なんだ」
「本当に間違いないのか」
「うん。その時計だけはいつもぼくに自慢してたよ、パパは。それにとても大切にしていたんだ」
私があの不思議な女の話をしようかと迷ったかといえば、それはまったく無かった。
私はあの不思議な女の話を絶対にするまいと心に決めていた。あの約束は子供の心にしっかりと根を下ろしていた。恐ろしいとも優しいともいえる女の人だった。
「だめだ。こんな近くに誰もいねえぜ」
さっき出て行った男たちが2人戻って来た。
「もういい。町田も呼び戻してくれ。すぐにここを離れよう」
それからすぐに私は彼らが乗ってきた雪上車に乗せてもらった。
「ねえ、パパは?」
「パパのことは、今はよく分からねえ。それにあそこにあったミイラは連れて行けねえ。あとから警察に来てもらおう」
私は大人のいうことを聞く事しか出来なかった。
「そういえば」
と雪上車を運転しながらあの中年の赤ら顔の男がいった。
「今思えば不思議なことがあるんだ。ずっとひっかかっていた」
「何が気になるの?」
「いや、小屋に入ったとき、中が少し暖かかった。すぐに寒くなったけどな。だけどな、火はとうの昔に消えていたとしか思えねえ」
「どうして」
「すっかり火は消えていた。今さっき消えたという感じじゃなかったな」
あの不思議な女の人もまた私との約束を守ったのだ。
「お前だけは助けてやる」
そうあの純白の女の人はいっていた。やっぱりあれは夢なんかじゃなくて本当のことだったのだと、私は思った。なぜかは分からないけれど、そう思いたかった。
「それにな、坊や、今思うとよ、もっと不思議なことがあるんだ」
「なに?」
「俺たちがなぜあそこにお前がいることを知ったと思う。こんな日にあんな場所に誰かいるなんて誰も思わないぜ」
「どうして?」
「あの道へは地元の人間でも誰も入らない。突き当たりになるしな。だから綱を張ってあるんだが、昨日は途中から激しい吹雪になってロープが雪で垂れ下がって埋もれてしまった。多分何日も前から吹き溜まりになっていたんだろう」
「それなら僕も見たよ」
両端にロープが見えていたのを思い出した。
「見たのに何で入って行ったんだ」
「パパが行ったからいいと思ったんだ。パパにはきっと真ん中に積もった雪のせいでロープなんか見えなかったんだよ」
「そうか。すまなかったな。俺たちがもっときちんとパトロールしていればよかったんだが」
雪焼けした赤い鼻を男は掻いた。いかにも山の男という感じだった。
「昨日はもう少し早くリフトを止めればよかった」
雪上車はやがて頂上へ出た。あのロープを見た場所だった。
「坊主、お母さんと一緒だったんじゃないのか」
「ママは僕が産まれてすぐに死んじゃったんだ」
「え?」
赤い顔の男は不思議そうに私の方を見た。そしてつぶやいた。
「やっぱりか」
雪上車は広いゲレンデを降り始めた。
「悪いこと聞いちゃったな、坊や」
「いいよ。僕もママのことは写真でしか見たことが無いんだ」
「そうか。……お姉さんとかは」
「いないよ」
「そうか。ここへはお父さんと2人だけで来たのか?」
「うん」
「するとますます不思議だな」
「何が」
「俺たちがなぜあそこにお前さんがいるって分かったと思う?」
「知らないよ。なぜなの」
考えてみれば不思議なことだ。
「今朝早くな、俺たちの宿泊しているところへ一人の女がやって来たんだ。夜が明け始めると同時くらいに、小屋の戸をどんどん叩く音がしてな」
男はポケットからタバコを取り出すと火をつけた。そしてフーっと息を吐いた。
「雪山にはそれこそ怖い話や不思議な話が山ほどあるんだが」
タバコの煙が子供の私には煙たく感じた。男は窓を少し開けてくれた。
「今思うと本当に不思議な話だ。あわてて俺が布団からとび出していくとな、扉の向こうにものすごくきれいな肌の白い女が立っていて、こういうんだよ。『神城山から神ながら谷へ降りて行った道の横にある小屋に子供が一人います。すぐに助けてください』ってな」
あの白い女の人だと私は直感した。
「そりゃ大変だ。待ってな。今すぐに用意してみんなで出かけるからよ!」って俺はあわててまだ寝ている当直の仲間と、リフトを朝早く動かすために泊り込んでいる索道主任を起こしに行ったんだ。ところがよ、それからすぐに戻るともうその女はどこにもいなかった。俺はその女がどこか別のところへも助けを求めに行ったと思ったんだが、考えてみりゃあよ、あんな小屋のあるところからあんな若い女が一人で夜中に歩いて来るわけねえよな。それに」
