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ゆきおんな 最終回(第11話)


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

  ゆ き お ん な 11 最終回
            
           北川 陽一郎

         2

「あんたも」
 その声は優しい雪子の声とは違っていた。
「あんたもその程度の男だったんだね。ふん!」
 雪女は一切の感情が混じらない冷酷な眼差しで、今まで自分を抱きしめていた村岡五条の遺体を見下ろした。
 そこには倒れた衝撃で原形をとどめないほど崩れ去った男の、まるで骨と皮だけの遺骸が散乱していた。
 五条に抱きしめられて彼の生気を吸い尽くしているとき、妙な違和感を感じた。
 しかし、深く考える必要もない。
 五条の死をかけた最期の対決さえ、雪女の心には何の変化も与えはしなかった。
 雪女は五条を見下ろすと、
「ふん。この先何千年でも男なんか呪い続けてやる。人間など滅んでしまえばよい」
 と鼻先で笑うと、そのまま壁を通り抜けるように次第に姿を消して行った。その姿が壁の中にあとかたもなく消え入りそうになったとき、部屋のドアが開いて、
「お待ち! お雪!」
 というしわがれた声がした。
 壁の中へ消えそうになっていた雪女がそっと振り向くと、そこにちっぽけな一人の老婆が立っていた。
「ふーふー、何とか間に合ったわい」
 とその老婆はいった。
 神ながら神社の老婆だった。
「この年になっての長旅はほんと、まさに命がけじゃわ」
 深く息をついた老婆は背伸びをして居住まいを正した。
「ふん、おばばか。間に合っただと、呆けおって。これが見えぬか」
「ふんふん、ちゃんと見えておるわ。これはわしのよー知っとるたわけじゃて」
「呆け婆あがなんか用か。こんなところまで何をしにやって来た」
「用があるから来たんだ、お雪。蓬莱雪よ」
「その名を気安く呼ぶんじゃないよ、おばば。もういいかげん成仏しな。いつまでこの世をさまよっているつもりだい」
「ふんふん。いわれんでも用が済んだらあの世へ行くわい。その前にこれをお雪に見せるようにな、このたわけに頼まれておってな」
 老婆はそういって懐から古びた薄い風呂敷を取り出した。開くと中から1枚のDVDが出て来た。
「このたわけがのお、自分が死んだらこれを最後にお前さんに見せてやってほしいといってな。頼まれておったんだ」
「なんだい、それは」
「まあ、見りゃ分かるがな。この男はな、こうなることが最初から分かっておったんだろうて」
「何だと? 自分が無駄死にすることが分かっていたというつもりか」
「ふんふん。無駄死にか。ふん、なるほどのお」
 老婆はそういってテレビのスイッチを探した。しかし良く分からなかったようだ。雪女が手をかざすとテレビのスイッチが入った。
 お雪は老婆のいったことの意味が良く分からなかった。
「ふん、何か分からんが五条の最後の頼みとあらば見てやろう」
「ひゃっひゃっひゃ。それでよいそれでよい。ハックション! ちょっと寒いのお。年よりは大切にせんかい、お雪。寒すぎるわい」
 新しい茶葉を急須に入れてポットから湯を注いだ。
「お雪、お前も飲むか」
「いらぬ」
「ふんふん。うまいぞ。体があったまるわい」
 DVDが挿入されると自動的にそれは起動して映像が現れた。
「雪子、この映像を見ているということは、もうぼくはこの世にいないのだろう。これはぼくからの最後の命をかけたメッセージだ。最後まで見てもらいたい」
 映像は五条が椅子に腰を下ろして話すシーンから始まった。
