![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145371514/rectangle_large_type_2_57e90f39cc5e6d5b40492eee5f9aebc8.jpeg?width=1200)
ゆきおんな 第10話
ゆ き お ん な 10
10/11
北川 陽一郎
しかし、そこには何も無かった。
誰もいなかった。
いるはずが無いじゃないか。
いったい誰がいるというんだ、こんなところに。
もしいるとしたら……。
私は足ががくがくとしていた。
しかしもうそれ以上は考えなかった。
急いで小屋から出た私は、小屋の裏手へ回った。
このすぐ裏に墓があるのだという。
必死に助けを求める、若く美しい女を村人が皆で蹂躙し、ついには無残にも殺してしまったに等しい哀れな女性の墓だ。
伝説では首を吊ったというが、もしそれが本当ならそんなものは殺しと何も変わらない。人間の尊厳を踏みにじり、女性の人格を冒涜し、ついには死へと追いやった許されざる忌むべき行いだ。
その女の呪いを恐れて逃れるため、谷を隔てたこの場所まで死体を運んで来てここに埋めた。弔いのために墓を立てた。
その哀れなお雪という女の墓。1000年以上も昔のことだ。
私は小屋の裏手を探してみた。
小屋のすぐ裏には太い幹の楓の木が立っていた。数メートル以上の高さがあった。木にまとわりつくような楓の葉は、すでに美しい紅葉となっていた。楓の木はそのほかにも何本も隙間を空けて立っていた。
同じくらいの高さのナナカマドの木がたくさん見られた。鮮やかに紅葉し、赤い実をつけていた。山漆の赤い葉も見えた。地面を覆うように数十センチ程度の雑草がたくさん伸びていた。
木々の狭間からは木漏れ日が差し込んで、澄んだ空気の波があった。
小鳥がこんなところにもさえずっているのを私は聞いた。人里とは隔絶したこんなにも寂しい場所に葬られたお雪を哀れんで、その魂への鎮魂歌をこの鳥たちは奏でていたのだろうか。
そして私の姿に驚いたのか、ざっと飛び立つ何羽かの鳥の羽を森の狭間に私は見た。
見上げた枝葉の隙間から差し込む日の光は虹色に降り注ぎ、胸に染みいる優しい輝きで私を包み込んだ。
私が踏みしめる大地には枯れた枝葉も散乱していた。長く伸びたたくさんの草が地面をおおっていた。
私は御影石を探した。
しかし、墓の姿は無かった。
見渡す限りにどこにも墓は無かった。
卒塔婆もなかった。
それどころか小屋以外に人工的な建物は一つも見えなかった。
私は張りつめていた糸が一気に緩んでいくのを感じた。ほっとしていた。
「良かった」
と私はつぶやいた。
そして少し元気になって、さらに裏手から少し離れた所まで足を伸ばして、それらしいものが無いかを探してみた。
しかし、どこにも墓らしきものは無かった。
ふー、と私は息を付いた。
張りつめていた糸がぷつんと音を立てて、ついに弾けとんだ。
「良かった! 助かった。助かったぞ!」
私は空に向かって叫んだ。
「雪子。お前を疑ってすまなかった。ごめん」
私の顔には満面の笑みが浮かんだ。
「ぼくはどうかしていた。誰一人信じることのない話だった」
帰ったら雪子にことの全部を話そう。
そう私は思った。
あの雪上車のおじさんの話はみんな嘘だったんだ。ただの伝説でしかなかったのだ。
あの老婆が話した雪女の話も、所詮は大昔の伝説の域を出ない程度のものだということが分かった。
伝説は所詮伝説でしかない。
ただの言い伝えであって何の根拠も無いものなのだった。
おおむね噂には尾ひれが付いて広がる。元の話が100円拾った、というレベルだとすると、友達の友達のそのまた友達に伝わって、最後には100万円拾って大儲けしたらしいという話になるようなものだ。
