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ゆきおんな 第7話


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

  ゆ き お ん な 7
              7/11
           北川 陽一郎

「あ、あの、お婆ちゃんは?」
 幽霊じゃないのか。
 と私はごくりと唾を飲み込んだ。動揺を察したのか、老婆は、
「ひゃっひゃっひゃ」
 と皺くちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
 こういっては何だが、私は不気味どころかとても恐ろしく感じて身震いがした。
 そして知らず知らずのうちに後ろへ下がっていた。この世のものとも思えない光景だった。
「お前さん、この村のもんじゃねえだな」
 喉の奥から搾り出してでもいるかのような声だった。
 婆さんこそこの世のもんじゃないだろう。
 とはいえなかった。
「あの、名古屋から来ました」
 どうやら幽霊ではないらしい。
「名古屋? どこだのお? それは」
 本当に知らないようだった。
「車で4,5時間も走れば行けるところです」
「車?」
 いくら婆さんでも車くらいは知っているだろうと思ったが、どうもそんな風にも見えなかった。
「ふんふん。何か、よー分からんが、都会のもんかいな」
「あの、お婆ちゃんはここに住んでるんですか?」
「悪いか」
 呆けているわけではなさそうだが、口は悪そうだった。
 私は早々に退散したい気持ちになった。
「いえ、あの、神主さんですか?」
 そうは見えなかったけれどそういってみた。他に誰かが住んでいるようには見えないのだ。まさか勝手に住み着いた訳でもないだろう。
「たわけ! 神主は男だけじゃ」
「いえ」
 といいかけて私はやめた。
 戦前は確かに神主は男だけの世界だったが、戦後は女性でも神主になれるはずだった。この婆さんは戦前から時間が進んでいないのかもしれない。それともやっぱり呆けてるんじゃないのか。
「ひゃっひゃっひゃ」
 と婆さんはまた不気味な笑いを見せた。
 人里離れたうら寂しいこんな廃屋のような神社で、現実離れした老婆に向きあった私は、胸が張り裂けそうな恐怖に襲われていた。雪女どころではない。
 笑う口元からむき出しになった婆さんの歯は真っ黄っ黄だった。
「たわけが。神社にいて知らんはずが無かろうて。今じゃ女の神主もいるわいな」
 この婆さんは人をからかっているのか。
 呆けているどころか頭脳はかなり明晰のようだった。
「長生きしてください」
 私はそういうと早々に引き上げた。
「このたわけめ! もう十分長生きしたわ!」
 ああいえばこういうタイプの人間である。
 得体の知れない婆さんだった。
 あんなところに電気があるようには見えなかった。
 余計なところへ来るんじゃなかったと思った私は、急ぎ足で参道を駆け抜け、神ながら村の集落がある方へと急いだ。
 鳥居をくぐって振り返ってみた。
 次第に細くなっていくその道の奥には、何か得体の知れない妖怪でも潜んでいるかのような気をはらんでいた。
 今の婆さんは本当に存在していたのか?
