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ゆきおんな 第8話


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

  ゆ き お ん な 8
              8/11
           北川 陽一郎

    第四章

      りんどうの墓

          1

 老婆は棚から古い厚手の文書を取り出すと、それを私の前に置いた。
「この中に雪女に関することが書き残されている。正確には蓬莱村のお雪の物語だ」
「え! 蓬莱村のお雪……ですか?」
「ふんふん、お前さんは知っておろう。だが、重ねての忠告だ。今は何もいうではないぞ。わしには分かっておるからな」
「あ、はい。分かっております」
「蓬莱雪。それがお雪の本当の名前だ」
「蓬莱雪……」
 老婆は何もかもを知っているのだ。
 蓬莱村のお雪。正しくは蓬莱雪。
 私は愕然とした。妻の名前は蓬莱雪子である。
 雪子は本当はなんでもない、普通の女性だと思いたかった。この地へやって来たのも、本当は雪子と雪女とは何の関連もないということを信じたくて私はやって来たのだ。
 何も知らない方がよかった。
 そう感じ始めていた。
 老婆が出してきた古書の表紙は『神ながら村 史実と伝説』とかろうじて読むことができた。
「代々ここに伝わっている古文書での。昔は村の人間がこれを奪い取ろうとやって来たこともあると聞く」
「何か村にとって都合の悪いことが書かれているんですか」
「まあはるか1000年も昔のことだがな」
「長保3年……」
 やはり1000年の昔の物語なのだ。
「なぜこれを奪い取ろうとしていたのですか」
「お雪のことが、つまり雪女のことが書かれておるからだよ。蓬莱雪という女の悲しい物語さ」
 お雪、つまり雪女。それは蓬莱雪という女……
「雪女のことが書かれていると何かまずいことでも」
 そうとしか思えない。
 私は雪子が神ながら村の名前を出したときの悲しい顔を思い出した。
「雪女の由来こそがその答えだわ」
 私はそこに置かれた古文書を手にするとそっとページを開いてみた。
 虫食いの痕と変色した紙は、ぼろっと落ちてしまいそうだった。
 中に書かれている文字は私には容易に読むことができなかった。
「あれはなあ、もう今から1000年ほど昔のことになる、この神ながら村に美しい一人の女がやって来た。その女は自分が住んでいた蓬莱村を襲った災害からかろうじて生き延びて、ここを通りがかった」
 老婆が語った話と伝聞をまとめた古文書によれば、神ながら村に伝わる雪女の伝説は以下のようなものだった。