今まで感じていた張りつめた気持ちがタキシード姿のようなものだとすると、今ではすっかりよれよれになった服に着替えたときのような気楽さを感じた。
考えてみればそんなことがあるはずがない。雪女などいるはずがない。1000年の呪いなどあるはずがない。
「よし、もう帰ろう。これで全部はっきりしたんだ」
そう思って小屋の裏手へ差し掛かったとき、私は生い茂る草の中の何かにつまづいてよろけた。
「危ない!」
足元を見ると、雑草の中に埋もれるように覗く、丸みを帯びた苔むした石が見えた。
昔ならちょっと大きめの漬物石にでもしていたくらいの石だった。
このような石はこの辺りには転がっていなかった。見下ろすとそれは長さが30センチほどの楕円形のものだった。
その石の表面には文字が刻まれていた。
「これは……」
ぞっとした。全身が震えた。皮膚の内側から隆起する悪寒がたちまちのうちに表面を支配した。
考えてみれば御影石の墓などを建てていたはずがない。そんな立派なものがあるはずがないのだ。
野ざらしですぐに朽ち果ててしまう木製の卒塔婆も、残っている可能性は低い。供養した僧が墓守であったとしたら、石に文字を彫って後世にまで残そうとした可能性の方が高い。
私はそこに埋もれている文字を確かめようと、震える手で石の表面についている泥や汚れを拭き取ってみた。
まさか、まさか、そんなことが、そんなことが。
浅く彫られた石の表面に書かれた文字は、かろうじて読むことが出来た。
足の先から頭のてっぺんまで絶対0度の電子が走り抜けるのを感じた。
しかしそれは恐怖のためではなかったように思う。
蓬莱 雪
長保三年霜月……
まだほかにも梵字を含めて「釈とか「妙」とか戒名のような文字が掘られていて、表と裏にも何か書かれていたようだったが、これ以上は読めなかった。「……」にも何が書かれていたかは読み取れなかった。
蓬莱雪とは蓬莱村のお雪のことに間違いない。あの神ながら村の古びた神社で、老婆に聞いた哀れなお雪の名前である。
「なんてことだ!」
私はお雪の墓を手にしてその文字を見つめたまま、がっくりと膝を付いた。
「本当だったんだ! 伝説は本当だったんだ!」
霜月は11月になる。
彼らは本当に散々弄んだ挙句に、事実上殺したにも等しい娘をここまで運んで来て埋めたのだ。彼らは谷を越え、誰一人いない山奥へ隠すようにお雪を埋めた。そして伝説にあるように、雑魚川にかかっていた橋を落として2度とかけることはなかった。
それはお雪が死んでから何日もたっていたに違いない。
伝説では、お雪は村人の男たちの前に次々と恐ろしげな姿で現れては、みなを恐怖に陥れた。
事の次第を知った高僧が、村に残された人と一緒になって供養した。その話は事実に違いない。この墓はその高僧が彫った物かもしれない。あるいは伝説を知った後年の僧侶がここを訪れて、朽ち果てたかもしれない卒塔婆の代わりにこの石の墓を置いたのかもしれない。
こんな場所に墓があることが雄弁に、神ながら村の男たちの異様さを物語っている。橋がない今、誰一人来ることのない人里離れた最果ての地に、死してなお、お雪は埋められてしまったのだ。
私はお雪の墓を抱きしめた。
「何が神ながら村だ! 糞ったれどもめ! お前たちなんかみんな地獄に落ちてしまえ!」
私は過去に向かって叫んだ。地面をこぶしで何度も殴りつけた。こぶしの表面が破け、血が流れ出たが痛みを感じなかった。
「くそ! くそ! お前たちはそれでも人間か! 鬼でも涙することがあるんだぞ、外道め!」
お雪を襲った村人を私もまた許すことはできなかった。
しかしそれはもうすでに1000年以上も昔のことなのだ。
