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ゆきおんな 第5話


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

  ゆ き お ん な 5
               5/11
           北川 陽一郎

     第三章

       神ながら村の伝説

        1

 一の松スキー場から天人高原へ入って私はそのままホテルへ戻った。
 残念なことをした。
 あのときもっと一緒に彼女といておしるこにでも誘えばよかった。
 リフトなどが止まっても道の端に残る雪の上を滑ればホテルまでは戻ることができる。彼女も帰るくらいはできるだろう、地元なんだし。
 ところがあのときは余計なことばかりが頭をよぎってしまった。遅くなると彼女が帰ることができなくなるんじゃないか、またもしリフトが止まったらとそんなことも考えていた。
 暗くなったとしてもスキー場はナイターをやっているところもある。一の松や天人高原もナイター施設がある。羽衣高原から奥羽衣高原一帯を一日に何台かバスも走っている。集落があるならそこへだって走っている小さなバスくらいはあるだろう。
 奥手なんてやっぱりもてない奴のいいわけだと私は思った。本当は積極的に誘う勇気がないだけなのだ。
 それにしても、あのとき彼女はどこへいってしまったんだろう。
 まるで忽然と消えたように姿が見えなくなった。
 スキー客はかなりいたとはいっても、わずか数秒で見失うほどではなかったように思う。
 私を見て笑ったときの彼女の顔が浮かんでくる。
 髪の毛が風にそよいで口元に漂ったときの彼女は、まるで天女のように美しかった。
 どこかこの世のものとは思えない神秘的な美しさを感じた。
 あんなにきれいな女性は見たことがない。
 こちらから電話番号を聞けばよかった。
 そもそも私は女から電話をもらうほどいい男でもないし魅力的であるというわけでもない。
 そのことを忘れていた。笑ってしまうとはこのことだ。
 十人並みより少しは見かけもいいと思ってはいるが、あんなにきれいな女の子なら男は放っては置かないだろう。
 そんな思いばかりが次々と浮かんできて私は意気消沈していた。
 やっぱ、男くらいいるよな、あれだと。だから簡単に別れて行っちゃったんだ。
 否定的なことばかりが浮かんでくる。
 でも一人でこんなスキー場へ来ているってことは、付き合っている男はやっぱりいないのかも。いや、たまたまひとりで滑りに来ていたんだろう。
 混濁した思いは私を悩ませた。

 私はあの小屋のことを考えた。
 9歳の頃に見た淡い記憶の中のあの山小屋。
 真っ白な美しい女。
 父親に覆いかぶさっているときの恐ろしげな姿は、自分を見つめたときには優しい笑顔に変わっていた。
 あの小屋は本当に存在していた。
 ならばあの小屋の中で私が見たことはやはり事実だったのだろうか。
 異様な父の死に様は記憶の中にある。それは埋み火のように今もふつふつと存在しているが、その輪郭はもはやぼやけている。
 9年前、あの小屋の中にいた私はおそらく雪女に助けられた。あの小屋を見つけた今、それは確信へと変わりつつあった。
 なぜ雪女は私の命だけは助けたのだろう。
 私がまだ小さな子供だったからだろうか。お前はまだ小さくてとてもかわいい、という女の声は確かに聞いた。
 父親をあんな風に何の感情もなく殺した女にそんな優しさがあったのだろうか。
 ただ、一つだけ思い出したことがあった。あのとき雪女は9歳の私にこんなことを言ったはずだった。
「お前の心はとても純粋で美しい。その心を決して失うんじゃないよ」
 子供の頃の心、か。確かにそれは失ってはいけないものなのだろう。正直さや感謝の気持ち、純粋な愛だけがその人を救うのだ。雪女はそれを私に伝えた。