 長保3年、平安時代一条天皇の時代のことである。西暦でいえば1001年にあたる。
 藤原(ふじわらの)定子(ていし)(一条院皇后宮)に仕えたこの年に清少納言が枕草子を完成したとされている。この10年後に紫式部の源氏物語が完成している。
 神ながら村からおよそ半里、今でいえばおよそ2キロほど下った川の麓に、3~400軒ほどの家屋が寄り添うように集落を築いていた。集落は蓬莱村と呼ばれていた。そこからさらに川沿いに下ると鬼飛村とか大黒村などがあった。逆の方向へ行くと神ながら村があった。
 長保3年の早秋、平和なこの蓬莱村を未曾有の災害が襲った。
 秋の長雨はそれまでにも何度かあったが、川は村人によって堅牢な土手が築かれており、それがあふれることはなかった。
 しかし長保3年の秋に降り続いた雨だけは例外だった。雨は一向にやむ気配はなく、それどころかかつてないほど激しい雪崩のような雨となって、蓬莱村から下方の村に降り続いていた。
 農業だけを営んで来たこの平和な村には、およそ争いごとや犯罪めいたことなどありえようもなかった。故に、いにしえにその村が蓬莱村と呼ばれることになった、と記されている。
 古文書には蓬莱人気質という注意書きがあって、村人の性質は穏やかで正直、お人好しが多かったとも書かれている。古い時代に、お人好しやおおらかな人のことを「蓬莱様」と呼ぶ慣わしがあったそうで、それはこの村から来ている旨が書かれている。
 若いからという理由だけで村を出て都を夢見るものなど滅多にいなかった。それに都はここからはあまりに遠すぎた。都の話などほとんど聞かない場所だ。
 この村にお雪という美しい一人の女がいた。蓬莱雪のことである。
 お雪はこの伝承では当時年の頃19歳とある。
 お雪の家族は両親と祖母。祖母は100歳は越しているだろう父親方の母だったが、詳しい年齢は分かっていない。姉はすでに遠く開田村へ嫁いでいた。
 雪子は姉のことは何もいってはいなかった。
 このあたりは記録というよりも多分に伝聞が脚色されているように思えた。
 古い記録と伝承のため、蓬莱村のどこの家に生まれたかなどの詳細までは分からない。
 お雪の名前だけは、神ながら村の忌まわしい伝説にかかわるためその名が刻まれたのであろう。
 おそらくは後年、神ながら村でのお雪の悲劇を知った人が、心ある村人などから聞いた話を残したのではないだろうか。
 この集落は降り続いた雨によりあっという間に決壊した雑魚川(ざこがわ)の、怒涛のような奔流に襲われて壊滅状態となった。生き延びたのはわずかに数名に過ぎなかった。
 その中の一人がお雪とされている。
 お雪はたまたまその日、神ながら村とは反対側にある隣村へ行っていて難を逃れた。
 ここは雪子から聞いた話とは少し違っていた。雪子は墓がある場所へ行っていて難を逃れたという。たぶん雪子の話が正しいのだろう。
 決壊した土手は怒り狂った龍神のようにあっという間に押し寄せて、村人が逃げる間もなくすべての家屋を押し潰して流した。
 これは生き延びた蓬莱村の人が後に語り伝えた話が元になっている、とある。
 村そのもののすべてが失われた蓬莱村はその後、日本からは永遠にその姿を消した。もはや復活させるような土壌も力もなく、人もいなかった。生き残った数名ではもはやなすすべがなかったのだろう。
 瓦礫の山と化した集落は、どこに何があるのかさえ分からなくなっていた。
 お雪にはもはやどうしようもない状況だったことが伺える。
「お雪という人の一家は全滅してしまったんですね? 両親とも」
「ふん、お雪の父は飲んだくれでどうしようもない男だったわ。お雪が10才になる前に家を出たまま帰らなかったから、どこぞの女の家でも入り込んだか、のたれ死んだかだろうて。ふん、男はほんとどうしようもないやつばかりだわ!」
 そのような伝聞が記されているのだろうか。私はうなだれるしかなかった。
「母親はどうしたんでしょうか?」
「その前に腐った亭主から逃げるため、どこぞの男と駆け落ちしたようだわ。ふん!どいつもこいつも揃ってできの悪いやつらばかりだわ」
 私は言葉を失った。伝説に残るお雪は幼くして大変な苦労を抱え込んでいたのだ。
「お雪は祖母に育てられた」
「お祖母ちゃんがいたんですね。よかった。婆さんがいてよかったですね」
「そうだな。お雪はお祖母ちゃん子だったからな」
「お婆ちゃんはなぜそんなにお詳しいんですか?」
「ふん、わしは何でも知っておる」
 確か雪子は父や母は洪水の時に死んだと言っていた。もしも同一人物だとしたら、両親にかかわる真実を話せなかったのだろう。話す必要もないことだ。
 結局、後日隣村から来た人たちの力を借りて、できるだけの遺体を埋めるのが精一杯だった。