 私はブルっと身震いして急ぎ足でその場を離れた。背後から得体の知れないものが背中をつかんで引き戻されるのではないか、とはらはらしながら走り続けた。

          8

 やがて道は少し幅が広くなり、背丈の低い草むらが広がるとその下に集落が一望できた。
 神社は小高い丘にあった。
 あんな場所に婆さんは独りで住んでいるのだろうか。
 怖くて住めたものじゃない。都会の住環境から見ればあまりに現実離れした恐ろしい場所だった。
 神ながら村の集落は、古びた格子戸がたくさん見られた。古きよき時代の町並みといえなくも無い。
 しかしここにさえ近代化は押し寄せていて、サッシのアルミや壁に貼り付けられている錆びたトタンが、格子戸とは合っていなかった。
 というよりも玄関さえもドアノブが付いた近代的な作りとなっているところも多かった。引き戸はあまり見られない。
 車もほとんどの家庭に無造作に庭に捨てられたように置かれている。確かに昔ならいざ知らず、今では車がないと生活の不便さは計り知れない場所にある。もはや陸の孤島などというところはこの国には存在しないのかもしれない。
 川の流れが激しいのか滝つぼが近くにあるのか、水の流れ落ちるような音が聞こえた。
 集落の下方を見下ろすと田園風景が広がっていた。
 人の姿は無かったが畑の方には人がいた。ここから集落がある通りの方には畑がたくさんあって、そこには何人かの人がいた。
 脇にある細い道から人が来る音がした。細い道というより木の茂みを踏み倒して作られたあぜ道のようだった。
「こんにちは」
 そこに出現した、人のよさそうな小さな初老の男に私は挨拶をした。
 狐のような顔形をした男だったが、口元は笑っているようで人懐っこそうな印象があった。
「なんだべおめさ」
 方言丸出しで男はしゃべった。なにしてるんだね、お前さんは、とでもいう意味のこの辺りの言葉なのだろう。
「私は名古屋から来ました。ちょっと調べていることがあって」
「名古屋っから。そりゃま遠くから来たべな」
「ええ、まあ今では車で4、5時間で来られますが」
「車で来たべか。んだま、ご苦労さんだべ」
 かなりの訛りがあるが、これくらいなら何とか意味は分かる。
「何かそっちにあるんですか?」
 私は男が来た方を見た。
「山葵だっぺ」
「山葵。山葵漬けとかこうやってすりおろす山葵ですか」
「んだ。今ん時期は種取りやっとかんとなんねべ」
 種取りって何のことか分からなかったが、適当に返事をした。すると初老の男は口元を尖らせるようにして、
「自慢じゃねえが」
 と胸を張った。
「自慢じゃねえが、おらっちの山葵は日本一うめえ!」
 まともに話をしていると自慢話ばかりになりそうな人だった。日本中の山葵を食べたことがあるんですか、とは聞けない。
「水も種もよそとはまっるきり違うべさ」
「このあたりはきれいそうですよね、水も」
「んだ」
 男は満足そうに頷いた。私はとりあえずこの人に尋ねてみた。
「このあたりに雪女の伝説があるって聞いたんですが」
 雪女とこの村とはなんらかの関係があるはずだ。だとすればこの地に雪女に関わる何らかの伝説があるに違いない。
「雪女……」
 男は顔を曇らせた。
「おめさ、雪女のこと調べてるだか」
「はい」
「んなこと調べてどうするだ。おめさ学者だっぺか」
「いえ、そうではありませんがちょっと興味がありましてね」
 すると男は今までの自慢話のトーンからかなり声の調子を落とした。
「んなこと調べてどーするだ」
「ただ興味があるだけです。どうするということではありません」
 男は少し間を置いた。
「こん村で雪女の話はしね方がいいだぞ」
 この村で雪女の話はしない方がいいのだという。
「え? なぜですか?」
 ここには雪女の話が確かにあるのだ。
「この村のもんにとっちゃあんまりいい話じゃねっからさ」
「あなたも知ってるんですね? どんな話なんですか」