 老婆はテレビの前に置かれた座布団の上に正座をしてそれを見た。雪女は虚空に浮かぶように見下ろした。
 その次に現れたのは五条と雪子が映し出された記録映像だった。五条と雪子が出会った頃にはビデオ映像はほとんど無く、写真が多かった。
 一緒にスキーに行ったときの写真、食事をしているときの写真、家の中で一緒に記念写真をとったもの。そのいずれもが二人とも笑っていた。そんな写真がたくさん映像として編集されていた。
 幸せな二人の姿が映っていた。
 そして子供が生まれたときの病院での写真。この頃からビデオ映像として撮影された記録が画面に映し出された。
「ほおほお、仲睦まじいのお」
 雪女はしかし無表情のままだった。一片の心も動かされなかった。
 その心は氷山の最深部に凝縮している氷そのもので、恐ろしく深い澱みの底から凍り付いていた。
「見えるわ見えるわ、お雪。お前の心がまるで氷のように閉ざされたまま、どす黒く渦巻いているのがな」
「ふん、だからどうした、おばば。何度もいったはずだ。早く成仏しな。私が変わることはない」
「ふんふん。お前が成仏するのを見届けるまで、わしは化けて出てやるわ。ええから最後まで見ておれ」
 映像は今までの生活の楽しかった思い出で満ちていた。
 普通の人であったならば、愛する人を亡くしたあとで見ていれば、涙なしには見ることができない映像であったに違いない。そこにはもう決して声を出して笑うことのない人の姿があったのだ。
 しかし雪女の目からは涙はおろか、何の感情もあふれることは無かった。
「お前さんの心の闇は恐ろしく深い。さて、溶けるかのお」
 と老婆は茶をすすると続けた。
「お前さん、あのたわけが本当に癌で余命半年だなどと思っておったんか」
「え?」
 お雪はそのことは疑わなかった。
 五条がそんな嘘をつく理由など、どこにも無かったからだ。
 だから癌で余命あと半年と聞いたとき、あと半年間、五条があの日のことをいわなければそのまま死なせてやろうと思った。それがせめてもの自分の思いだったのだ。
 少しは自分と一緒で幸せに感じただろうか、とふと思うことはあった。
「この男はな、お前さんがお雪であり雪女であることに気がついたときから、どうしたら1000年の呪いからお前さんを救うことができるか、そればかりを考えておったんだ。そして生半可なことでそれはできることではないことを知った。命をかけたって無駄だろうとな。
 この男はわしにいうておった。病院で検査してもらったらどこも悪くは無くて、おまえさんほど丈夫な人は珍しいっていわれたってな。今どきどっかどっか悪いもんだ、人間はな」
 雪女は黙って聞いていた。その心にかすかな動揺が生じていた。しかし感情が揺らぐことはない。
「嘘だ、そんなことあるはずがないじゃないか。私は病院で医者に聞いたんだよ、直接。余命半年だってね」
「ふんふん。この男はな、医者にDNAとやらも含めた寿命診断をしてもらったらしいわ。そして医者に直接、100歳までは十分に生きられるくらい健康だって太鼓判を押されたそうだわ。それこそが、あの男が背負うべき運命を物語っていたんだろうて」
 100歳。それならあと70年近くもあるじゃないか。
 雪女は五条に抱きしめられて生気を奪い去っているとき、奇妙な違和感を覚えたことを思い出した。
 あのとき、確かに私は五条がすぐには死なないことを感じたのかもしれないのだ。しかしあのときはそのことよりも、約束を破った事への怒りと失望の方が大きかった。
「病院かいの。それは口裏を合わせるように医者に頼んだからだろうて」
「なんだって?」
 五条はなぜ、なぜ、そんな嘘を。
「わしにいうておったわ。残りの人生をすべて雪子に捧げる。雪子のためならこの命すぐにでも捨てられる。雪子を救える可能性がわずか1%でもあれば、それにかけるってな。それこそが自分が背負うべき運命なのだろうと」