 住む家も家族も、何もかもを失ったお雪は開田村にいる姉を頼った。開田村へ行くためには川沿いにしばらく行って山間へ入り、途中で神ながら村を通過することになる。そこまではおよそ半里。神ながら村からさらにおよそ3里の距離に、お雪の姉が嫁いでいる開田村があった。そこの農家に姉はいた。
 住む所もなくなってしまったお雪は、いったんその姉を頼ろうとして姉のいる開田村を目指した。
 神ながら村へ差し掛かった所でお雪は突然激しい雨に襲われた。
 このまま一気に姉のいる村まで行こうとしていたお雪だったが、激しい雨は行く手をさえぎり、神ながら村の外れにある小屋へ避難した。小屋は無人でかなりしっかりとした作りになっていたようだ。村人が切り出した薪や藁などを置いておくための小屋だった。そのため堅牢な作りになっていたのだろう。少しの間くらいならここに住めるようにもなっていた。
 お雪が中で雨の止むのを待っていると、そこへ村の男衆が3人、急ぎ足で中へ入って来た。
 男たちは小屋の中に雨宿りをしている美しい女が、隣村のお雪であることを知っていた。この地域一帯では知らないものがいないほどの美人として評判の娘だったからだ。
 最初は村を襲った洪水の話などをしていたが、そのうち男衆は着物の陰から覗くお雪のまっ白な柔肌に欲情して共謀して襲い掛かり、代わる代わるお雪を蹂躙した。
 村はずれの小屋からは、泣き叫ぶお雪の声がどこかに届くはずもなかった。声が届いたところで誰か助けるものがいたかどうかも疑わしい。
 男たちは散々お雪を弄ぶと、このままにしておくのはもったいないと思ったのか、あるいは自分たちの悪さが表ざたになることを恐れたのか、小屋の中にそのまま閉じ込めて外から鍵をかけ、出られないようにした。
 この小屋は男たちの中の一人の持ち物だったのだ。物置として使っていた村はずれの小屋に、誰も訪れるものはなかった。
 お雪は閉じ込められたまま何とか外に出ようとしたが、女の細腕では堅牢な小屋から出ることができなかった。そうしておいて男たちは毎日のようにやって来てはお雪を蹂躙した。
 黙っていても村の男たちの間でこの話が広がり、村のたくさんの男たちがやって来てはお雪を弄ぶようになった。村の誰もが、これほど美しい女を抱けるという欲望に逆らうことができなかった、と記録にはある。このあたりは誇張されているようにも感じる。本当かどうかはわからない。
 しかし実際にはあまり芳しくない人間の質が、この村の特質として伝承されている。
 陰陽あい半ば、とはよく言ったものだ。蓬莱様に対してこの村は「ながら鬼」といわれ、それは極めて否定的な意味で使われている。「神ながら」実は「鬼神様」とでもいうところだ。この記録によれば悪さを働く人のことを「ながら鬼」と呼んでいた、とある。
 この「ながら」とは神ながら村から取った名称だろう。「ながら」そのものに意味があるのではなく、悪意のある村を象徴的に呼び習わしたのだ。
 昔話では、正直爺さんの隣には、必ず欲張り爺さんや嘘つき爺さんが住んでいるようなものだ。伝承であるため、かなり脚色されている可能性もあり、これらの記録がどこまでが真実かはわからない。
 出してもらえないまま、神ながら村の男たちの餌食にしかならないことを悟ったお雪は、次第に精神のバランスを崩していった。
 しかし、その精神の狭間で、わずかに自分を取り戻す一瞬があったのだろう。お雪はそれからまもなく、小屋の中で首を吊って自害した。
 外には忍び寄ってきた冬の雪が舞い落ちていた。
 お雪をさんざん蹂躙した村の男たちは、彼女の遺体をなるべく遠くへ捨てたいと思ったのだろう、吊り橋を渡った人のいない場所へ埋めた。
 そこには小さな小屋が建てられていたが、それは昔、吊り橋を架けるときに造られたものらしかった。今では誰も人がいるわけではなかった。
 その小屋の裏にお雪の遺体を埋めた。
 その後吊り橋を落として、以来2度とその谷に吊り橋が架けられることはなかった。村人にとっては吊り橋を渡って行くような用もなく、何かの役に立っているような場所でもなかった、とある。それは主に旅人の通路となっていたようだ。
 村人が吊り橋を落としたのは、蹂躙を重ねたあげく死に追いやったお雪の怨念が、橋を渡って来るかもしれないという恐怖感からであろう。
 それからこの村に怪異が起きるようになった。
 お雪の亡霊が夜な夜なこの首を吊った小屋の中で忍び泣いているとか、夜中に村を徘徊しているとか、あるいは具体的にお雪の幽霊を「見た」というものまで現れた。
 お雪の遺体を埋めたあの谷の向こうに、お雪が佇んでじっと神ながら村を見つめているのを見たという者まで現れた。
 女の歌う悲しい「かごめの歌」が聞こえると、それはお雪が歌っているとの噂もあったらしい。