 私は9歳の頃の出来事を考えるといつもこんな考えに落ち着く。それは……私は記憶を自分の都合のいいように歪めてしまっているのではないだろうか、ということだ。
 あの小屋を探していた私は、ひょっとしたらあの真っ白な美しい雪女と、もう一度あの場所で会いたいと思っていたのではないだろうか。
 約束さえ守っていれば彼女が私を殺すことはない。だったらもう一度会って話がしてみたい。
 しかしそんな女がもし本当にいたとしても、それはこの世のものではない。
 父を何の躊躇もなく殺した雪女と私を見つめて微笑んだ雪女とでは、あまりにギャップがありすぎる。
「雪女か」
 よくよく考えてみればそんな妖怪じみたものがいるはずがなかったな。
 私の思いはいつもそこへ落ち着く。無理やりにでも最後には常識的な場所へ落ち着くのだった。いや、落ち着かせていた、というべきだったかもしれない。
 あの小屋は見つけた。
 私はもうそれでいいと思った。これで9年前の不思議な出来事からは永遠に離れたい。
 今の私はそれよりも、今日出会ったあのきれいな女の子にもう一度会いたいという思いでいっぱいだった。私を見てほほえんだあの無上の純情を感じさせる笑顔が浮かんできた。
 あの笑顔。そういえばあの日に見た真っ白な女にどこか似ていると、ふと思った。まさか。ありえない。その思いはすぐに心の底へと沈んでいった。
 彼女は今日帰るといっていたから、明日奥羽衣高原スキー場へ行ったところで会えないだろう。
 確かあの子は自分が住んでいるのは蓬莱村だといっていた。調べれば場所はすぐに分かるだろう。
 私は携帯電話を目に見えるところに置いて電話が鳴らないかと待っていた。しかし電話が鳴るはずもなかった。
 
 翌日、私は蓬莱村が近くならちょっと行ってみたいと思ってフロントで聞いてみた。もらったスキー場の地図には集落までは書いてない。
「蓬莱村というところを知りませんか?」
「蓬莱村、ですか。仙人が住むという蓬莱山の蓬莱ですよね」
「ええ、この近くではないかと思うんですけど」
「蓬莱村ね。村自体はたくさんあるので全部を覚えていませんが、聞いたことはないですね」
 この近くだとばかり思っていた。聞けば分かるだろうと。
「奥羽衣高原のもっと向こうにあるらしいんですが」
 しかし、フロントの人が奥に入ってみんなに聞いてくれたのだが、蓬莱村を知っている人は一人もいなかった。
 この近くではないのだろうか。

 羽衣高原は次第に遠ざかっていた。
 雪国の人はほとんど雪道の走行に優位なスタッドレスタイヤを履いているようだが、県外などから来ている人はほとんどがチェーンを巻いて走っていた。私もチェーンを巻いていた。
 曲がりくねった下り坂をゆっくり走ると、もうスキー場はどこにもない。やがて右手に天人高原スキー場近くへ直通のロープウェイが見えてくる。深い谷に設けられたロープウェイだった。
 ここまで来るともう羽衣高原からは次第に離れて町の方へと降りて行くことになる。
 私は寂しい思いで車を運転していた。とうとう彼女からの電話はなかった。携帯電話が鳴ったのは大学の友人からのものだけだった。はっきりいってどうでもいい電話だった。
 もう会えないか。
 がっかりした私は、あの千載一遇の機会に彼女を誘えなかった自分が、余りに情けなくてうんざりしていた。
 そもそも名刺を渡したところで、向こうが最初から何とも思っていなければ電話などかかってくるはずがない。
 それほどもてるような男ではないことをすっかり忘れていた痛手は大きい。電話がかかってくるのはよほど女性にとって魅力的な男くらいだろう。
「くそ。駄目もとで電話番号くらい聞いておけばよかった」
 後の祭りは私のような男の常である。
 名古屋に戻ってからも、私は電話のコールが鳴るたびに、あのスキー場で出会った彼女からではないかと期待に胸を躍らせていた。
 しかし表示される番号と名前を見るたびにその期待は裏切られた。
 彼女から電話がかかってくることはついになかった。