 癌になって余命半年と宣告された男が、半ば人生をあきらめたのだと雪子は思っていた。そのことのついでに最後にいい格好をしたかっただけなのだろうと。
 自分を愛する思いは感じても、それ以上に深い愛はどこにも感じなかった。墓を掘り起こして遺骨を抱きしめて泣いた五条を見ていても、心が動くことはなかった。
 それほどお雪の1000年にわたる絶望と恐怖は底知れなかったのだ。
 この男もただ単に約束を破った男に過ぎなかったのだ。
「一つ教えておくれよ。この人はなぜこれをおばばに」
「さあな、わしがお前さんと同じくらいの美人だからかのお。ひゃっひゃっひゃ」
 と老婆は笑った。そして茶を一杯飲むと、ああーっと一息ついてから続けた。
「ふんふん。わしならもう老い先短い命だと思ったからだろうて。万一のことがあったところで誰も悲しむものなぞおるまいとな。……あるいは、本当はわしのこともあの男には分かっておったのかもしれんな。頭のいい男だったからのお」
 映像の中の声が聞こえてきた。
「雪子、ぼくはお前が1000年前のあの忌まわしい出来事をきっかけとして、すべての男に対する恐ろしいほどの恨みと復讐を誓って死んで行ったことを知ったとき、今すぐにでも1000年前に戻って、この命と引き換えにしてでもお前を助けてやりたいと思ったんだ。お前をそんな風に追い込んだ奴らをすべて八つ裂きにして、地獄の思いを味わわせてやりたいと思った。
 だけどそんなことはできない相談だ。だが、ぼくはお前を、この世の誰よりも、そして何よりも愛しているお前を、1000年の呪いから救い出すことができるなら、何でもしようと決意した。ぼくは100歳まで生きると太鼓判を押されたが、残りのこのぼくの人生をすべて、深い愛とともに雪子に捧げる。1000年の呪いを今こそ断ち切るために。
 ぼくは、ぼくだけがお前をこの呪われた雪女の地獄から救い出せると信じている。
 お前の心には誰にも負けない優しさが残っているんだ。だからまだ純粋無垢な心を持つ子供だけは殺さなかったのだ。
 心から君にいいたい。あの日、よくぼくのところに来てくれた、と。本当にありがとう。心から感謝している。そしてあの世で待っている。お前を力いっぱい抱きしめて、今度こそ2度と離さない。いつまでもな」
 五条の笑顔がそこにはあった。これから死にに行くというのに、何という優しい笑顔だろうか。そしてなんという明るい笑顔なのだろうか。
 五条は両手を広げて差し出した。
「さあ、雪子、ぼくの胸の中においで。いつまでも一緒にいよう、雪子。ぼくの胸の中で、今こそ安心して眠るんだ」
 映像はそこで終わっていた。
 あの人の人生は、まだ今まで生きて来た年月の2倍以上も長く存在していた。70年も。五条が何も言わなければ、家族に囲まれて、幸せな人生をずっと歩んだだろう。
 その命を躊躇することなく、この私のために。
 部屋の中の雪嵐が次第に収まり始めていた。
 これほど深い愛を感じたことは、この1000年の中にただの一度も無かった。蓬莱雪として生きていたときにも、これほどの愛を感じたことはなかった。
 しかもわずかな後悔の念も感じられないのだ。
 あのどこまでも優しい笑顔。あの穢れなき瞳。
 あれは! あれは!
 あのときのあの人そのものだ。純粋な子供のときの瞳の輝きそのものだ。
 そうなのだ。
 あの人は私との約束を守り続けた。
「お前の心はとても純粋で美しい。その心を決して失うんじゃないよ、いいね」
 私のその言葉に対して、「うん」と答えた幼い五条の純情な顔が浮かんでくる。
 私だけのために……。
「五条さん」
 お雪の口から、思わずその名前がこぼれ出た。