「村のもんならその話は多かれ少なかれみな知ってるさ。けんど、よそもんには話さねだろさ、誰一人」
 男はそういって集落へ向かって歩き始めた。
「教えていただくわけにはいきませんか?」
「なんでそんなに知りてんだ? おめさ」
 人のよさそうな顔はすでに一変している。
 思わず雪女を見たといいそうになった。
 しかしそのとき私は9歳の頃に雪女と交わした約束を思い出した。
 ここで見たことを絶対に誰にもいってはいけない。もししゃべったら即座にお前の命をもらう。
 私の人生の中で、その言葉は何度も私を拘束してきたのだ。
「私は全国の雪女の伝説を調べているんです」
 神ながら村の名前を出したときの雪子はとても悲しそうに見えた。そしてとても恐ろしくも見えた。
 この村に密かに伝えられている雪女の伝説は、おそらくは村人にとっては、消滅させたいほど悲惨な出来事だったのではないだろうか。
 いや、悲惨というよりも、隠さなければならないような陰湿なものだったのではないだろうか。
 この村はとても小さい。元をたどればほとんど同じ家族も同然の集落に違いない。すべてが過去のどこかで血が繋がっている。
 自分たちの先祖が犯した忌むべき行いは、人間の根源を踏みにじったのではないのか。
 もしくは未だに村人に恐怖を与える何かが存在しているのではないのか。雪女の話を避けようとしているのがはっきりと伝わって来た。
 そもそも、雪女のふるさととでも言うべき伝説があるような場所なら、絶好の観光PRにもなるだろう。近くの国道や県道、村のそこかしこに「雪女の里」と看板が立てられていても不思議はない。しかし、そんなものはどこにもない。
 男の顔はややひきつって、心なしか唇が震えているように見えた。
「……20年ほどめえ(前)にもこの向こうで雪女が出たって話があったけんども、あんとき子供を助けたって男たちはみんなこの村のもんじゃねえ。どうせ嘘をいって広めたんじゃなかか。おめさ、そのこと聞いたんじゃねえだか。そんなもんはおりゃせん」
 冬の間だけスキー場へ泊り込んで働く季節労働者は、山に住んでいるのではなく、もっと麓の農家から来ていることが多いという。
 そのとき助けられた子供は私のことだ、といって問いただせば雪女にかかわる伝説を聞きだすことはできるかもしれない。しかしいうわけにはいかない。
「黙ってこのままけえ(帰)った方がええだべさ。雪女のことなんか聞かねえ方がええ」
 男はそういい残すと急ぎ足で去って行った。
 あの男から雪女の話を聞きだすのは難しそうだ。
 蓬莱村の壊滅から1000年間、この村が得体の知れない何かを抱え込んで、それを封印してきたことは間違いない。
 今までそのことが表面化してこなかったのは、誰もこの村と雪女との関わりを知らなかったからに他ならない。そして村人は村の名誉にかかわるおぞましい話を、歴史の闇の中に封印してきた。
 私はそう思った。女性の尊厳を踏みにじる、考えたくはない出来事が脳裏をかすめた。私は小さく首を振った。
 畑の方まで降りて行った。さっき見えた通りすがりの畑にいる中年の男女に声をかけてみた。
 男の方は麦藁帽子だけをかぶっていたが日に焼けて浅黒かった。女の方は手ぬぐいでほっかむりしているせいか肌は比較的白く、頬もふっくらとして愛嬌があった。それにきれいで上品な印象があった。
 道から2人の方を見ると向こうも私を見たので私は頭を下げた。
「何を作ってるんですか」
「キャベツさ。この辺はキャベツは夏に作るとちょうどいい味がでるださ」
「甘くておいしくなるんよ」
 男に続いて女が答えた。夫婦のようだった。
 私は単刀直入に尋ねた。
「このあたりに雪女の伝説があるって聞いてやって来たんですが」
 するとたちまち男の顔が曇るのを私は見た。
「雪女のこと調べてるんだってさ」
 男にそういった女の方は、顔に曇りはなく明るかった。
「そんなこと調べて何さするだ」