       2

 それから1年近い月日が流れた。
 私は今年の冬にもまたスキーへ行ってみようと思っていた。
 今度は奥羽衣高原にしよう。
 そこにあの子がいるかもしれない。
 そんな淡い期待があった。
 しかし、やっぱりあんなにきれいな女の子だ、男が放っておかないだろうな。と半ば諦めてもいた。
 考えてみれば例え誰とも付き合っていなくても、引く手あまたのあの子が自分を選んでくれるなどとは思えなかった。
 もしあの子が自分のことを少しでも気にかけていてくれたのなら、とっくの昔に電話くらいはかけてきてくれたはずだ。
 それでも私は12月になるとまた羽衣高原スキー場へ出かけた。今度は奥羽衣高原スキー場のホテルへ予約していた。
 ひょっとしたら名刺をなくしてしまったのかもしれない。
 都合のよいことを考えてみた。
 私はいつも相反する思いを抱く自分に気がついていた。
 奥羽衣高原の奥羽衣キッズパーク近くにある「奥羽衣ハイラインホテル」に1週間泊まる予定だった。
 今度はあの山小屋へ行くつもりはなかった。
 彼女を見てから、あの小屋のことはもう忘れてしまいたいと私は思うようになっていた。
 ただ、一つだけ私には気になることがあった。
 彼女は確かに「蓬莱村」といっていた。
 しかし、蓬莱村という村はどこを調べても出てこなかった。地図にも載っていない。インターネットで調べても蓬莱村は出てこなかった。出てくるのは中国の地名だけだった。
 蓬莱山という場所なら滋賀県にあるが、彼女は蓬莱山とはいわなかった。「ほうらい」という色々な文字で探してみたがどこにもなかった。それに彼女の話では間違いなく「蓬莱」という漢字の村だ。
 インターネットで奥羽衣あたりの地図を拡大して調べてみたが、それでも分からなかった。しかし地図はまだこの頃は直接本屋で調べたほうが詳しく調べられた。それでも分からなかった。
 そうだ、そういえばあのとき、神ながら村の近くといっていたように思う。今まですっかり忘れていたがそのことを思い出した。
 私はホテルに着くとフロントの人に「この近くに蓬莱村というところはありませんか」と尋ねてみた。去年は羽衣高原のホテルで訊いてみたが誰も知らなかった。奥羽衣の人なら知っているかもしれない。
 しかし、やはり知らなかった。よほど小さな村なのだろうか。
「神ながら村というところは知っていますか」
 と私は訊ねてみた。
「ああ、それなら知ってますよ。ここからはわりと近いですが、かなり大回りして行かないと行けませんね」
 よし、やっと分かったぞ、と私は気持ちが踊り始めた。
「どのあたりになるんですか」
 するとフロントの人は立体的に描かれた奥羽衣の地図を持ち出してきて、ここですよ、と指し示した。
 車で行くにしてもここからだとかなりの遠回りになる場所だった。大きな川が流れていてそこに架かる橋が近くにないのである。山の麓を回らなければ神ながら村へは行けない。車で1時間くらいかかりそうだった。
 ぐるりと奥羽衣から谷沿いに回って行くとその小さな村がある。
 私は地図をよく見ていて気がついたことがあった。神城山の裏あたりを指し示して、
「こっちのこのあたりはひょっとして行き止まりになっていませんか?」
 ゲレンデとしての表示はないが細い道が記されていた。私たちが間違って滑り降りた道だろう。山の裏側には少し下ったように見えるあたりに川があった。彼は地図をよく見ると、
「ああ、ここは神城山ですね。この裏側ですからここは立ち入り禁止区域ですよ。行き止まりです。ほら、谷に行き当たります。川があるでしょ」
 神ながら村は、9歳のときに雪女を見たあの小屋のある場所の向かい側にあるのだ。あの道を行くと突き当たりは谷になっていた。下には川が流れていて、その向かい側が神ながら村なのだ。
 彼女を探しに来たわけではなく、今さらそんなところまで行ったところでどうにもなるものでもない。今はあきらめるほかはなかった。
「その近くに蓬莱村というところはありませんかね」
「ううーん、ないですね。蓬莱村は聞いたこともないし地図にも載っていませんね」
 地図にも載らないような村が、この日本にあること自体が私には驚きだった。
 あんなに若くてきれいな人がいるんだから、村といってもそこそこ開けたところなのではないかと思っていたのだ。
 私は彼女を初めて見たあのスキー場へ行ってみた。
 神城山の裏手には今もロープが張られて、立ち入り禁止の札が立てかけられていた。
 さすがに今の私はそれ以上その中へは入っていくつもりにはなれなかった。
 ひょっとしたらまたそこにあの人の後姿が見えるのではないかと考えている自分を見出して、私は苦笑した。
 そんなことがあるはずがない。
 この奥には今もあの小屋があるのだろう。
 あの小屋の前で後ろから私に声をかけて来た姿が思い起こされた。
 名前くらいは聞いて置けばよかった。
 私はゲレンデを見下ろしてみた。たくさんのスキー客が滑っていた。見た所で顔などは分かるはずもない。ほとんどの人がゴーグルかサングラスをしている。
 白い服を着たボブカットの女の子を探してみたが分かるはずもなかった。
 こうして滑りながら探していると、そのうち見つかるかもしれない。
 そんな霞がかった淡い期待を抱いていた。向こうは特別何も思っていなかったのなら、自分を見つけたところでもう覚えていないかもしれない。
 もうあきらめよう。
 そう思いつつも、白いスキーウェアを着ている女性がいると、私は必ず近くまで行って確かめていた。
 ボブカットの女性を見つければ必ず顔を確認した。
 しかし、彼女はどこにもいなかった。
 私の目には、あのときに私の隣を「そうね」といって歩いてくれたあの人しか見えなくなっていた。
 だんだんそれは憧れから幻へと変わりつつあったのだ。
 もう2度と会えないか。
 会ってどうするというのだろう。
 告白できるのか。お前に。
 今なら出来る。駄目もとでいい。
 しかし私にはその機会さえ与えられることはなかった。