と男は私に雪焼けの赤い顔を向けた。
「坊やには母親も姉さんもいなかったんだからな」
当直の小屋はちょうどゲレンデの中ほどに建てられていて、雪上車はそちらに向かって降りていた。
「おーブルブル。思い出したら鳥肌が立ってきたぜ、あの死体といいよお。坊や、死んだお前の母ちゃんが助けに出てきたんじゃねえのか」
そういって男は運転していた手を離すと、両手をだらりと下げて幽霊の真似をした。そして続けた。
「俺たちはさっきまで無我夢中で助け出すことだけを考えていたからな。余計なこと考えてる余裕なんてなかったんだ。救助要請はたまにあるしな。まあ昼間だが」
私は何といっていいのか分からず、そのまま黙っていた。
雪上車は広い斜面に沿ってゆっくりと降りている。気持ちよく晴れた広い明るいゲレンデが目の前に広がっていた。
私が黙ったままでいると、男は続けていい始めた。
「なあ、坊や。今ふと思ったんだが、あの小屋はなあ、その昔墓守がいたっていういわくつきの場所なんだ」
「はかもりって何?」
「墓守ってのはな、お墓を守っている人のことだ」
「あそこにお墓があるの?」
「あの辺にあるらしい」
「何でお墓を守っていたの?」
「もう何百年も昔のことらしいが」
といって男はタバコを外へぽいと捨てた。
「あ、いけねえ。ついいつもの癖でやっちまった」
と額に手をあてた。スキー場でゲレンデに物を投げ捨てるのは禁止されている。
男は話の続きをはじめた。
「あの小屋の裏手には古い墓があるらしいんだ。そりゃあ本当に古い墓だ。なぜそんなところに一つだけ墓が建っているのか今でも誰も知らないんだ。いつどこの誰が建てたのかもな」
「見たことないの?」
「俺は見たことない。わざわざ探しに行くようところでもないし。薄気味が悪いよな、あのあたりは」
「誰のお墓なの?」
それはあの美しい白い女の人の墓ではないのだろうか。
「俺にも分からん。ただよ、伝説じゃあな、その墓の供養をしていた男がいたっていうんだ。今じゃあ忘れられたような大昔のことだがな」
5
その後、母親に続いて父親まで亡くした私は、母親方の両親の吉沢昭三と春江夫妻に引き取られた。
私があの小屋で出会った不思議な白い女は、雪女ではなかったのだろうかと考えるようになったのは、中学へ入って小泉八雲の文庫本に収録されている「雪女」を読んだときであった。
「似ている」
と私は思った。
小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンの小説は誰でも一度は読んでいると思う。
武蔵の国のある村に住む2人の樵が奇妙な出来事に遭遇する。
年老いた方は茂作という名前で若い男は巳之吉といってまだ18才だった。
その日も2人はいつものように10キロ近い先の森へ仕事に出るが、次第に天気は荒れて来てついには吹雪に遭遇してしまう。
帰るためには川を渡る必要があったがすでに渡し守は向こう岸に船を置いたままいなくなっていた。
やむなく二人は近くの小屋へ避難した。小屋の中は2畳分くらいの広さしかなかったが、とりあえず中にいれば吹雪はしのげる。
吹雪はやみそうに無く、二人はそのまま寝てしまう。
しかし若い巳之吉は深夜、顔に雪が降りかかっていることに気がついて目を覚ます。
見ると入り口が少し開けられていて、そこにはこの世のものとも思えぬ真っ白な色をした世にも美しい女が一人いた。
美しいけれどその女の目は恐ろしげに見えた。
女が隣で寝ている茂作に息を吹きかけると茂作はあっという間に凍ってしまい、そのまま死んでしまった。
次に女は巳之吉にものしかかってくるが、息をかけることは無く巳之吉を見つめて笑みを浮かべてこういう。
「おまえもあの老人のように殺してやろうと思ったが、お前は若くきれいだから助けてやることにした。だが、お前は今夜のことを誰にも話してはいけない。誰かに言ったら命は無いものと思え」
巳之吉はその約束をして命からがら村へ帰ることができた。
その翌年、巳之吉は道で出会った一人の美しい女と知り合いになり結婚する。女の名前はお雪といった。