 かごめかごめ
 籠の中の鳥は
 いついつ出やる
 夜明けの晩に
 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?

 意味の分からない歌だが、自分たちの犯した罪の深さに戦慄した村人は怯えて、この歌を聴くとまもなく不審な死を遂げるという噂も出始めた。このあたりの話は創作がかなり混ざっているように思える。
 カゴメ歌は江戸末期から明治期に成立したといわれているが、実は原型は千数百年以前から伝わっていて、女性の恨みの歌ともいわれている。
 いずれにしてもお雪を弄んだ神ながら村の男衆は呪われた。その数は30人以上にも及ぶとされる。
「30人……」
 私は絶句した。
 なんということだ。
 30人で代わる代わるお雪を蹂躙したのか。誰一人助けようとは思わなかったのか。哀れに思わなかったのか。
「必ずしも史実ではないかもしれないが」
 と私はつぶやいていた。
 この伝承が本物なら、雪女の伝説と同じように「かごめ歌」は、あるいはこの神ながら村にその原型があるのかもしれない。それともやはり伝承自体が後年の作り事かもしれない。
 このことを知った村の女たちは男衆に卒塔婆を建てて経文をあげ、供養してくるように責め立てた。結局、男衆は、架け橋はもうないため、はるばる川を下って小船で渡ってからお雪を埋めた場所へ行き、卒塔婆を建てた。
 しかしそれでも、亡霊はお雪を弄んだ男たちの間で頻繁に目撃されるようになり、お雪を蹂躙した男たちは次々と不審な死を遂げた。
 言い伝えでは、お雪はそれから強固な怨念の塊となった雪女となって、その場所へ来る男たちを次々と憑り殺して、今も男という生き物に対する復讐を遂げているのだという。

          2

「なんてことだ」
 聞くに堪えない話だった。
「ふん、男なんてものはろくなもんじゃないのお。バカタレどもが」
 老婆が履き捨てた。
「すいません」
 となぜか私は謝っていた。
「この話は本当のことなんでしょうか」
 と私は老婆に尋ねた。
「本当のことさ」
 老婆は確信をもってそういう。
「ただ、1000年も昔のことですし、言い伝えの根幹に多少の真実はあっても、かなり歪められて誇張されて伝承されたということはありませんかね」
「ふんふん。そんなことはありゃせんわ、この話に限ってはのお。細かいことまでは分からんが、根本の部分は変わらんわい!」
「雪女の話は日本の色んな地域にあるそうですが、その由来まで語っているのは、この話以外にはないように思います」
「そりゃそうだろうよ。神ながら村の雪女の話だけは事実だからのお」
「そこなんですよ。日本全国の雪女の話は、ひょっとしたらこの神ながら村に伝わる伝承が広がったのかもしれません。だから雪女の由来は話が長くなるのでそれは伝えられず、怪談としての雪女の話だけが全国へ伝えられたんじゃないでしょうか」
「たわけ!」
 と老婆が語気を少し強めて言ったとき、私は思わず背筋をピンと伸ばしていた。
「話が伝わるならむしろ尾ひれがついて伝わるもんだわい。あれこれ大げさにしてな」
「それもそうですね」
 私は妙に納得していた。
 男に対する果てしない恨みと復讐の念が雪女を産んだか。
「この神ながら村に伝わる雪女伝説は、村のもんがひそひそと口伝で伝えてきていたが、絶対に外へは洩らさないようしてきた。村全体の忌まわしい過去だからのお」
 それでひた隠しに隠し続けてきた……。
 あの畑で話した村人が自分の口からは何もいわなかったのも、今なら分かるような気がした。数少ない村の人口だ。すべてが自分たちの先祖へとつながっていってしまう。
「お雪はあまりにも哀れだて。かわいそうな女だわ。今でも雪女となって男への復讐の怨念と化して、恨みに満ちてさまよい続けておる。1000年もの間、呪われたままのお」
 老婆はそういうとまたズズズズーっとゆっくりと茶をすすった。私も釣られて同じような音を立てて茶を飲んでから、これでは女の子に嫌われるな、と思った。
「もしそれが本当のことであったとすると、私も村人たちを許せません」
 あの美しい雪子の過去。彼女は本当に1000年もの間さまよい続けてきた呪われた雪女なのだろうか。
 まさかな。
 と思う。
「ひゃっひゃっひゃ」
 と老婆はまた不気味な笑い声を出した。ごくりとつばを飲み込んだ私に向かっていった。
「気になるか」
 この老婆は雪子のことを知っているのではないだろうか。
 しかし私は彼女の話をするつもりはなかった。雪女との約束を破るときは私が死ぬときだ。今では私は本当にそのことだけは信じるようになっていた。
「それ以上は今は聞くまい。で、お前さんはこれからどうするつもりかな、ん?」
 何をいっていいものかもよく分からなかった。
「雪女の歌というのがある」
 私が黙りこくっていると、突然老婆は私にそういった。
「雪女の歌? どんな歌なんです?」
 そういえばさっきあの村人に聞いた。雪女の歌語りがあると。
「よー聞いておけ」
 と私に注意してから、老婆は青森県のイタコのような感じで歌を歌いだした。

