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ゆきおんな 第4話


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

  ゆ き お ん な 4
            
           北川 陽一郎

 ひと滑りした私は、またリフトに乗って一番上まで行ってみた。
 このゲレンデの途中からは、隣の蕪池スキー場や森上スキー場まで行くことができる。
 あの9歳の頃に迷い込んだ道で今の私が覚えているのは、この羽衣ジャイアントスキー場や天人高原スキー場などのような広いゲレンデをリフトで登ったこと。そのあたりに広いスロープがあって、ロープが左右の端に垂れていたことだ。
 ロープは雪の重みでたわんでいて、おまけに真ん中あたりは急激に降り積もった雪に隠れていた。
 そこを過ぎて降りて行った。
 その道は、入り口は広くて、緩やかな斜面を降りて行くと次第に道は細くなり、曲がりくねった細い変化に富んだ道になっていた。
 さっき滑ってきた西立山スキー場裏側の初級~中級コースのような感じだったが、私たちが迷い込んだあのコースもかなり長かった。2キロくらいあったのではないだろうか。いやもっとあったかもしれない。
 私たちが迷い込んだ道は、途中で分かれ道があった。父親の口から2キロ以上ということを聞いたようにも思う。
 私はレストハウスを出るとリフトに乗って、羽衣ジャイアントスキー場の頂上まで登った。そのまま相生山方面へ向かった。
 相生山はそのままジャイアントの反対側へ降りて、その向こうに広がっている。スキーの案内地図で見ると、相生山のゲレンデの数はそれほど多くはなかった。
 相生山のゲレンデは、下から見ると末広がりに上の方がかなり細くなっている。
 私はそのまま3人乗りのリフトに乗った。人気のコースなのかどうか分からないけれど、かなりの人が滑っていた。リフトには人がかなり並んでいた。
 私の隣に女性が二人乗った。ちらりと見ると若そうだった。ゴーグルをかぶっているため良く分からない。二人は知り合いなのだろう。何か話している。もっともスキー場へ一人で来るような女性などいないのだろう。
 男でも一人でスキーに行くという人など、いないに違いない。もしいたとしても地元の人くらいだろう。
「寒くなって来たね」
「晴れればいいのにね」
「晴れると日差しが強くなって日焼けとかさあ雪焼け防止が大変じゃんね」
「それもそうよね。これくらいがいいかもね」
 話している声が聞こえてきた。
 もう一度それとなく横を見ると、化粧がかなり強い。雪焼けを防ぐためなのだろう。
 どんな顔しているのかな。
 となんか気になった。
 厚いスキー服とはいえ、座っている腰から尻にかけて隣の女性と触れ合っている。空いているときであれば、ひとり乗りもあるが、混んでいるときはひとり乗りになることはまずない。
 できればこのままずっと乗っていたいと思ったが、無情にもリフトは最終地点へ入って行った。降りなければならない。
「やだ、こんなに凄い坂なんて思わなかった」
「ほんとね。降りられないじゃんね」
 さっきの女性たちのそんな会話が聞こえてきた。しかし、こういうところでは、リフト係がきちんとリフトから安全に降りられるようにリフトを補助してくれる。
「さあ、行こうぜ」
 との後ろから乗って来ていた男がその女性にいうのが見えた。グループで来ているようで何人かが合流していた。
「なんだ、男と一緒か」
 何となくがっかりして私はその場を離れた。
 ナンパなどしたことも無い私にはどうせ声はかけられないが、何となく近くにいたいとふと思う自分がおかしかった。
 今まで女性とまともに付き合ったことは無かった。
 9歳のときのあの経験はあまりに強烈だったのかもしれない。加えて孤児となった私は、祖父母の元でつつましい生活を送ってきたのだ。
 友人同士の会話では「もてる男は辛い」などといって笑って煙に巻いてはいたが、実際に女性にもてたことは無かった。