この墓はおそらくもうかなりの昔に表面を上に向けて倒れていた。その後、雑草が生い茂って、倒れた墓の上をまるで守るように覆いかぶさっていった。
お雪を哀れんだ雑草たちもまた彼女を守っていたのだろうか。誰かに見つけてもらうまで。
私は丈夫そうな木切れを見つけると、無我夢中でその墓の下を掘り進めた。
きっとあの子はここに埋められている。
瞼はにじんで視界がぼやけていた。
私が流した涙は、掘り返す土の中に吸い込まれていった。
1000年も昔に、あの子はどんな気持ちで死んでいったのだろう。
誰一人訪れることのない、暗黒だけが支配するこんな場所に、どんな気持ちでずっといたのだろう。
草が生い茂っていた土だ。湿り気があって柔らかさはある。
手で掘り進めることは無理だが、丈夫な木で何度も幅広く掘っていくと、そこにコツンと固いものが見えた。土を落とすとそれは骨のように見えた。
やがて頭蓋骨のような丸いものが見えて、私はそれをそっと手で撫でるように土を除けて持ち上げた。
それは原形はとどめていなかったが、頭蓋骨だとわかる程度には残されていた。このあたりの土壌はおそらくアルカリ性で、カルシウム分が多いのだろう。
なんで、なんで彼女がこんなひどい仕打ちを……。こんなに人里離れた場所に捨てられたまま、1000年もさまよっていたなんて。
恐怖と絶望の中で死んでいったお雪の哀れな声が、1000年の彼方から聞こえるようだった。
抑えきれない慟哭が周囲にこだました。
彼女の骸(むくろ)を抱き寄せると、声をあげて泣く私の目からは、さらにあふれるほどの涙が流れ落ちた。
それが彼女の額のあたりに落ちた。
するとその頭蓋骨の目から、一筋の涙が落ちていくように見えた。
ずっと彼女はここで泣いていたのだ。
「君が……君が、蓬莱雪さんなんだね」
私は号泣しながら、その頭蓋骨を両腕の中にしっかりと抱きしめた。
すると、それは蓬莱雪という女性の姿になって、涙を浮かべながら、私にしっかりと抱きついてくるように感じられた。
「もう、もう大丈夫だよ。これからはずっと一緒にいるからね」
私はしっかりと彼女の骸を抱き続けた。
暖かいぬくもりを感じさせてあげたかった。
「やっぱりリュックが必要だったな」
こんなところに放ってはおけない。
「すぐに戻ってくるから、もう少し待っててね。ここから一緒に帰るんだ」
私はもう一度遺骨を埋め戻し墓石を置いた。小屋の中に出しておこうとも考えたが、万一とはいえ、誰かが来てしまうこともあるかもしれないからだ。
呪いを解かなければならない。
お雪を安らかに眠らせなければならない。
「辛かったろう、苦しかったろう、雪子。もう安らかに眠るんだ」
その言葉をつぶやくと、また私の瞳からは大粒の涙があふれだし、それはどっとあふれ出してきて止まらなくなった。
私は声を上げて泣いていた。
「なんてむごいことを。お雪が、雪子が……あんまりじゃないか」
そして立て直した墓をしっかりと抱きしめるとそのまま泣き続けた。
私は持って来たりんどうの花を、その墓の前に植えた。そしてポケットから篠笛を取り出した。
もし伝説が本当だったら、この篠笛の音色をその墓の前に捧げようと思っていた。私は雪子が好きだといった古い子守唄を篠笛で吹いた。
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのおもりはどこへ行った
あの山越えて里へ行った
里のみやげに何もろた
でんでん太鼓のしょうの笛
おきあがりこぼしにふりつづみ
たたいてまかすにねんねしな
篠笛の悲しい音色がお雪の墓の上を流れ、周囲の木々にこだまするように聞こえた。この大自然のすべての存在が、静かに耳を傾けているような気がした。