    雪女の歌

1.むかしむかしのそのむかし

  きれいな女がおったとさ

  女がお家に泊まったら

  男たちが奪い合い

  みんなで女を愛でたとさ

  愛でたとさ

2.むかしむかしのそのむかし

  きれいな女がおったとさ

  ある日かごの中の鳥になり

  雪の降る日に首つった

  そしたら男が死んだとさ

  死んだとさ

3.むかしむかしのそのむかし

  一人の若者やって来て

  黄泉の女に愛をさしあぐ

  無常なるかな雪女

  それで呪いが解けたとさ

  解けたとさ

4.むかしむかしのそのむかし

  朝事夕事恨み侘び

  呪いが解けた雪女

  雪の降る日にお山へ帰った

  お山へ帰った

 何とも奇妙な歌語りだった。
 何かの隠喩を込めたような歌だ。
 意味も今一つよく分からない。

「この歌はいったいどこの誰が作ったのでしょうか」
「これはな、この地を大昔に訪れた偉い坊さんが残したといわれておる」
「お坊さんが」
 老婆はこくりと頷くと、
「この話を誰かから耳にしたんだろうて。言い伝えではお雪が首を吊った小屋のあった場所で、供養のための読経を100日間行ったとある」
「その小屋はそのときはもうなかったのですか」
「そんな忌まわしいことをした小屋だからな。幽霊の噂が出てからすぐに取り壊してしまったそうだわ。ながら鬼の浅はかな男どもめが!」
「すみませんでした」
 老婆に叱られているようで、私は恐縮していた。
「お雪が埋めれらたという場所へは行かなかったんですね」
 あの場所に間違いない。
「吊り橋さえ壊して2度と行けなくしてしまったんだからのお、腐りきっておるわ、性根が。憑り殺されて当然だわ! ふん! 男なんちゅうもんは害虫と一緒だわい。世の中にいらんわ!」
「ほんとにすみません」
 謝らなければいけないような気がしていた。
「神ながら村の男どもが憑り殺されようがどうしようが、そんなもんは自業自得だわい」
老婆はそうはき捨てると、またズズッと茶をすすった。
 と思ったら老婆は洟をすすっていた。皺だらけの老婆の目に、きらりと光るものを見たように思う。
「ほんに、かわいそうにのお。お雪はのお。生娘じゃったに」
 この当時の19歳の村の娘なら、みな穢れを知らない無垢な生き方をしていたのだろう。
 私が雪女と遭遇したあの突きあたりにあった谷の向こう側まで、1000年前は吊り橋が架けられていたのだ。数十メートルから100メートルくらいの幅があっただろうか。
「その歌はのお。100日間の供養をしたその偉い坊さんが残したものらしいが、その中には雪女の呪いを解く方法が書かれているらしいんだがな」
「呪いを解く方法、ですか」
「400年前にわしの所へやって来たあの男も、その謎は解けなんだ。誰よりも強い愛があると熱っぽく語っていたが、それをわざわざわしに伝えることで愛の大きさをお雪に伝え、呪いを解こうとしたのだろうがな」