 女性と話をする機会があれば、機知に富んだ会話で笑わせる自信はあったが、そういう機会もほとんど無かったのが実情だったのだ。
 そしてそれよりもはるかに、私には心に思うことがあったのだ。
 あの9歳のときに見た、この世のものとは思えぬほど美しく妖しい白い女。
 私を見てにっこりと笑い、私を助けてくれたあの真っ白な女が例え私の空想だったのだとしても、私はあの瞬間彼女に子供心にも恋したのかもしれなかった。
 しかし、その映像はもはや記憶の片隅へと押しやられ、美化されたあやふやなものになって来ていた。
 この世のものとも思えぬほど美しいと思ってはいても、その顔ははっきりとは思い出せなかった。ただ美しいという鮮烈な印象だけが残っている。父親の異様な死に様や、極寒の山小屋でのありえない出来事を、それは凌駕していた。
 考えてみればそれはとても不思議なことだ。子供の純粋な心が彼女に対する余計な思いを排除していたのだと思う。
 私と雪女との約束は二人だけの秘密なのだ。
 この世でたった二人だけが共有している秘密。あの美しい女性とつながっている唯一の秘密が、私の子供の時からの宝物であったのだ。
 リフトから10メートルほど滑り降りるとゲレンデが目前に広がるようになる。その場所から横へ伸びる細い道があった。私はポケットから地図を取り出した。
 細い道にはスキー板の跡もついていて、そっちへ行くと森上スキー場の方へ行くようだった。
 上から見てみると、相生山スキー場の上の方はかなりの急な坂に思える。
 相生山の広いゲレンデと反対側に、幅の狭い入り口が見えた。しかしそこには2重にロープが張られているのが見えた。
 その向こうは深い森に覆われていた。
 ロープの真ん中に立てかけられているアルミ製の板が見えた。「立ち入り禁止」「この先行き止まり」と赤く書かれている。その入り口は狭くわずか10メートルほどしか幅が無かった。
「こことは違うな」
 と私は独り言をいっていた。
 道は真っ直ぐに降りていてその先は下へカーブを描くように見えなかった。
 記憶にあるあの禁断のコースは入り口がもっと幅が広くて、数十メールほど先が左へカーブしていたように思う。しかしもう10年も前の、しかも子供の頃のあいまいな記憶に過ぎなかった。
 私は確かめてみようと思って、後ろを気にしながら誰も見ていないときを見計らってロープをくぐってみた。少しだけ降りてこの先を確かめてみようと思った。
 しかし、少し降りただけでここは完全に違うことが分かった。
 見えなかった部分は行き止まりになっていて、そこは深い森の中へと通じているだけだった。森と森の間にかなり細い隙間のような道があるにはあるが、それはまっすぐに降りていてその先は見えなかった。
 この部分は普通に言えば、緩やかな斜面の広場程度のものだったのだ。ゲレンデを紹介してある地図だけでは、行って見なければそこまでのことは分からない。ホテルのフロントマンはこの細い隙間も道と見ているのだろう。
「すると奥羽衣の方かな」
 そうつぶやきながら私は今滑って来た方を見た。
 上から見るとそれほどでもなかったが、下から見るとかなりの急な坂になっていた。
 私はスキー板を横にして少しずつ上がったが、途中で板を外して登った。
 明日奥羽衣まで行ってみよう。
 神城山かもしれない。

      5

 翌日も朝から曇り空だった。
 そして寒かった。
 私は一の松山の神スキー場まで車で行こうと思っていたが、結局は滑って行くことにした。
 その方が色々な場所を見て回ることもできるだろう。
 一の松山ノ神スキー場は天人高原スキー場から行けば簡単に行けるのだ。スキー場同士がつながるように緩斜面の道が往復作られているので、車で行くよりははるかに便利がいい。
 そこまで行けば雪沢山があり、その北東斜面が奥羽衣高原となっている。
 そこからのダウンヒルコースは3キロほどもある。
 スキー場の案内図を見ると奥まったその一角に神城山がある。そこにゲレンデの数は表側に2つくらいしかない。
 雪沢山の麓から見るとたくさんスキー場があるのが分かる。
 リフトが無数に張り巡らされているのが見えた。
 私はまず近くのレストハウスで暖かいコーヒーを飲んだ。