「興味があって調べてるんです。何か知っていたら教えてくれませんか?」
 するとしばらくの沈黙の後で男がいった。
「あんたどっから来ただ。この辺のもんじゃねえだろ」
「名古屋から来ました」
「名古屋っからかいな」
「あら、懐かしいわね」
「懐かしいって、昔名古屋にいたとか……」
「私の生まれ育ったところだから」
「ああ、そうなんですか」
「今もうちの子が名古屋に住んでるわ」
「そうなんですか。名古屋のどのあたりにいるんですか」
「名古屋大学へ通っているからその近くよ」
 女の方は極めて明るい性格のようで素直だった。
「優秀なんですね」
「そんなことないさ。できの悪い子で困った困ったっていってたんさあ」
 女の方は話し好きのようだった。言葉がどこか都会的で、嫁に来てからこの地方の言葉の影響を受けているような感じがした。
「国立のいい大学ですよ。優秀ですよ」
「まあ一応はいい大学っていわれてるけどね」
 女は笑顔で答えている。
「このあたりはキャベツも山葵も有名なんですか」
「さあてね。どうかしら」
「さっき向こうにいた人は、おらっちの山葵は日本一うめえ、なんていってましたよ」
「ああ、六蔵爺さんのことね」
「あの爺さんと話してると山葵に限らず自慢話っきんだ(自慢話ばっかりだ)」
 女に続いて男がいった。やっぱりさっきの爺さんは自慢じゃねえが、といいながら自慢話ばっかりしているらしい。
「まあ、水が冷たくてきれいだからいい山葵ができるとは思うけどね。あの人は口を開けば自慢話ばっかりよね」
 と女は明るく答えた。
「それでね、あの人も雪女の話になると口をつぐんで教えてくれないんですよ。なぜなんですかね」
 何かのきっかけでもほしいと私は思った。
「聞かねえ方がいいこともあるだ。よそもんには教える必要もねえしな」
「あたしもよそもんだけどね」
 と女は亭主の顔を見て笑う。
 女の方は手を休めているが、男の方は土をいたわるように触って何かしていた。
 息子が大学に通っているのだから、少なくとも40歳以上にはなるのだろうけれど、その割には女の方は若く見えた。
「あたしはさ、名古屋の緑区にずっと住んでたから」
 女は私の方を向いて話した。
「緑区ですか」
「うん、そう。こう見えても昔は金城学院大学に通っていたのよ。知ってる?」
「金城ですか。よく知ってますよ」
 よくナンパしようとして合コンしました、とはいわなかった。
 名古屋のお嬢様大学なので、金欠気味だった私の学生時代にはほとんど相手にしてもらえなかった大学だ。
「それはいい大学に行ってましたね。私なんか金城の女の子によく振られましたよ」
 本当は振られる以前の問題であったのだが。私は何とか親しみをもってもらいたかった。
「あら、そうなの」
 というと女は、
「ほら、あんた、聞いた? あんたいいところの人、嫁にもらったんだって」
「まあな。よく来てくれたとは思ってるさ」
 とても素朴で素直な人たちだと私は思った。
「この人が名古屋までナンパに来てね、うっかり私が引っかかっちゃったってわけ。女学生の頃は純情だったし」
「ああ、美人ですからね、だからナンパされちゃったんですよ」
「あんた、聞いた? 今の言葉」
 女が亭主に向かっていっている。男はフンと、そ知らぬふりをしている。しかし男の顔が一瞬ゆるんだ。
「金城大学方面に向かう電車は花園電車っていわれていますよ」
 実際に名鉄瀬戸線に乗ると、朝などは金城大学に通う女学生で電車内はいっぱいだった。私は学生時代にわざわざ学校を休んで、朝早く地下鉄で栄駅まで行き、そこから名鉄瀬戸線に乗ったことがある。
 あんなに華やかな電車はどこにもないのではないだろうか。できれば毎日乗りたかったがそうもいかず、乗っている女学生との縁も生じなかった。
「知ってるわよ。私も毎日乗ってたから。朝は女ばっかりよね」
「私なんか毎日乗りたかったんですがね」
「今からだって遅くないから乗ってみたら」