2人の間には10人の子供が産まれるが、ある日巳之吉はついにお雪にあの小屋の出来事を話す。
しかしお雪こそがあの日、小屋の中で見た雪女だった。
約束を破った巳之吉を雪女は子供のために殺すことはせず、そのまま姿を消してしまう。
それが小泉八雲の伝えた雪女の話である。
「これは……」
9歳のときに私があの小屋の中で遭遇したことと良く似ていた。
この世のものとも思えないまっ白な美しい女。
命だけは助けてやろう。
しかしこの中で見たことは誰にもいってはならぬ。いえばお前の命をもらう。
あの雪女は実在したのだろうか。
小泉八雲が伝えた話と違うのは、死体の有様だけである。茂吉は凍死しただけだったが、父はまるで一瞬にしてミイラにでもなったかのように干からびていた。
小泉八雲の伝えた雪女と比べると、男の生気を吸い尽くすような怨念の深さを感じる。
「あれは雪女だったんだ」
まざまざと思い出されたあの山小屋での一夜の出来事と重なる。
しかし、中学生の私には、物事を理論的に考えようとする癖が付き始めていた。
「まさか。いくらなんでもそんなことが」
あるはずがない。
あれは私が見た夢の世界の出来事だ。
あの父の死体の異常さも、きっとあっという間に腐敗が進んだに違いない。なにかそんな細菌があの小屋の中にあったのではないだろうか。警察の調査でもあの死体の謎は分からなかったと聞いている。
父は火が消えてしまったため凍死した。幼い私の方が体温が高く、より保温され保たれていたのだ。その寒さの中で幼い私は幻覚を見たのだ。
私は自分がなぜ生き残ったのかを考えることは無く、周囲で起きたことをなんとか合理的に解釈しようとしていた。
助けに来てくれた人の話では、入った瞬間は部屋の中が奇妙なほど暖かかったというが、それは彼らが急いでやって来たからそう感じただけではないのか。
私を助けてくれた地元の人から聞いた話は、いつしか私の心の隅っこへと押しやられて埋もれてしまっていた。
私は何とか理屈をつなげることによって、9歳のときに私たちの身に起きたあの異様な出来事を、信じられるものへと変容させようとしていたのだ。
このときの体験やそのときに聞いた話は、成長するに従い次第に私の中で心の片隅に埋もれて行き、いつしか私はこのときの体験自体が私の見た夢の世界であるかのように感じるようになって、
そして忘れていった。
第二章
蓬莱村の女
1
私は名古屋市内にある城北工業大学の工学部へと進んだ。国立の理工系大学だった。私は実はやっとのことで合格したのだが、当時友人たちと一緒に受けたIQテストは143で、一番だった。
父親は生命保険に入っていなかったため、私は東京の大学や私大に行くわけには行かなかった。父の残した資産などたかが知れている。個人の小さな蕎麦屋はそこそこはやってはいたが、資産を残したわけではなく、父の死後に閉店となっていた。
「五条の好きなところへ行きゃあええぞ」
と祖父母はいってくれていた。
私を引き取ってくれた母親方の祖父母は、吉沢医院という内科や外科などの設備を持つそれほど大きくはない病院の院長であり経営者であった。その頃の病床数は数十くらいではなかっただろうか。
十分な蓄えがあったと思うが、世話になっている身として肩身は狭かった。家も立派で私も金銭的に不自由するような生活ではなかった。それくらい気を使ってくれていた。
好きな東京の名のある私大に行ってもいいぞ、といわれたこともあったが、自分としては入学金や学費のことを考えるとそれは躊躇せざるを得なかった。
父も母も亡くなって文字通り天涯孤独となった9歳の私を引き取ってくれた祖父母は、この上も無く私を可愛がってくれた。
「ああ、ああ可哀相になあ。まだ9才なのになあ」
「これからは私たちを本当のお母さんお父さんだと思うんだよ。遠慮しなくていいんだから」
祖父母は、私が父と暮らしていたそれほど広くはないマンションの近くに住んでいて、よく行き来をしていた。その頃の祖父母は孫に会いたくて来ていたのだろうと思う。
また祖父母は私に父親が死んだときのことを一度だけ聞いたが、それ以上には聞こうとはしなかった。
ただ医師として父の死に様には深い関心があったらしく、自分なりに調査をしたという話は聞いたことがある。しかし祖父はもとより誰ひとりとして父のあの怪奇な死の謎を解明した人はいない。