 そのとき。

 雪女の瞼に小さな涙のしずくが光った。

 はっと、お雪の目が大きく開いた。
「……私の目に涙が」
 そのしずくは一粒、また一粒と滴り落ちて、やがて大粒の涙がお雪の頬を濡らした。
「私の目にまだ涙が残っていたなんて」
 五条が入院したときに部屋の中で流した涙は、雪女の嘘の涙に過ぎなかった。涙を流さなければならない状況だから流しただけのものだ。今までの涙はみなそうだった。彼が死ぬのだと聞いても何の感情もいだかなかった。
 しかし今この目に流れ落ちている涙は、あの1000年の昔に、閉じ込められた小屋の中で、楽しかった日々を思って涙したあのとき以来の、穢れなき透明なしずくだった。
 いつの間にか部屋の中の雪が収まっていた。部屋の中に暖かさが戻って来ていた。
 真っ白だった雪女の体がかすかに赤みを帯びて、それは蓬莱雪だった頃の姿へと戻り始めていた。
「ああ、私は、私は、これで、これで……」
 お雪の体は次第に朽ち果てるように水分が失われていく。その水霧と一緒に、1000年の恨みや呪い、恐怖や悲しみ、怨念、あらゆる負の思いや感情が電子の粒となって散逸していく。それと同時に、愛や許し、正義や喜び、信頼や慈悲……蓬莱雪だったころの美しい精神が蘇えってくる。
「やっとこれで死ねるんだ。私はやっとこれで死ねるんだわ」
 どうっとお雪はその場に崩れ落ちるように膝を付いた。
「ひゃっひゃっひゃ。あのたわけめ、やりおったわ。待っておった甲斐があったというものだわい。あの世へ行ったら褒めてやらにゃな」
 老婆は正座したまま笑った。
「礼をいいます、お婆ちゃん」
 お雪の口から感謝の言葉が漏れていた。
「お雪。良かったのお」
 老婆の皺だらけの目にも涙が浮かんでいた。
「はい」
「ふんふん。見届けたわ。どれ、わしもそろそろ行くとするか。ひゃっひゃっひゃ」
 それが老婆の最後の言葉だった。
 茶を飲もうとした老婆の手から湯飲みが零れ落ちた。
 老婆は座ったまま静かに目を閉じた。
 そしてその瞼が2度と開くことは無かった。
 お雪は見る間にやせ衰えて行った。
 それはまるで1000年の時の流れが一気に押し寄せているかのようだった。
 倒れ伏したお雪は少しずつ這って動いた。
「あの人のところへ、あの人のところへ」
 懸命に力を込めて這い進んだ。
 そして最後の力を振り絞ると、ミイラ化しつつある震える手でしっかりと骨と皮だけの五条の手を掴んだ。
「ありがとう、あなた。私の大切な人……」
 干からびて行くお雪の顔に笑顔が浮かんだ。
 こんなに幸せな笑顔で死ねるんだ。本当にありがとう、五条さん。
 と、今こそ1000年の呪いから解き放たれたお雪の瞳からは、あふれるほどの涙が零れ落ちて、五条の骸を濡らした。
「ありがとう。あなた。私の最愛の人……」
 と、もう一度、ゆきおんな:蓬莱雪はかすかにつぶやいた。

          3

 私は誇りに思うのである。
 雪子との出会いや生活そのものを私は誇りに思う。
 この世に神や仏が存在するのかどうかは私には分からない。
 もしいるのなら、私は神仏に感謝したいと思うのである。
 私は神ながら村であの不思議な老婆に出会って、自分の人生の意味を悟った。
 雪子があの9歳の日に出会った雪女であることを知ったとき、私は自分の人生が普通ではないことに気が付いた。
 そして雪女がこの1000年の間に、おそらくは何人もの男の命を奪い去っていることを知った。
 それは男という存在に対する恨みと復讐の一念から生み出された、恐ろしい呪いの連鎖であり、あざなえる縄のような呪縛だと分かった。同じ体でありながら、決して交わることのない、優しかった蓬莱雪という女性と呪われた雪女。
 通りかかった神ながら村で、おそらくはたくさんの男たちにさんざん蹂躙され、弄ばれ、絶望の中で自ら死んでいったお雪という女の心の闇は、恐ろしいほど深く暗いものであることを知った。
 その闇を取り払って光をさすのは、もはや不可能に近いだろうと私は思った。
 だからこそ、お雪は1000年もの間、苦しみ続けて来たのだ。
 私は老婆が語り伝えるあの歌を初めて聞いたとき、奇妙な違和感を覚えた。

  雪女の歌

1.むかしむかしのそのむかし

  きれいな女がおったとさ

  女がお山に泊まったら

  男たちが奪い合い

  みんなで女を愛でたとさ

  愛でたとさ

2.むかしむかしのそのむかし

  きれいな女がおったとさ

  ある日かごの中の鳥になり

  雪の降る日に首つった

  そしたら男が死んだとさ

  死んだとさ

3.むかしむかしのそのむかし

  一人の若者やって来て

  黄泉の女に愛をさしあぐ

  無常なるかな雪女

  それで呪いが解けたとさ

  解けたとさ

4.むかしむかしのそのむかし

  朝事夕事恨み侘び

  呪いが解けた雪女

  雪の降る日にお山へ帰った

  お山へ帰った

 男たちが愛でたというのは今でいえばただの蹂躙にすぎなかった。
 恥じ入るべき忌むべき行いを神ながら村の男たちはしたのだ。
 そして村のはずれにある小屋に閉じ込めてさんざん美しいお雪を弄んだ。
 小屋から出してもらえないことを悟ったお雪は精神を崩壊させた。しかし、その精神の隙間に、わずかな正気を取り戻し、首を吊って自らの死を選んだ。
 男たちのへ復讐と恨みの一念をもって。
 それは雪の降る日だったと伝説にはあった。