 コーヒーは大好きで、自宅では豆を買って来てコーヒーメーカーで毎日飲んでいる。子供の頃はコーヒーという飲み物は香りほどおいしくは無いと思ったものだが、今ではあのはかない琥珀色の飲み物は香りに負けないくらいうまいと思っている。コーヒーと日本茶は欠かせない飲み物だった。
 天気が悪いせいかそれほど客は多くは無いように見えた。ゲレンデへ行ってみるとかなり広いスキー場だった。
 私はまずひと滑りしようと標高2000メートル以上ある雪沢山の頂上までゴンドラリフトに乗った。天気の悪いこの日、同じゴンドラに乗った人はいなかった。みな何人かのグループで同じゴンドラに乗りたいのだろう。混んでいないときはこんなものだ。
 2キロほどの長いリフトだったが7分ほどで登って行った。
 雪沢山の羽衣高原側にある長いダウンヒルコースを一気に滑り降りた。
 雪質もよくスキーの乗りがよかった。
 というほどうまくは無いが、何となく滑りやすかった。さすがにオリンピックやアルペンスキー大会が開催されるだけのことはあるなとふと思った。
 私はまたゴンドラリフトに乗った。
 今度も誰も一緒にならなかった。
 頂上で降りるとさっきとは反対側へ私は行った。
 その向こうに神城山がある。
 少し滑って行くとまず奥羽衣のダウンヒルコースがあった。
 そういえばあのときはカプセル型のゴンドラに乗ったことを思い出した。しかしそれがどこだったかはまでは覚えてはいない。
 地図で見ると、ゴンドラリフトは天人高原スキー場隣の東立山スキー場に一台と、あとはこの奥羽衣に何台かあるだけだった。
 10年前の記憶にあるゴンドラリフトはここで乗ったものかもしれない。
 ただし、それがあの山小屋のある場所の近くだったかどうかは分からなかった。
 頂上の辺りへ行って見ると、ほんの少し下った所から少し高くなっている場所があった。勢いをつけて行けばそのまま登れる程度の所だった。山が2つということではない。
 地図ではそのあたりが神城山とある。神城山と雪沢山とはこの地域の人にとっての名称の違いだけではないのか。
 神城山というのは山そのものではなく、この小高くなった場所からその裏側だけを指し示しているようだったからだ。
 私はその場所まで行って、かなり広い幅のある場所にロープが張ってあるのを見た。
 立て札が2本立てられていた。
「この先行き止まり」「進入禁止」とそれぞれに大きく書かれていた。
「この場所……」
 と思った私の目の先に白いものが動くのが見えた。
 見るとその進入禁止の向こうに、白い帽子に真っ白なスキー服を着た人が滑り降りて行くのが見えた。その姿は緩やかに下って行って左へ曲がって消えた。
 女性に見えた。
 危ない。
 私は急いで縄を潜り抜けて降りて行った。
「おい、そっちは行き止まりだって書いてあるぞー!」
 という声が聞こえた。
 私は振り向いて、「今人が行ってしまった。呼び戻して来ます!」
 と返事をして先を急いだ。
 左へカーブすると道は次第に細くなっていた。西立山の初級~中級コースみたいに、変化に富んだ曲がりくねった道が続いていた。
 しかし、いくら滑っても女性らしき人の姿は見えなかった。
「あれ、追いつかないな。そんなに早かったかな」
 いったん止まって後ろを見てみた。
 しかし隠れるようなところもない。両側には雪に包みこまれるように伸びている森があるに過ぎない。少なくとも人が滑って行くような隙間では無い茂みが続いていた。それに道の両側は、すり鉢状に2メートル近く上がっているのだ。滑って入ることができない。
 戻ってくれば必ず会うはずだった。
 この2日間は曇り空で、雪がアイスバーンとまではいかないが、かなり固くなっているせいか、スキーで滑った跡が無かった。
 振り向いてみると、今自分が滑って来たところはかすかにスキーの跡がついていた。
 体重のせいかな。女の子のようだったし。
 と私は思った。
 急いで滑って行ったのかもしれない。
 止まらずに行けばかなり先へ行ってしまっているだろう。
 私はそのまま滑り降りて行った。帰りのことは頭の中に無かった。