私の頬にはさらに涙が流れ落ち、りんどうの花はかすかに風に揺らめいて、首をかしげる様に篠笛の澄んだ音色を聞いているようだった。
小屋の中をもう一度覗いてみた。
今は、あの日真っ白な美しい雪女と出会ったことが懐かしくさえある。
あれは本当の出来事だった。
記憶の中にひっそりとしまいこまれていたけれど、9歳の私に起きた真実なのだと今こそ信じられた。
このままここにいれば雪子が、いや雪女が出てくるかもしれない。
それはまずい。
秋の日は特に短い。
今ここで彼女と出会うことは避けたい。
戦うためには準備が必要だ。
今出会ってしまったらおそらくすべてが終わってしまう。
私と雪子のすべてが。
この1000年の呪いを断ち切らなければならない。
今ここに彼女が出現したら、私はあの日の父親と同じ運命をたどることは間違いないだろう。
あの日ここで雪女と出会った事は私が背負うべき運命だった。
そして彼女が大人になった私の前へ雪子として現れたのも、私が背負うべき運命なのだった。
私は急ぎ足で小屋をあとにした。
どうしても戦わなくてはならない。
それはことのすべてを知った私の最後の決意だった。
彼女はこの1000年の間に、恐ろしい呪いの中でいったい何人の男を殺して来たのだろう。
もう終わらせなくてはならない。
必ずこのぼくが、その恨みを滅ぼしてやる。
私は心に誓った。
しかし、それには今の幸せを捨てなければならない。
私は、今はとても幸せである。
美しく優しい最高の伴侶と愛すべき子供に囲まれた私には、それ以上に望むものなどない。
ささやかな幸せは私にはかけがえのないものだ。
私も子供もそして雪子も幸せなまま、家族がずっと一緒にいられる方法が一つだけある。
世界中の幸せな家族が皆そうであるように、それは当たり前の毎日が続く方法だ。
このままなにも言わずにいれば幸せなままでいられる。なにもしなければいい。今の生活をそのまま続ければいいだけだ。
私も雪子も子供も、ずっと仲睦まじい家庭の未来がある。
しかし、それは本当に幸せといえるのだろうか?
私はそれで幸せを感じたままでいられるのか?
彼女はそれで幸せなのだろうか。
そんなはずはない。
彼女こそが救われなければならないのだ。
1000年の呪いから、愛する人を救い出すわずかなチャンスが私にはある。
いや、わずかなチャンスとはいえ私だけが彼女を助けることができる。
その証拠に、雪子は1000年もの間、救われることがなかったのだ。
「お雪は救われたいと思っている」
あの不可解な老婆の姿が浮かんでくる。
もし誰かが私と同じ立場に立ったとしたら、ほとんどの人はここで葛藤するに違いない。
いや、葛藤などはない。0か100か、それしかないのだ。
どうするべきか?
自分の道をどのように選べばよいのか?
その心にいろいろな思いが去来するだろう。
しかし、私は自分が幸せなままでいられる考えをあっさり捨て去った。
そのような葛藤は生じなかった。
おそらく人が何か大きな事を決断するときには、揺れ動く心や葛藤などはないのだろう。
そうだ。
今のままでいることは自分だけの幸せにすぎない。それも偽りの幸せではないのか。
それは本当の愛の姿ではない。
自分の幸せだけを思うならばそれでもいい。
しかし。
愛する人をこそ救うべきなのだ。
そして、それはこの私にしかできない。
1000年もの間、愛する人は苦しんできたに違いない。
その苦しみや彼女が味わった地獄は、我々には想像すらできない。
それを時間の彼方から解き放つ唯一の方法があるに違いない。
きっと、
できる。
「ごめんな、一郎」
と私は一人息子のことを思い浮かべた。
「お前を一人にしてしまう。許してね。強く優しく生きるんだよ。お前ならできるさ。ぼくがそうだったように。いつでもいつまでも見守っている」