 村の男たちが死んだ、とあるのはお雪の死を契機として、異常な死に方をする男たちが出て来たということだろう。お雪の亡霊を見たものもいると伝説にはあった。
 老婆から聞いた古文書にある通りだ。
 ここまで何も問題は無い。
 問題は3番と4番である。
 神ながら神社の老婆はこの意味が分かるか、といった。
 分からなければお前なんぞ雪女に殺されておしまいだと。
 この歌に感じた違和感は、そのときなんとなく分かったように思えたのだ。

 一人の若者がやって来て黄泉の女に愛を捧げると、雪女の呪いは解けた。

 と歌の3番にある。
 黄泉の女とはお雪のことだろう。
 無常なるかな雪女、とあるのは雪女でさえも変わることがある、恨みだけの存在ではないということだ。
 だから呪いもまた永遠不滅のものではないということになる。

 そして呪いが解けた雪女は山へ帰った……

 と続く歌の4番にある。
 この部分がいかにも不可思議だった。
 ここには二つのことが書かれている。何とも奇妙な内容だ。
 この歌の中には雪女の呪いを解く方法が書かれているという。
 それは心からの愛を伝えることでできる、とある。
 雪女の呪いはそれで解けた。
 ところが呪いが解けたはずの雪女はまた山へ帰ったとある。
 なぜ呪いが解けた雪女がまた山へ戻る必要があるのだろう。雪女が呪いを解かれたときに戻るのはあの山ではない。天であるべきなのだ。御仏の元であるべきなのだ。
 この歌を読み解くと、心からの愛を伝えたにもかかわらず、結局呪いは解けていなかったことになる。だから雪女は山へ戻ったのだ。
 だが、もしこの歌が、この地を訪れて雪女を供養したという高僧が、事実を元に雪女の呪いを解く方法を暗示したのだとすると、答えはかすかに見えてくる。
 雪女の1000年の呪いを解く方法は、深い愛で彼女を包みこむことだ。ここは問題ない。
 お雪は、恨みや復讐のために呪われた雪女になって今もさまよっているのではない。
 彼女は1000年の呪いから救われたいと思っているに違いない。それだけの愛を欲しているのだ。
 しかし、その愛はもはや尋常なものでは、到底お雪の抱く心の闇に光を当てることはできない。
 自分の命を懸けて行わなければならない。
 しかもそれは最後の最後に、怒涛のごとく彼女の心に響くくらいのもので無ければならないだろう。
 死をもって救うという程度の愛でさえ、彼女を救うことはできないに違いない。
 この歌はそのことを教えているのだと私は思った。尋常な愛では雪女を救うことは不可能なのだ。
 だから心からの愛を伝えて呪いが溶けたと思ったはずの雪女は、再び山へ帰ったと歌っているのだ。山には何があるのか。いうまでもなくお雪の遺骨が眠る墓である。
 そここそは呪いの場所なのだ。
 もし本当に呪いが溶けたのならば、お雪は成仏し天へ昇るはずではないのか。山へ帰るはずがない。
 おそらく1000年の間には、この歌語りを読み解き、雪女を成仏させようと深い愛を捧げた人もいたはずだ。
 しかし、そのすべては失敗だった。誰一人として雪女の絶対0度の心と呪いを解き放つことはできなかったのだ。
それは私が経験したことからも明らかだ。
 雪女は事実私の前に出現した。
 この歌はそのことを示しているのだ。そして地の底の、はるか彼方にかすかに輝く光に触れる方法を暗示した。命を捨ててさえ無理なのだろう。しかし、その先に何かがあるのだ。できることの何かが。
 私はこの命を彼女に捧げることを躊躇しなかった。
 なぜなら雪子こそは私の命そのものだからだ。それほど深く私は彼女を愛していた。
 蓬莱雪という、1000年も昔に生きていた美しく可憐な女性は、恨みや怨念の権家と化し、今は無限の暗黒の中にいる。そこにかすかでもよい、光る何かを届けたい。そうすれば必ず彼女に救われる道が開かれるだろう。
 その決意をした日から私は準備を始めた。
 彼女は必ず助け出すことができると私は信じていた。
 あの日、9歳のあのとき、雪女がまだ小さかった私を殺さなかったのは、まだ彼女の心に、幼い命を奪うことを哀れに思う心が残っていたからだ。
 その幼い子を助けるために、彼女はわざわざ山小屋の人にまで助けを呼びに行っている。
 あれは雪子がしたことに間違いない。他に誰もいないのだから。
 私を朝まで眠らせて暖かくしてくれていたのも彼女に間違いないだろう。でなければ、火の消えたあの吹きさらしに近い極寒の小屋の中で、眠って一晩生きていられるはずがない。
 雪女の心は確かに恐ろしく深い闇に閉ざされてはいるけれど、その魂の深淵に残る琴線に触れることができれば、彼女を1000年の恐ろしい闇から救い出すことができるはずだ。
 その心が残っている。
 そしてそれが必ずできるという確信があった。
 私は祖父に雪女のことは隠して事情を話した。どうしても今は自分を癌で余命半年だと彼女に信じさせてほしいと。
もちろん医師としての倫理違反になるようなことは出来るはずはなく、すぐには引き受けてはもらえなかった。しかし私は説得した。私を信じて欲しいと。判断はそれからしてもらえればいい。私と祖父だけの秘密になるのだから。
 ある事情から本当に死ぬことになるかもしれないと。残された子供のことも頼んでおいた。9歳で私の子は孤児となってしまう。ひと芝居を打った今でも、祖父はよくわけが分からないままなのだろう。
「3日だけだ。3日たったら診断ミスとして本当のことを話す。それでいいな」
 と祖父はいった。私はそれでよい。1日あればいいのだから。祖父にはことの次第を伝える手紙を残しておいた。
 何と因果なことだろうか。私が孤児になったのもやはり9歳だった。