 私はひとつ奇妙なことに気が付いていた。
 彼女は神ながら村の近くに蓬莱村があるといっていた。しかし蓬莱村はどこにも捜し出すことができず、その近くにあるという神ながら村はかなりの大回りをしなければ行くことができない。
 あの子はスキー板だけで帰ったのだろうか。
 地元の子だから、スキーコースがない場所でも滑って行ける抜け道みたいのがあるんだろう。かなり幅の広い川を渡るための橋は、地図を見る限り近くのどこにもない。やはり車で行くのと同じようにぐるっと迂回していくことになる。
 実際、コースから外れた場所を滑ることは多くの「少し上手になった」スキーヤーがしている。危険で違反行為だから見つかれば注意を受ける。
 しかし羽衣高原のゲレンデでさえ、コースから逸れて木々の中を滑る人がいるくらいだ。誰も滑っていない新雪にも等しい雪の上を滑るのは、この上もない心地よさがあるらしい。

 その翌年の冬も私は奥羽衣高原にいた。
 彼女から電話がかかってくることはやはり無かった。
 そして会うことも出来なかった。
 私は地元の大手企業S重工への就職が内定していた。希望としては将来、研究所へ配属されたい。しかし研究所はエリートの集団であり大学院を出ていなければ無理だろう。
 出来れば学校を卒業してもアパートを引っ越したくはなかった。
 ひょっとしたら彼女が突然やって来るかもしれない。
 そんな夢のようなことを私は考えていることがあった。
 まさかな。いくらなんでもこんなところへ来るはずがない。もう忘れられているだろうさ。
 それが現実だと思った。
 ここは学生アパートだ。社会人は出なければならないという取り決めはないが、居辛いことは確かだ。私は3月いっぱいぎりぎりまでいることにしていた。
 引越しの荷物などたいしてあるわけではない。
 しかし私は携帯の電話番号だけは変えなかった。変えずにいれば、ひょっとしたら彼女からある日突然電話がかかって来てもつながる。
 俺は夢見る夢雄君か。もはや妄想の世界じゃないか……。
 私のような人間が、今のこの国にどれだけいるのだろうか。私自身はきっとたくさんいるのではないかと思っているのだが。
 私は淡い恋物語ばかりを夢想していたにすぎなかった。
 9歳の時のあの不思議な体験は次第に心の片隅に押しやられて、あの雪女のことはすっかり忘れていた。
 そうして3月の終わり頃、私は一本の電話を受けた。
 非通知になっていた。
 携帯電話にかかって来る非通知の電話には昔は出なかった。しかしあれ以来、私はひょっとしてあの子ではないのかと、わずかばかりの期待を胸にいつも電話に出ていた。しかし期待はいつも裏切られていた。ずっとその連続だった。
 それでも万が一……。ひょっとしたら……。
 といつも考えていたのだった。そのときもどうせ変な電話だろう、と思いつつ耳へあてた。
 電話に出ると、女の声がした。
「お久しぶりです。私、ゆきこです。覚えてらっしゃいますか?」
 と受話器の中の声はいった。すぐに分かった。私の元へこんな電話をかけてくる女性は誰一人としていないのだ。心当たりはあの奥羽衣高原で出会った人だけだった。
 私の胸はすぐにいっぱいになってしまった。
 あの子はゆきこさんという名前だったのだ。
「あの、羽衣高原で会った人、ですよね」
「そうね」
 私はひっくり返って喜んだ。
 この「そうね」という声をどれほど待ちわびたことだろう。
 私はつとめて冷静さを装って返事をした。
「本当にお久しぶりです。ずっと電話来ないかなって待ってました」
 胸のどきどきが電話口を通して聞こえるんじゃないかと思うほど、私の胸は高鳴っていた。
「そうだったんですか。ごめんなさいね」
「いえいえ。去年もおととしもぼく、奥羽衣高原へ行ったんですよ。あなたに会えないかなって」
「ごめんなさい。私はあれ以来スキー場へは行かなかったから」
「ああ、そうだったんだ」
「私、今、あのあときにいただいた名刺を持っているんですけど、今もこの住所にいらっしゃるんですか」
「ええ、いますよ。もうあと少しで引っ越しますが」
「ああ、よかったわ」
 よかったって、一体何がよかったんだろう。