その祖父が私に父のことをそれ以上聞かなかったのは、辛い記憶を思い出させまいとする心遣いだったのだろうと今は思う。
その頃祖父はもうかなり頭の毛がなくなっていた。皺はそれほどではなかったが、頭のせいか少し老けて見えていた。祖母は上品な印象があって小さめの顔には皺がそれほどなかったように思う。年齢は祖父が62歳で祖母は59歳だと聞いた。
私は「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」と甘えるように呼んでいた。寂しくなんか無いぞと妙に気を張っていた。父や母のことをいってはいけないような気がして、私はそれを忘れようとしていた。
祖父が老後の楽しみだと篠笛を習い始めてそれを聞かせてくれたとき、その美しい音色に子供心にも何かを感じ、耳を傾けた。そして私も祖父に篠笛を買ってもらって吹いたことを覚えている。なかなかうまく吹けなかったが、中学へ行く頃には私の方が祖父よりはうまく吹けるようになっていた。
祖父母には子供が2人いて、そのうちのひとりはすでに亡くなっている私の母である。長男の吉沢健一郎は私の父より2歳ほど年下で、内科医として父親の医院に勤めていた。当時はまだ独身で一緒に暮らして、私もよく可愛がってもらった。母方の家系はみな人の良い人たちだったといえるのかもしれない。
父は、母との思い出がある狭いマンションをなかなか出ようとはしなかった。
「ここにいつもあいつが立って料理を作ってくれていたんだ。今でも俺にはあいつの姿が見えるんだよ」
そんなことを父はよく私にいっていた。
私はそのたびに目を凝らして台所を見るのだが、母の姿が見えたことは一度もなかった。
父にとって母の存在はどれほど大きなものだったのだろうかと、今は思うのである。
今なら私は、父が母に抱いていた愛の深さが分かる。
母が死んでから、父は母との思い出の地を何度も何度も私を連れて巡っていた。
この近辺のおもだった観光地は、全部2人でドライブしたとも父はいっていた。
島崎藤村の「夜明け前」で有名な木曾の馬篭と妻籠へ行ったときには、五平餅を食べに入った店で、
「ちょうどこの場所にお母さんが座っていてな。あいつの五平餅を食べる姿が可愛くてさ」
そのときに父が浮かべた笑顔はどこか寂しく見えた。
妻籠の古い町並みを歩いていたときには、
「ここに猫がいてな。それが人懐っこい猫だったんだ。あいつが座って手を出すと尾っぽ振ってその猫がやって来てな、あいつは頭を『かーわいい』なんていいながら撫でていたんだよな」
父は私をまるで友達ででもあるかのように、そんな思い出をいつも語っていたのだ。私はその猫がどこかにいるんじゃないかとキョロキョロしてみたが、どこにも見ることはなかった。
子供の私には、父が母に抱いていた思いがどんなものであったのか分かるはずは無かった。
私は大学へ入ってからは、夕方6時から9時までコンビニでアルバイトをしていた。
授業がない土曜日と日曜日は朝10時から夕方5時までスーパーマーケットで働いていた。
そうして貯まったお金で私は名古屋市内にアパートを借りた。
祖父母はずっとここにいなさいといってくれたが、どうしても私は遠慮してしまう。
自由になりたいという思いより、これ以上世話になることが辛かった。その頃にはすでに、祖父母の長男である健一郎は結婚していて子供までいたのだから。彼は結婚してからは市内中心部に位置する栄のマンションに住んでいたが、長男でもありいずれは家に戻って来ることになる。
結局引越しに伴う費用や敷金などはすべて祖父母が出してくれた。貯めたお金は当座の生活費や家具などに当てることになった。
「五条の門出祝いだ」
と私を送ってくれた祖父母は、私にとって父親以上に気を使ってくれたのだった。
私は自分で自分を不憫な子供と思ったことなど一度も無かった。
それどころか、私は自分を恵まれているとさえ思っていた。
私の周囲にはいつも暖かい人たちがいて、私を見守っていてくれたのだから。
たぶんあの女の人も。
「ゆきおんな」3へ続く (長編小説 全11回)
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