私には一切の迷いはなかった。
愛する人は私だけがきっと救える。
振り向くと、そこには不気味なほどひっそりと小さな小屋がたたずんでいるのが見えた。
「雪子に会わせてくれてありがとう」
と私はつぶやいた。
5
12月になると、私は吐き気がして体調が悪いと雪子に告げて、吉沢医院へ朝早く出かけた。吉沢健一郎もここで内科医をしていた。
吉沢健一郎は、9才の私を引き取って育ててくれた吉沢家の長男であり、32、3才になっていたと思う。
健一郎とは子供のころから仲がよく、いつも一緒に遊んでいたことはすでに述べたとおりである。優しい夫妻の子だけあって、彼もまた私にはとても優しく接してくれていた。
精密検査を受けるよういわれた私は、早目がいいということで5日後に胃カメラと大腸内視鏡検査の予約を取った。
エニマクリンという検査食を購入して戻ると雪子が心配していた。
「どうだった? 大丈夫だったの?」
「いや、何だかね、どうもちょっと良くない印象なんだ。普通は1週間以上先しか予約できないんだけど、最短で5日後に精密検査の予約を取った」
「何にもなければいいけど」
「大丈夫だよ。このところちょっと会社の連中と飲みすぎたから、それでちょっと胃をやられただけだろうさ」
「そうだといいけど。……お酒もほどほどにね」
「そうだな。お前と子供を残して死ぬのは心配だからな」
「変なこと言わないで。そんなに悪くないんでしょ?」
「いや、そうだったら嫌だというだけの話さ。そんなに心配ないだろう」
私は5日後に胃カメラと大腸内視鏡の検査を受けた。内部に侵入したカメラの映像がモニターに映し出されている。今回は私のたっての希望で、院長である祖父が検査をしてくれていた。
健一郎は胃カメラも大腸内視鏡も毎日何度か見ているそうだが、今は院長の吉沢昭三が直接検査をすることはめったにないそうだ。しかし今でもかなり手馴れた作業だというから心配はないだろう。
「え? あともって半年ってどういうことなんですか?」
私が横になっているベッドの脇で、病院に呼び出された雪子が院長である吉沢昭三にいっている。手を口元にあてて、茫然自失の感じだった。
「五条にはすべて話してあります。そういう約束だった。日本ではまだ癌であることを患者に直接告げる医者は少ないが、五条はすべてを教えてほしいといっていました。だからここで直接雪子さん、あなたに話しているのです」
雪子は私を見つめた。ここでその話をすること自体がすべて了解事項だった。
「なぜ? どうして五条さん、あなたが……」
雪子は感情が抑えきれなくなったのか、そのまま駆け出すように部屋を飛び出していった。その後姿を見ていた祖父は私にいった。
「五条。これで良かったのか、本当に」
「ええ。これでいいんです。雪子にはどうしても今のことを伝えておかなければいけませんから」
「しかし、それにしても。あのようにきれいな奥さんを、お前は……。事情はよく分からんが私はお前を信じよう。お前がどういう人間かは私が一番良く知っているんだからな。だが、何があったのか、本当のところを必ず教えてくれるように」
「はい、よく分かっています」
「余命半年。確かに伝えたぞ」
私は無言で頷いた。
雪子が戻って来た。泣きはらしたのだろうか。目が潤んでいるように見えた。
吉沢昭三は私の肩を軽く叩くと雪子に会釈をし、病室を出て行った。
「ごめんなさい、五条さん。突然だったので少し取り乱してしまったわ、私」
「いや、いいんだ」
「本人であるあなたの方が本当はずっと辛いはずなのに」
「ぼくだって最初余命半年だと聞いたときには取り乱したさ。でももう受け入れざるを得ない。ぼくは自分がもし癌などの重い病になっていたとしても、それを告げてくれるように頼んでいたんだから。その方が色々と準備できるし。しかし予想以上に悪く進行していたんだな。ずっと変だとは思っていたが無理をしてきたからさ」