「もうおじさんは恥ずかしくて駄目です」
 女はあっはっはと笑った。
「美人の奥さんでうらやましいですね」
「ほら、あんた聞いた。今の言葉」
「なにいってんだかな」
 といいつつも男の方も顔がほころんでいる。
 男は自分の女房や彼女のことをほめられるとすごく嬉しいものだ。前にも言ったように、自分がほめられるよりずっと嬉しい。
「雪女のことが聞きたかったら」
 と男は手を休めて口にした。
「この向こうに神社がある」
「神社……」
 さっきの神社のことだろう。
「そこを上がって行くとね、鳥居が立ってる場所があるの」
 今度は女の方が続けた。
「ええ、来るときに見ました」
「そこにお婆さんが独りで住んでるらしいのよ」
「はい、さっき会いました」
「そうだったの。あのお婆さんが一番詳しく知っているらしいわ。雪女のことは言い伝えで私も聞いたんだけど、神社には古文書があって詳しい話が書かれているそうよ。それが元になって伝わった話だから」
「そうだったんですか」
「ええ。でもとても悲しいお話よ。実際に起きたことだっていうんだけど、どうでしょうね。凄く昔のことだし」
「行って聞いてくるとええさ。あの婆さんなら雪女の歌語りも知ってるだろ」
 歌語り。そんなものまであるのか。いったい何を語り伝えたのだろう。
「あの婆さんか」
 と独り言のようにいうと、女が続けた。
「ちょっと不気味な感じがする変わった人らしいけど、別に悪い人じゃないだろうから」
「ああ……そうですか」
「ええ、よくは知らないんだけど……」
「何歳くらいですか、あのお婆さんは」
 気になっていた。
「さあ、この村で一番のお年寄りなんだけど……。まったくここの人たちとは交流はないわね。私もほとんど見たことがないわ。ここへ初めて御嫁に来た頃、興味本位で神社へ行ってみたんだけど、本堂に佇んでいるお婆さんの背中をチラッと見ただけなの」
「村のもんは誰もあそこへは行かねえださ。あの婆さん、もう100歳はいってるよ。自分でももう自分の年のことなんか分からねえんじゃねえか。あそこに住み着いた幽霊だっていわれても、そうかなって思うような婆さんだ」
 確かに、と私は思った。
「そういえば」
 と男は遠くを見つめた。
「あの婆さん、いつ頃からいるかっていわれると村の誰も知らねえな。おらが子供の頃に探検と称してあそこへみんなといった時には、もう婆さんだったし。誰もあそこへは近寄らねえさ、薄気味悪がって」
 できればあの婆さんにはもう会いたくは無かった。
 あの笑い声を聞いただけでも背中がぞくぞくしてしまう。そもそもあの場所そのものが不気味だった。
 しかし、あの婆さんに会いに行くなら明るいうちがいいことだけは間違いない。
 私は二人に礼をいってその場を離れた。
「心の準備をして聞いた方がいいわよ」
 別れ際に女はそういって私を見送った。
 何か恐ろしいことがあったに違いない。
 今から1000年の昔に。
 それは雪女の誕生とおそらく密接につながっているはずだ。
 それを知ることは正しいことなのだろうか。
 私はそれを知ってしまったら雪子とどうなるのだろう。いや、待て。雪子が雪女だと決まっているわけではない。そんなことがあるはずがない。

          9

 私は再びあの鳥居の前に立った。
 昼なお暗いこの道の奥に、20年前以上も前のあの日に遭遇した雪女が、ひっそりと立っているように思えた。
 私の胸は張り裂けそうな畏怖の念に満ちていた。
 しかし、知らなければならない。雪子と雪女とはまったく違うのだということを証明しなければ。
 私はゆっくりと常世の国への道を踏みしめた。
 踏み出すたびに、私の視界の背後へと消えてゆく鬱蒼とした茂みには、
恐怖とも嘆きとも感じられるようなざわめきがあった。そして私が踏み出す茂みの奥には、絶望と一切の光を拒む無限の暗黒が広がっているように感じた。
私の足は震えていた。