 私はお雪の墓を見つけてから1週間後に、リュックやカートなどを持って、再び羽衣高原の神城山を訪れた。
 お雪の墓を掘り、中から遺骨を掘り返した。
 お雪の墓の前には、私が飾った一輪のりんどうの花がまだきれいに咲いていた。
「こんな寂しいところに……こんな寂しいところに……1000年もの間、たった一人でいたなんて」
 私はまた泣いていた。
 遺骨を抱きしめて声を上げて泣いた。
 そしてすべての遺骨を拾い上げてそれをビニール袋に保存し、リュックに入れた。少し重かったけれど彼女の墓も布に包んで持ち帰った。これは持参した折りたたみ式のキャリーカートにくくりつけて運んだ。
 それを村岡家の墓に収めて弔った。
 今更この遺骨を役所に届けたところで意味はない。違法は承知の上だった。
 届けたところで無縁仏として始末されてしまうだろう。私はお雪の遺骨だけは誰にも渡したくはなかった。触らせたくもなかった。
 また、私は神ながら神社のあの老婆にあることを頼んだ。
 老婆には骨の折れることかもしれない。
 しかし、最後に雪女と相対することができるのはあの老婆しかいない。今でも私は、あの老婆は何者だったのかとふと思うことがある。
 あの神ながら村の老婆が本当に存在していたのかどうか、今では疑問に思うことさえある。そもそもあんな神社など存在していたのだろうか、と。
 私は今もまだ、あの雪女の胸の中で眠り続けて、長い夢を見ているのではないのだろうか。
 しかし今ではあの老婆を信じるしかない。
 あの老婆は、呪いと恨みの権化と化した蓬莱雪という可憐な女性を助けるために、あの神社に住み着いたお雪のお祖母ちゃんではなかったのだろうか。
 あの老婆もまた、愛する孫を救うために1000年もの間さまよっていたのではないのか。