「五条さん」
雪子は私の頭を包み込むように抱きしめた。そして感極まったかのように泣き出した。
「ごめん」
「いやだよ、あと半年なんて。絶対やだよ」
私はベッドに半分ほど起き上がって雪子を抱きしめた。
「ほら、こんなに元気なんだ。これからせいぜい最新の治療とやらを受けるさ。余命宣告よりも長く生きた人は結構いるんだし」
「そうなの?」
雪子の柔らかい体を力いっぱい抱きしめると、彼女のふくよかな胸のふくらみが伝わってきた。雪子の体はなんて心地よいのだろう。
この肉体のどこかに……1000年の怨念が宿り続けている……。
その日の昼過ぎに、私は病院を抜け出して自宅へ向かっていた。雪子は今頃、入院に必要な私の荷物をまとめているはずだった。
私はある決心をしていた。それを実行に移すのは、今を置いてほかにはない。
昨日も私は雪女に頭を撫でられて子供になる夢を見ていた。私を見つめる雪女の顔は、限りなく悲しく見えていた。
しかし、私の決意は変わらなかった。
それは滅ぶべき存在だ。
終 章
ゆ き お ん な
1
私が家へ戻ると、雪子はロッカーにある私の服を探しているところだった。
「あら、あなた、どうして今頃ここへ」
「いや、お前が荷物を持って来るのは大変だろうと思ってね。ちょっとだけ外出許可をもらったんだ」
「無理しないで。タクシーで行けるんだから」
「そうだな。お茶が飲みたいんだが」
「ちょっと待って。今、入れるわ」
2人でリビングへ移動した。一郎はまだ学校だ。
彼女のヘアスタイルは出会ったときとまったく変わらなかった。きれいなボブカットで神秘的な美しさはそのままだった。やや短めの青いスカート姿の彼女のスタイルも、1グラムたりとも変わらないのではないかと私は思った。
お茶を入れる雪子を後ろからそっと抱き寄せると、雪子の肌はやはりとろけるほどに柔らかくて白かった。人間以外の何ものでもない。
「待って。お湯がこぼれるわ」
私は彼女から離れて椅子に座り込んだ。お茶を入れる雪子の横顔を見て、
……私は、ついに口にした。
「似ている」
「え?」
お茶を入れる雪子の手が止まった。
「何が似ているのかしら?」
彼女の目が私を見つめた。
「こうして見ていると、ぼくが昔、子供の頃に出会った不思議な白い女にお前は良く似ている」
「五条さん……」
雪子の手が急須と湯飲みから離れた。
「不思議な白い女って……どんな人だったんですか?」
椅子に坐るとうつむき加減で、不気味なほど静かに雪子がしゃべった。
私の足は少し震えていた。心臓が今にも張り裂けそうだった。深く息を吸い込んでから私は話し出した。
「このことは今まで誰にも話したことがないんだが、9歳の頃、ぼくは親父と一緒にある山小屋へ迷い込んだんだ。ほら、お前と初めて会ったときのあの小屋だ。寒い冬のことだった。外は吹雪いていた。親父が火をつけて小屋の中を暖めると、ぼくはそのまま寝てしまったんだ。寒く感じて目を覚ますと、親父に覆いかぶさるようにしているまっ白な女がいた。その女が息を吹きかけると親父はすぐに死んでしまったらしい。ミイラのようになって」
「それでどうしたのかしら」
うつむいてしゃべる雪子の声はいつもと違って静かな、そして小さな声になっていた。不気味だった。
私は息がつまりそうだった。深呼吸をすると、少し落ち着いて、やっとのことで私は口を開いた。
「それからその女はぼくの上にも覆いかぶさって来たんだ。それは子供心にも美しい人に見えていた。この世のものとも思えないほどきれいだった。だが、その女はぼくに息を吹きかけることはしなかった。それどころか命を助けてくれたんだ。その女は本当にお前にそっくりだった」