 やがてお社が見えてくると、そこにあの老婆が佇んでいるのが見えた。その姿を見たとき、全身が竦んでしまった。
「ひゃっひゃっひゃ」
 と不気味に老婆はまた笑った。
「やっぱり戻って来おったの。お前が来ることは分かっておったわ」
 いったいこの老婆は……。
「お婆ちゃんは」
 と私が震える声でいうと、老婆は胸を張って、
「たわけ! わしはまだ若い。世の中にわしよりきれいなおなごがどこかにおるか? ん? おったらいうてみい」
 さっきは婆さんと呼んでも何もいわなかったが、今度はえらい剣幕だった。
「はあ」
 私は間抜けな返事をした。しかしどこかで張り裂けそうな恐怖感がやわらいだ。
「ひゃっひゃっひゃ。お前さん、憑り付かれおったな」
 老婆は急に真顔になった。
「え?」
「そのままにしておけば悪さはせんがのお」
 雪女、といいそうになって私は口をつぐんだ。
「何もいわんでええ。わしには分かるでの。はてさて。むかーしな、一度だけここへ来てわしにある話をした男がおってな」
「ここへ。一度だけ。……その人はどうされました?」
「殺されたわ」
 私は全身の血が沈んだ。
「こんなところではなんだの。こっちへおいで」
 老婆は振り返ると廊下の奥へ向かって歩き始めた。私が靴を脱ごうとすると、
「そっちから回りなさい。玄関くらいあるわ、たわけ者」
「ああ、はい」
 私はさんざんこの老婆に「たわけ」といわれ続けたせいかそれに慣れてしまって、違和感を感じなくなっていた。慣れとは怖い物だと思った。
老婆は廊下の奥の扉を開けてその中へ消えた。
 廊下の横を回ると、その裏に格子戸の引き戸があった。それが玄関らしかった。
 玄関を開けると老婆がそこに立っていた。
 昼なお暗く感じるのは木々が周囲を覆っているからだろう。老婆が紐を引くと電灯がついた。昔の白い傘のような形をした明かりは電球式のものだった。
「電気が無いと思ったか」
「ええ、あるようには見えませんでした」
 私は正直に答えた。
 表に電柱は無かった。裏から回した方が確かに集落へは近い。
「たわけはどこまでいってもたわけじゃの。上がりなさい。40年ぶりくらいの客だわ。いや400年ぶりかのお」
 400年ぶりって……。この婆さんがいうとそれは本当のように聞こえてしまう。
「ふん、村のもんはわしのことを変人婆あとかお化け婆あだとかいって誰も寄り付かんわ。たわけどもが」
 ぶつぶつ独り言をいっている。
 私は、こんなところへ上がってしまって、無事に帰ることができるんだろうかと心配になった。
 この婆さんは本当に人間だろうか。
 ひょっとして昔、その男を殺したのはこの婆さんではないのか、と急に考えるようになっていた。さっき聞いたときは雪女に殺されたのだと直感したが、この婆さんの方がはるかに不気味だった。
 この婆さん、本当は安達が原の鬼婆だったりして。それともこれが本当の雪降り婆じゃないのか。
 どうせ憑り殺されるなら美しい雪女の方がずっといい、雪子の方が無限大にいい、とそんなことまで考えていた。
「心配せんでもええ」
 まるで私のそんな心の動揺を見透かしたかのように老婆はいった。
 老婆の後ろについて歩くと、すっかり腰の曲がった老婆は私の半分ほどしかなかった。
 昼なお薄暗く感じるこんな陰気な建物の中で、この老婆は独りで住んでいて恐ろしくは無いのだろうか。
 静かに歩いているつもりでも、廊下はきしんで音を立てる。走ると崩れてしまいそうだった。
「お一人で寂しくありませんか」
 そんな沈黙が私にはとても重苦しく感じられて話しかけてみた。
 老婆は廊下の奥にある部屋の障子をがたがたさせて開けた。
「ふん、余計なお世話じゃ。どれ、そこへお座り」
 中には古びた扇風機とラジオ、これまたいつの時代のものとも知れないようなブラウン管式の小さなテレビが置いてあった。映るようには見えなかった。
 私はいわれるまま座卓の前に置かれた座布団の上に座った。