「ええ、本当に良かったです。やっと学校も卒業して4月から仕事に出ますから、あと少しでここを出るんです」
「そうだったんですか。実は……私、今名古屋にいるんです」
「え! 名古屋に来てるんですか?」
 私は生まれて初めて女性にもてているような気がしていた。
 それも憧れの中のさらに幻でしかなかった人に。しかしきっと何かの勘違いだろう。
 しかし、蓬莱村はどこにあったのだろう、とふと思った。
 喉がからからに感じた私は、冷蔵庫を開いて中からコーラを取り出して飲んだ。
「どこにいるんですか?」
 場所を聞くと私はすぐにそこへ向かった。
 今日は友達と一緒に卒業祝いと就職祝いを兼ねて、夕方から居酒屋へ飲みに行く約束があったが、そんなものはもうどうでもよかった。
 私にとっては人生の一大事なのだ。これを逃すともう女には一生縁がないのではないか、とそんなことさえ思っていた。
 私はすぐに車で名古屋駅のセントラルタワーズへ向かった。
 そこの12階のレストラン街にある「フランドール」という喫茶で待ち合わせていた。ここからなら40分もあれば行ける。
 よーし、頑張っちゃうぞ。
 と私は気合いを入れて車を運転していた。
 そのときふと嫌なことを考えた。
 男と一緒じゃないだろうな。
 もてない奴はこんなことばっかり考えるらしい。さっきは舞い上がってしまい、何も聞かなかった。自分に会いに来たのだと何の疑いもなく信じていた。しかし、考えてみればその可能性は低いのではないか。
 セントラルタワーズの立体駐車場へ車を止めた。周りにクラウンとかカムリ、ベンツなどいい車が止まっているのを見て、もらった車をこういうのは悪いけれど、自分の車が見劣りして見えた。私はもう一度車を動かして、ポンコツらしき車が止まっている場所へ移動した。彼女を乗せるかもしれないのだ。
 鼻歌交じりにご機嫌な私は少しばかりの心配を抱きつつ、12階のレストラン街へ向かった。
 胸が高鳴った。あれほど憧れていた人に今こそ再会できるのだ。
「フランドール」へ入ると、私はすぐに彼女を見つけることが出来た。ひときわ目立つ美しさがあった。
 よかった、男なんかいないぞ。
「いやあ、やっぱりとび切りの美人だし可愛いよなあ」
 と私はつぶやいていた。
「やあ」
 と手を振ると、彼女も笑って手を振った。
「お久しぶり」
 私は彼女の前に座った。
「その節はお世話になりました。雪子です」
 と彼女は頭を下げた。
「ゆきこさんというんですね。字は山に降る雪でいいんですか?」
「はい、そうです。蓬莱雪子という名前です」
「蓬莱雪子さんですか。綺麗な名前ですね」
 彼女のヘアスタイルはあの時とまったく変わらなかった。そして何もかもがあのときのままだった。
 違うのはスキーウェアがレースの付いた薄いピンク色のワンピースとブーツに変わっていることだけだった。上には白いブレザー風の上着を羽織っていた。
 彼女は妙に落ち着いていて、年齢は若いけれど、もっと大人というか、和服が似合いそうな古風な日本女性という印象を受けた。そういうタイプが好きなので、私の希望がそう思わせただけかもしれなかった。
 そして、その肌は見てすぐに分かるほどきめ細かく、綾なされた絹糸よりも遙かに尊い美しさを感じさせていた。
「いやあ、嬉しいなあ。また会えて」
「そうね。私も嬉しいです。またお会いできて」
 透き通りそうな乳白色の白い肌に二重の大きな瞳が輝いた。薄いピンクの口紅がどこかはかなげだった。
 私はコーヒーを頼んだ。彼女の前にはオレンジジュースが置かれていた。
「今もまだあの……蓬莱村にいるんですか?」
 それはとても気になっていた。
 蓬莱村は、いったいどこにあるのだろう。
「はい。産まれてからずっとそこにいますから」
「ああ、でもまだせいぜい20年くらいでしょ、産まれてからずっとっていっても」
「そうね」
 私たちは笑った。
「蓬莱村って凄く人口が少ないみたいですよね」
「そうね。小さな集落でした」
「地図を見たんですけど載ってなくて。きっとこれは地図にも載らないくらい小さな村なんだろうなって思ったんですけど」