私たちの間に重苦しい沈黙が流れた。
握り締める私の手には汗がにじんでいた。沈黙の1分間が永遠にも感じるほどだった。しかし、今は私は自分でも意外なほど落ち着いていた。足の震えも止まり、心臓の鼓動も穏やかになっていた。もう覚悟は決めていた。
「とうとう」
と雪子は椅子から立ち上がった。予想はしていたが、やはり、と私の全身から血の気が引いた。
「話してしまったんですね」
雪子の言葉が感情を交えない冷たいものに変わっていた。
「お前も気がついていたはずだ。ぼくがお前の正体を知ってしまったことを」
「知っていました。ですがあなたはまだ何もいわなかった。私があなたに求めた約束は、あなたがあの日のことを誰にもいわないということです。それが守られている限り、私も約束を守るつもりでおりました」
ぬくもりを感じる赤い雪子の頬が、次第に張りつめたように白く変わっていった。その瞳だけがあの日の雪女のように赤く輝き始めると、雪子の姿は虚空に静かに浮かび上がって次第に雪女の姿へと変貌を遂げていった。
振り乱されるようにたなびくまっ白な髪が雪子の口元に漂った。着物の裾が少しめくれ上がって、まっ白ななまめかしい太ももが見えた。
これは幻覚であってほしいと私は思った。
「雪女。……やっぱりあの日ぼくが見た雪女はお前だったんだな。一つだけ聞かせてくれ。お前はなぜぼくの元へ再び現れたのだ」
「私はあなたがあの日の約束を守るなら、このまま見守っていようと思っていました。あなたが子供の頃から誰にも何もいわなかったので、私は大人になったあなたへのご褒美。あんたも若く美しい女の体は好きだろう」
慎み深い雪子の言葉とは思えなかった。
女性に対して引っ込み思案で奥手だった私は、確かに女性には縁がなかった。雪子が始めての女だったのだ。あのままだと結婚どころか彼女が出来たかどうかも疑わしい。
雪子のような誰よりも美しい女との愛の営みは、夢の中のとろけるような極楽の世界だった。何もかもが彼女は女性として完全だった。この世に極楽があるとするならば、雪子を抱いているときこそがまさに極楽そのものだった。非の打ち所がなかった。できれば今でも私は彼女の体を一生離さずに抱きしめていたい。
部屋の中が凍りつくほど寒くなると、あっという間に部屋のそこかしこに氷柱ができ始め、すさまじい雪が舞い始めた。部屋の中にだけ激しい吹雪が押し寄せていたのだ。
これは本当のことなのか。私はまだあの小屋の中に子供のままでいて、長い夢を見ているのではないのだろうか。
そのときの私にはもはや恐怖心などはどこにもなかった。
彼女に殺されるのは私の本望なのである。
すでに私は彼女が雪女であると確信したときから決心していたのだ。
恨みの一念のみで1000年もの長きにわたってさまよい続け、男への復讐心だけに満たされた呪われた雪女は滅ぶべき存在であると。
「雪子。もうやめるんだ」
「ふん。あんたも所詮その程度の男だったんだね。約束さえ守れないんだ。だが子供のことを思うとお前を殺すことは忍びない。命だけは助けてやる。そのかわりあの子が本当に幸せになるようにするんだ。いいね。もしその約束を破ったら私は今度こそ容赦しないから」
雪女は無表情のまま私の目の前に静かに舞い降りて来た。その言葉は予想していた通りだった。
伝説の中には真実が含まれていたのだ。
「何をいっている、雪子。お前は雪子だ。雪女なんかじゃない。お前こそが幸せになるんだ。ぼくのことなどどうでもいいんだ」
私は雪女を、いや雪子を、お雪を抱きしめた。雪子の体は氷よりもずっと、はるかに冷たく感じた。
こ、これが雪女の体……。
なんということだろう!