「あの、40年ぶりということは、その間誰もここへ来なかったということですか」
 さすがに400年ぶりとはいえなかった。
「家の中へ入れるような客などは誰もおらんわ」
 老婆は急須の蓋を取ると、錆び付いたようなポットから湯を注ぎ、染付けの青い古そうな丸い形をした湯のみに茶を注いだ。それを私の前に出してくれた。
「茶でもお飲み」
 私は礼をいって一口飲んだ。すっかり茶の味はなかった。湯飲みを見ると、それは以前テレビで見た大昔の古伊万里の骨董品ではないかと思った。売れば高そうな気がする。
「400年くらい前にな」
 と老婆は話し始めた。
 私はつばをごくりと飲み込んだ。
「よん、……あの、400年前ですか」
 呆けていなければこの婆さんは幽霊じゃないだろうか。
「ある真夏の暑い盛りに一人の若い男がやって来てな。殺されたのはその男だわい」
「その人はなぜ殺されたんですか」
 老婆は自分の湯飲みに茶を注いでズズーッと音を立てて飲むと、
「お前と同じものに憑り付かれたんだろうよ」
 老婆がにやりとした。
 不気味だった。
 私は、体の奥から全身に、氷柱のような冷たく鋭利なものが、皮膚の表面に無数に突き出してくるかのような悪寒を覚えた。
「なぜ私がその人と同じものに憑り付かれているとお分かりになるんですか」
「お前の間抜け面にそう書いてあるわ、ひゃっひゃっひゃ」
 私はまたつばをごくりと飲み込んだ。どうもこの笑い方が一番不気味に感じる。私は帰りたくなった。
「その男はのう」
 と老婆は私の顔を覗き込むように顔を近づけた。私は思わず後ろへ下がった。あ、やっぱりこの婆さん、安達が原の……。
「雪女の話をしおってのお」
「雪女……」
「何を驚いておる。お前もそのことを聞きに来たんだろうが」
 私は頷いた。
「分かっておる。何も話すでない」
 この老婆はいったい何者なのか。
「その男はのお、わしに雪女のことを話しおった。お前と違って若くてなかなかいい男だったわ」
「私と違って、ですか」
「ひゃっひゃっひゃ。んだんだ。その男はこういったんさ」
 私はいささか気分を害したが、続きを訊ねた。
「何ていったんです?」
「昔子供の頃に父親と冬の山中をさまよったときに、小屋の中で雪女を見たとな」
「小屋の中で」
 子供の頃に父親と一緒にふと迷い込んだ冬山の小屋で雪女に遭遇した。
 私と同じではないか。
 その話がもし本当なら、あれは雪女がそのように仕組んだということなのだろうか。
「そうだ。それはそれは美しいおなごだったそうじゃわ。わしの若い頃の様にな」
「お婆ちゃんの若い頃、ですか」
「そうとも」
 臆面もなく老婆は答える。ありえないだろうが、ここまで堂々としていると本当かもと感じてしまう。
「で、どうなったんです」
「先を急ぐでない。人の話はちゃんとお聞き。順に話そう。小屋の中で休んでいたその男が寒くて目を覚ますとな、そこに真っ白な女がいてのお、父親の上に屈みこんでいた。体が動かず声も出せないでいると、その白い女が寝ている父親に息を吹きかけた。するとたちまちのうちに眠っていた父親は凍り付いてしまい、干からびたようになって死んでしまったそうだわ」
 あのときに私が見た光景とそっくりだった。
「その白い女はのお、次に動けず叫ぶことも出来ないままのその男の上に、覆いかぶさるように近寄って来た。そしてじっとその男の顔を見つめた」
 老婆はそういってまたズズズーっと茶を飲んだ。そして卓袱台の上に置かれているせんべいを手に取るとバリバリと食べた。老婆には歯があるように見えなかったが、知り合いの家に歯茎だけでピーナッツをぼりぼり食べる婆さんがいたことを思い出した。
「たわけも遠慮せんと食べろ」
「はい」と私は素直に返事をすると、同じようにせんべいを頬張ってバリバリと食べた。音もない室内に、しばらくの間せんべいを食べる音だけが響いていた。その音がやむと老婆は口を開いた。