「少ないわね。立派な建物があるわけでもないし」
 私は忘れないうちに聞いておこうと思った。
「そうそう、携帯電話持ってますか?」
「ああ、ごめんなさい。蓬莱村では携帯電話が通じないの。だから持ってないわ」
「あ、そうか。そうだよね」
 この頃は、携帯電話はまだ日本の隅々にまで普及しているわけではなかった。観光地では電波が届くようになってはいたが、山間部ではほとんど通じない。羽衣高原でも電波が通じにくく、寒冷地のため電池の消耗も早かったことを思い出した。
「今日は名古屋へ泊まるんですか」
「そのつもりです」
「旅行で見えたんですか」
「実は秋の長雨が続いて、特にひどかったんです。そして激しい雨が一気に押し寄せてくると、村の近くを流れている雑魚川(ざこがわ)が決壊してしまったんです」
「洪水ですか」
「はい。それがあっという間に村を飲み込んでしまって……。村は古い家々ばかりで川の水はすべての家を飲み込んで押し流してしまいました」
 私は手を口に当てて絶句した。
「そんなことがあったんですか」
「はい。村では総出で土手に土砂を運んで積み上げていたんですけど、決壊した土手はもう手に負えなかったんです」
「じゃあ、村は全滅……」
「助かったのは3、4人しかいませんでした。先祖のお墓が崩れていないか見に行っていた人とか。丘の高い場所から村を見るとまるで地獄のような光景が広がっていました」
 彼女の目に涙が光ると、それはあっという間にあふれ出した。
「なんてことだ。じゃあ、お母さんやお父さんは」
「みんな亡くなりました。お父さんもお母さんもお婆ちゃんも。瓦礫の中に埋もれて死んでいました」
「なんといっていいのか」
「でも、みんなとてもきれいな死に顔でした。あの地獄のような出来事の中でそれだけが救いでした」
「そうだったんですか。去年の秋だったんですか?」
 彼女は少し時間を置いて答えた。
「いえ、一昨年のことです」
 一つの村が全滅ならニュースでも放映したのかもしれないが、地図にも載らないような小さな集落のことだ。ニュースにもならなかったのかもしれない。
「それでね、私、知り合いもそんなにいないし、村はもう壊滅してなくなってしまいましたから、親戚の家に身を寄せていたんです。でも、そういつまでもいられなくて……。それで名古屋にそういえばあの人がいたなあって」
「え、僕のこと思い出してくれたんですか」
「はい」
 彼女は首を少し傾げるしぐさをした。
「あなたは子供のように純粋な心を持ったまま育っていましたから……」
 なんだか変な会話だと感じながらも、雪山でのことがいい印象を与えていたのだろうと思った。
「ああ、結構純な人間なんですよ、ぼく」
 と私は答えていた。
「でも本当は私もずっとあなたのことが気になってましたけどね」
 彼女は笑顔でそういうと「うふ」と肩をすくめてジュースを飲んだ。村の壊滅はもう1年半前のことになる。彼女の心の傷も少しは癒えているのだろう。
 そのこととは別に私は思った。
 これは現実なのだろうか。
 あの9歳の頃の夢とも幻ともつかない体験から、まだ自分は抜けていないのではないのだろうか。
 夢心地とはきっとこのようなことをいうのだ。
 心の中を満たしてあふれるほどの、これほどの満足感を味わったことは今までにただの一度もなかった。
「あなたを頼りにここまでやって来たの。よかったかしら。私、もう天涯孤独でほかに行くところがなくて」
 私は声が上ずっていた。心臓のドキドキはもう周囲に聞こえているのではないかと思った。
「もちろんOKです。もうほかの事なんて、ぼく、どうでもいいですよ。死んだって雪子さんを最優先にします」
すでに友人との飲み会の約束は反故にしてしまっている。
「いやあ、悪い悪い。急に親戚に不幸があってさ」
 とでもいっておけばよい。都合の悪いときには親父が死んだとでもいっておけ、と友人の誰かがいっていたことを思い出した。私にはすでに父は居ないので親戚の法事にでもすればいい。
 本当の山奥から出てきた純真無垢な女性だった。
 これから都会の中でいろんな男たちにも出会うことになるけれど、そうなると私から離れていってしまうのではないだろうか。