 それから老婆は顔をぐいっと私の方に寄せてきた。そして、いった。
「そうだ。お雪は今も恐ろしい呪いの中にいる、1000年もの間のお。お前さんのようなたわけにこの謎が分かるかのお。ひゃっひゃっひゃ」
 この歌が奇妙な歌だということは分かる。
 しかしこの中に歌われている、呪いを解く方法といえば、3番目に書いてある通りではないのだろうか。
 愛を伝えれば呪いは解けたとあるではないか。それをそのまま伝えると、老婆は、
「ふん、だからお前はたわけというんだわい」
「はあ」
 私には老婆の言葉の意味が分からなかった。
「ではどういう意味が隠されているというんです?」
 すると言下にこんな返事が返ってきた。
「たわけ!」
 私はまたも思わず背筋が伸びきっていた。
「少しは自分の頭で考えんかい。分からなければ雪女の呪いなど到底解けやせんわい」
 この婆さんはいったい何者なのだろうかと、ふと私は思った。ただの古びた社の宮司とは思えなかった。
 いったいこの婆さんは何年生きて来たのだろう。
 じっと老婆を見ていると、どこか超常的世界へ引き込まれてしまいそうな恐ろしい予感があった。皺だらけの中に見開かれる小さな目は、らんらんと輝きを放ち、まるで龍神の目のようだった。それは人を一瞬で射すくめてしまうかのような、底の知れない眼差しだった。
「なんじゃ。何をそんなにじろじろ見ておる。たわけめ。わしに惚れたか? ん? ひゃっひゃっひゃ」
 そういうと老婆はまたズズーっと茶をすすった。
 私はどこかほっとするものを感じて笑った。
「面白いお婆ちゃんですね」
 本当に不思議な婆さんだ。こちらの思いを読み取って、張りつめた糸を一瞬で断ち切って現実へ戻してしまう。
 私は気になっていたことを尋ねてみた。
「お雪という女性は、雪女となって今もこの山の中を彷徨(さまよ)っているのだと思いますか」
 老婆は目を伏せた。
 その皺だらけの顔には、悲しみとも困惑ともつかない表情が表れているようだった。
 しばらくの沈黙の後で、老婆は囁くように声を出した。悲しみに満ちた表情が浮かんでいた。
「今も彷徨っておる。知っておろう、お前さんは」
「え?」
 やっぱり何もかも知っているのではないだろうか。だがそれは口が裂けてもいえないことだった。
「何もいわんでええ。ひゃっひゃっひゃ。のう、たわけよ」
 老婆はまた茶をすすって、それからもう一度湯飲みに茶を注いだ。
「お前の人生はお前のものだわな。そのまま平和に自分の人生を終えるのもよい。だがのお、これだけはいうておく。お雪は復讐や怨みつらみのためにさ迷うておるのではない。誰かに救われたいと、それだけを願っている。だがそれはほとんど不可能に近い。あの子の抱えた心の闇は恐ろしく深い。だからこそ、1000年もの間、呪われたままなんだろうて」
 愛を伝えるだけでは救えない……。
「お婆ちゃん、あなたは一体……」