「白い女はそのとき男にこういった。『お前もこの男と同じように殺してやろうと思ったが、お前はまだ小さい。それにとても可愛い。だから命だけは助けてやろう。そのかわり今日ここで見たことは絶対に誰にもいうではない。いったら即座にお前の命をもらう。私にはすぐにそのことが分かる。いいね』とな」
 老婆は不気味な笑顔を見せた。私はせんべいをまた口の中に入れた。
 私とまったく同じ体験をした男が、その昔ここにやって来てその話をしたのだ。その男もまた、何らかの方法でここを探り当てたのだろう。
「で、その人はどうなったんです」
「するとそのとたん不思議なことが起きた。真夏というのに恐ろしいほど寒くなると、部屋の中が凍りつくほどあっという間に冷え込んでのお。家の中というのに雪が舞い始めた」
「この部屋の中にですか」
「ああここの中でな。そんなことがあるはずがないと思うか」
「はい」
「ふん、そうだの。あるはずがない。それが普通の反応だ。だからあるはずのないことが起きたということだ」
 老婆はそういうとまた茶をズズーっと音を立てて飲んだ。
「この世の中にはな、わしらの知らない世界があるということだな。その男は今お前がいるところに同じように座っておったわ」
「え!」
 私は慌ててその場から飛び退いた。
「何を怖がっておる。心配せんでもええ」
 男はこの場で死んだのだろうか。
「男の目の前に真っ白な女が出て来てのお、わしにもそれがはっきりと見えた。そして恐怖からか金縛りにあったのか、身動きできないままの男にこういった。『約束を破ったんだね。いったはずだよ。しゃべったらお前を殺すと』ってね」
 私は無言のまま茶を飲んだ。そっと音を立てずに飲んだが、のどをごくりと液体が通る音が妙に大きく響いた。
「息を吹きかけられた男は一瞬で凍り付いてしまってのお、たちまちのうちに生気を吸い取られたように干からびてしまった。不思議なことがあるもんだわい」
 この場所でそんなことが。
「それは本当にあったことなんですか」
 この老婆は雪女の伝説を語って私を驚かそうとしているのではないのか。あるいは私の心の中が読み取れる力でもあるのか。
 そんなことを私は真剣に思った。
「本当のことだ」
 老婆の声は、そのときはなぜか力ない感じがした。
「お婆ちゃんはなぜ助かったんですか」
「さあな。それは雪女に聞いてみなくちゃ分からんことだて」
「雪女はお婆ちゃんには何もいわなかったんですか」
「わしの方をちらりと見てそのまま消えて行きおったわ」
「なぜなんでしょう。なぜお婆ちゃんだけが助かったんですか。それを見たのに」
「ふんふん。気になると見えるのお」
 そこに助かる道があるように感じた。何らかの理由があるように感じた。
 老婆はそのとき悲しそうな表情を見せた。この悲しげな表情を私は見たことがある、昔、それを見たように感じた。雪子が神ながら村の名前を出したときに見せた、あの悲しげな表情と重なった。
「それは多分わしが同じ女だからだろう。あの子の心の中には憎悪の炎が今もめらめらと燃え盛っている。1000年もの長い間ずっとな」
「1000年……。おばあちゃん、あなたはいったい何を知っているのですか?」
「すべてだ」
 そういって老婆はこのとき初めて、神ながら村に伝わる雪女の伝説を語り始めた。
 それはあまりにおぞましい話だった。
 雪子に重ねていた私にはあまりに辛い話だった。伝う頬の涙を抑えることができなかった。
 そしてそれ以上に私は怒りに震えていた。

 雪女の憎悪。
 1000年にもわたる恐ろしいほどの憎しみや恨み、悲しみ。強固な怨念。
 それこそが、私が戦うことを決意した、滅び去るべき存在なのだ。

   「ゆきおんな」(長編小説全11回)8へ続く

#創作大賞2024 #ホラー小説部門 #雪女 #ゆきおんな #ホラー純文学

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