しかし、それはその後も杞憂に終わった。
私はそれから彼女と一緒に暮らし始めた。彼女はいつも、一途に私を愛してくれていた。

 
 運命というものを私は信じたことはなかった。
 私も一応は工学部で十分に科学を学んだ身である。
 時間は過去から未来へと少しも間違うことなく流れている。そこにあるのは少しの偶然と、自分が選んでいく人生だけだ。
 しかしこの世の中には別の世界へ行けば別の見方が存在している。学生時代に興味があって読んだチベット密教の教えでは、時間は未来から過去へ流れていると説いている。
 未来に定まったイメージを置けばそれが過去に繁栄されるという考え方だ。ここには運命は変えられるものとして存在している。
 私は、今は彼女との出会いもこれから私が経験することも、すべては必然の運命であったとさえ思えるのである。
 ただしその運命は私だけに与えられたものであり、私が自分自身で選び取れる運命だった。
 そして私は私に与えられた運命を、天の意思だったのだと、今ははっきりと信じている。
 そして私はその天の意思を確かに受け止めることが出来たのだと思う。

 おそらくは1000年の中でたった一人だけ。

    「ゆきおんな」(長編小説 全11回)6へ続く

#創作大賞2024 #ホラー小説部門 #雪女 #ゆきおんな #ホラー純文学

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