 私はお雪を救うために、彼女に対してできるだけ衝撃を与えられる方法を考えた。
 それには自分の命を懸けるしかない。
 愛するものを守るためなら、愛するものを助けるためなら命は捨てる。
 その覚悟がなければ彼女の呪いを解き放つことは不可能だ。
 しかもそれは「その程度」のことでは駄目なのだ。ただ単に命をかけた程度のことでは。
 それをあの歌は教えてくれている。
 もっと、ずっと彼女の心の奥深くに響かなければならない。まさに魂の琴線に触れなければ、お雪の1000年の呪いを解き放つことは無理なのだ。
 私は自分が癌で余命半年だと彼女に告げたのは、残りのわずかな命を捧げると彼女に最初に思わせるためだった。
 しかしそれでは無限の暗黒から彼女を救うことは難しい。いや、その程度では絶対0度の雪女の心を救うことは不可能だろう。
 過去にも雪女の謎に挑戦し、命をかけて彼女を救おうとした人はいたのだろう。しかし命を捨ててさえ、彼女を1000年の呪いから救い出すことはできなかったのだ。
 けれども、彼女が私の命を吸い取ってしまったあとで、本当は、私は健康そのもので余命がずっと長かったとしたらどうだろうか、と私は考えてみた。
 幸い私は健康そのもので、精密検査を受けてもどこにも悪いところは発見されなかった。祖父からは、不慮の事故さえなければ、100歳まででも生きるだろうと太鼓判を押されたほど健康だった。DNA検査を含めた寿命診断は正確ではないが、ある程度の予測や可能性は見いだせる。
 残り70年ほどは、今まで私が生きてきた年月の2倍以上となる。
 その命を捨てて愛を伝えた人が余命半年とばかり思っていたら、本当は余命70年ほどもあるのだと知ったときの衝撃は、かなり大きいのではないだろうか。
 しかも、私自身もそのことを知っていたとしたら。
 少なくとも、あと自分は70年は生きられるが、お前のためにその命捨てよう、というより、余命半年だと信じていた人が本当はあと70年の余命があると知ったときのインパクトの方が、はるかに大きいだろう。これが、私が考えた最後の一打だった。
 これ以上に私には、1000年の呪いの底にいる雪女という恐ろしい存在に対して、命の重みと愛の深さを伝えられる方法が思いつかない。あの歌は雪女の心を溶かす方法がたった一つしかないことを伝えている。
 彼女に対して私が余命半年だと思わせた、本当は余命70年以上ということを知っていたという事実は、冷静にそればかりを考えれば説得力は色あせる。
 しかし、私の遺体を前にして、あと70年以上も生きられたという事実を知った時の衝撃は「余計なことを考える」ことを、はるかに凌駕するだろう。
 もう一つ、私には彼女の心に届けられるかもしれないものがあった。それは自分ではわからないのだが、女性からは良く言われていたことだ。
「あなたの瞳って、本当に澄んでいるのね。そんなにきれいな目をした人、見たことない」
 これは何度も言われたことがある。自分で鏡を見てもわからない。また、男には言われたことがない。しかし、女性からはよく言われた。
 目は心の窓、というが、本当に自分の目がそれほど澄んでいるのか分からない。
 ただ、私は幼い頃に私を助けてくれた雪女との約束通り、澄んだ生き方はしてきたつもりだった。その心を失わないように、いつも私の心には雪女との約束が存在していた。
 私は、この私の瞳を信じる。
 閉ざされた氷山の最深部に存在する暗黒に、わずかながらにでも光を与えることができれば、きっとお雪の心は溶けるはずである。
 最初の涙のひとしずくでよいのだ。
 私が死んだあと、彼女をそれほど愛していたと知ったとき、お雪に救われる道が開かれる。
 私はそれを信じる。

 私は、天が私にこのような使命を背負わせてくれたことに、深く感謝したいと思うのである。
 1000年の中でたった一人私だけが、心から愛した人を救える運命を背負って生まれたことに感謝したいと思うのである。
 なぜなら私はこの世の誰よりも、そしてこの世の何よりも深く、無限の大きさで彼女を愛しているからだ。
 彼女の何もかもを愛しているからだ。

 そして、
 永遠に私は雪子を愛し続けるのだから。

     
        ゆきおんな  完

#創作大賞2024 #ホラー小説部門 #雪女 #ゆきおんな #ホラー純文学

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