この世の中に氷よりも冷たく感じるものがあるのだとは。それも桁外れに冷たい。痛い。一瞬にして私の体が凍り始めていた。ピリピリと針の先ほどの痛みが私の全身に広がっていった。
それはお雪の心そのままの冷たさだったに違いない。
もはや救いがたい冷たさだった。
こんなに、こんなに冷たくなっていたなんて。
予想外だった。
こ、これではもう無理かも……。
そんなことを考えた。
私は、こわばり始めた口を開いた。
「お前を助けられるのはぼくだけだ、雪子」
私は力いっぱい雪子を抱きしめた。左手でしっかりと彼女の腰を抱えて抱き寄せ、右手で彼女の頭を包み込むように抱きしめて私の頬へ寄せた。
「離しなさい!」
「だめだ。絶対に離さん! ぼくはお前を愛している。誰よりも何よりも愛している。お前は雪子なんだ!」
絶対0度の極低温が、あっという間に私の手や顔や体を凍りつかせ、内臓さえ凍えて固まっていくのが分かった。
「私は誰のものでもない。お前なんかのものでもない」
雪女の冷徹な静かな声が聞こえた。そこにはもはや何の感情も含まれてはいなかった。恐ろしい声だった。
雪女の体は氷そのものだったけれど、なぜか女体特有の壊れてしまいそうな柔らかさを私はかすかに感じていた。
「ぼくの命を吸え、ぼくのすべてを吸い続けろ!」
私は自分の体から力が失われていくのを感じ始めていた。
「何をいってるんだ! そんなことしたらお前が死んじゃうじゃないか! 離せ、離すんだ! 子供のためにもお前だけは助けてやるっていっただろ!」
雪女はしっかりと抱きつく私の体を必死に押しのけようとしている。
そう。それでいいんだ。
私は離さなかった。その両手はしっかりと極低温の女を抱きしめていた。
力いっぱい私は抱きしめていた。
絶対に離さないつもりだった。これで助けられる。
「お前のすべての心の闇をぼくが必ず溶かしてやる。それだけがお前を救う唯一の方法だ」
「何いってるの! あんたは自分のいってることが分かってるのかい。この手を離せ! 離しなさい!」
雪女の凍りつく手が私の手をつかんだ。そして振り乱される真っ白な髪の毛が私の口の中へも入って来た。
「ぼくの命はどの道もう半年だ。ほとんどないんだ」
「だからって何も今こんな風に死ぬことはないじゃないか」
「お前を離すとお前はまた雪女としてこれからもたくさんの男たちを憑り殺すだろう。もう、もう、やめるんだ。ぼくで終わりにしよう。お前の苦しみも悲しみも憎しみも、そのすべてをぼくが一緒に背負ってやる。もう何も恨むんじゃない」
私は諭すように雪女を抱きしめた。
「さあ、いい子だからぼくを信じるんだ、雪子。1000年前にお前が受けた苦しみや悲しみをみんな吐き出すんだ、蓬莱雪さん!」
「蓬莱雪……。愚か者!離せ!」
すでに私の全身は凍り付いていた。
私の手はもう力が入っているのかどうかも分からなかった。
ブルブルと震える手は次第にやせ細っていくのが分かった。
顔の筋肉がげっそりと落ち始め、自分の肉体から水分が蒸発するようにあちこちに飛散していくのが分かった。
生気が恐ろしい速さで奪われていった。それは予想をはるかに超えていた。
私は自分の目がかすんで行くのを感じた。意識ももはやどこか遠くへと拡散して消えていくようだった。
「これでいい、これでいいんだ。雪子、もうやめるんだ」
ミイラになってもぼくは雪子を手放さない。彼女は雪女ではない。ぼくの、ぼくの大切な雪子なんだ。ぼくの……。
※
凍りついた五条の肉体は見る見る痩せ衰えていくと、あっという間に体中の水分が奪われたように干からび始めた。そしてものの1分もしない間に骸骨のようになると、その場にどっと崩れ落ちた。
「五条・・・」
雪女の口から彼の名前が漏れ出ていた。
しかし次に雪女の顔に不気味な笑みが浮かんだ。
「ゆきおんな」(長編小説全11回)10 最終回へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?