         3

 私はいったん名古屋へ戻った。
「お帰り」
 と私を迎えてくれる雪子を私は玄関で抱き寄せた。
 今でも彼女は私が外出から帰ると、こうして玄関まで迎えに出てきてくれる。そこで「ただいま」といって雪子を抱き寄せるのが日課になっていた。私は毎日でも雪子を抱きしめたかった。
 その日も同じように抱きしめた。
 この感触は人間以外のなにものでもない。抱き寄せたときの、しなやかな体や柔らかな胸のふくらみは、この世の極楽を感じさせてくれる。
 いくらなんだって俺もどうかしている。雪子が雪女だなんて。
「どうかしたの? あなた」
 そういって私を見つめて笑顔を浮かべる雪子は、私のことなど何も疑っているようには見えなかった。もし彼女があのときの雪女なら、何もかもお見通しだろう。
「パパ、お帰りー」
 一人息子もこうしてここに存在している。これが現実なのだ。
「ただいまー」
 私は一郎を抱き寄せた。これは紛れもなく人間そのものの子じゃないか。
「あ、いや。お腹がすいたな。早く晩御飯が食べたい」
「用意してあるわよ」
 ぼくはいったい何を考えているんだろう。と思った。
 私は雪子が雪女ではないという証拠を探しに行ったつもりだった。しかし、結果はまるで逆になってしまった。何かもが彼女を雪女へと結びつけて行ってしまった。
 雪子の作る料理は野菜中心の家庭料理が多かった。それはどこか郷愁を誘うような独特の匂いや味があった。その多くは味噌の匂いだったような気がする。
 信州料理は味噌との関わりが多い。大根を味噌で漬けた大根の味噌漬けは独特の味と匂いがあり、おにぎりや茶漬けにすると物凄くおいしい。雪子と出会う前には、一度も味わったことがなく、それには独特のうまさがあった。彼女と一緒に暮らし始めて、私は初めてそのうまさを知った。
 また、私が一番好きだったのは「おやき」といわれている信州の郷土料理だった。小麦粉と蕎麦粉で作った饅頭のような皮に、信州名物の野沢菜漬やきのこ、大根の切り身、茄子、かぼちゃ、くるみ、そして信州味噌など色んな具が入っている。これがすごくおいしかった。
 また同じ皮に小豆の餡を入れて包んで蒸したおやきはとてもうまくて、一郎も大好きな食べ物だった。
 それらの料理は古き良き日本を感じさせた。
 1000年の昔にも、彼女はこれを作っていたのだろうか。
 ふと、そんなことを考えている自分がいた。
 食事をしながら私は彼女を見つめた。
「雪子はいつまでたっても本当に皺一つ出来ないな」
「若くてきれいなままの方がいいでしょ?」
「そうだな。ぶんぶく茶釜みたいになったり老け込んだりしたら、ちょっと寂しい思いするよね」
「こう見えても私も色々と気を使っているし」
 そういえばアルカリイオン水は老化予防の抗酸化作用があって美肌効果もある、とかいって毎日飲んでいるし、サプリもいろいろあった。アスタキサンチンはアンチエイジングには必携だとか、呆け予防にもいいからあなたも飲むといいわねとかいっていたことがあった。クルミもいいそうだ。今どきの女の子ではないか。
 それはカモフラージュではないのか。とふと思う。
 料理はどこか田舎や昔のことを思い起こさせるが、彼女のこの毎日の努力も現代の女性そのものではないか。極めて近代的な努力で、この彼女のどこに1000年の昔を思わせるようなものがあるというのか。
 では蓬莱村のことや神ながら村でのことはどのように説明できるのだろうか。
 ひょっとしてお雪は身ごもっていて、小屋の中で子供を産んだ。その1000年後の子孫が今目の前に居る雪子ではないのか。
 そんなことを思ってみたりもする。
 私はあの蓬莱村のことや神ながら村のことを話すつもりはなかった。それは必然的に雪女のことを話すことになる。
 ここにいて私と生活しているのは現代の雪子という女性であり、私の愛する妻であり、その肉体も何もかもが普通の女性であった。雪女などありえるはずがない。
 その証明のため、私はもう一度どうしてもあの小屋のあった場所へ行かなければならないと考えていた。

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