 1キロ以上滑っただろうか、道が二手に分かれていたが、右のかなり下に白い服が見えた。
 ああ、やっと追いついたんだ、と思った私は、
「おーい!」
 と声を限りに叫んだが、声が届くことは無かった。白い服は再び私の視界から消えた。
 この道は10年前のあの道ではないのか。
 私はそう思い始めていた。
 記憶の底からあの雪女が蘇って来るようだった。
 とにかく今はあの女性をこのままにはしておけない。10年前のあの道なら行き止まりになる。
 ただ、その確信までは無かった。あいまいな記憶の断片があるにすぎない。
 そもそもあんなことが本当にあったのかと、今では疑問に思うことさえあるのだ。
 自分で自分の心が分からなかった。
 今あの雪女のことを信じていたかと思うと、次の瞬間には理性が働いてあれは夢の世界だったのだと思う。
 あれは実際の体験だったに違いないと信じていると次の瞬間にはそんな馬鹿なことが、と思っている。
 否定と肯定とが希望と絶望のように次の瞬間には入れ替わっていた。
 ただ、一つだけはっきりしていたのは、あの美しい女性の存在を信じたいと思う心だった。
 そうだとすると父をあのように殺したに違いないのに、憎しみなどよりは愛を感じるのはなぜなのか。私の命を救ってくれたからか。
 いつもそこへ思いはたどり着いていく。
 私には分からなかった。
 女のあとを追って降りて行った私は、あれ? と思った。
 確かにさっきあの白い服を見たのに、そこはもう突きあたりの谷あいになっていた。
 行き止まりの少し手前にはロープがちゃんと張られている。注意書きの立て札もある。
 ここを越えて行くことは考えられない。スキーのあとは残っていなかった。
 まさかここから落ちたのでは。
 振り向いても女性はいなかった。
 まさか幽霊。
 そう思うと急に恐ろしくなって来た。
 まだ明るいとはいえ、周囲は森に囲まれ人っ子一人いない。物音一つ聞こえない人里離れた陸の孤島のような場所だった。
あたりは平坦で、まだらな樹氷で包み込まれていた。その森の手前に小さな小屋があった。
「あの小屋は」
 一瞬私は背筋が凍りついた。
 あのときの小屋ではないだろうか。
 本当にあったのだ。
 覗いてみてもいいものかどうか分からなかった。
 あれほど探したいと思っていた小屋だったが、中を覗くと何かとても怖いことが起きそうな予感があった。
「やっぱりあったんだ。あの小屋だ」
 ではあの中で体験したことはやはり本当のことだったのだろうか。
 ひょっとするとあの女の子はあの中に入って休んでいるのかもしれない。
 あの崖を落ちるようなことは無いだろうと思う。行けば谷の向こうの景色が見えて来る。それにその手前にはロープが張られている。あの小屋以外に姿を隠すような場所は無い。
 とにかく一度覗いてみよう。
 崩れかかった土台と、それを補修したような腐りかかっている木が、取ってつけたようになっている古びた小屋だった。
「あのときのままではないのだろうか」
 私はスキー板をビンディングから外した。
 どの道滑っては帰れない。歩いて行くほかはないのだ。
 近寄ると継ぎはぎした木の間や、崩れた土塀の隙間から少し中を見ることができた。
 誰もいる感じはしなかった。
 あの白い服なら目立つだろう。それが隙間からはどこにも見えなかった。
 私は壊れてしまいそうな戸をそっと開いた。
 中はとても狭かった。
 ここだ。……この小屋だ。
 背中を一筋さっと氷の塊で撫でられたように感じた。
 ここであの日、本当は何が起きたのだろう。
 私は本当に雪女を見たのだろうか。
 あの父親の異様な死に様は自分が想像したものではないのだろうか。
 この小屋の中だけは異空間が広がっているのでは。
 私はぞっとした。あれほどまた会ってみたいと思っていた雪女が、今ここに出現したらどうしようと畏怖の念を抱いた。
 今、異世界への扉を開けてしまったような気がした。
 私の雪女に対する恋は今この瞬間に戦慄へと変貌を遂げ、会うなら町の中がいい、そこなら怖くは無い、と妙なことを考えた。
「あの……」
 女の声を背後に聞いて、私はびっくりして振り向いた。張り裂けそうな思いだったせいもあって、私は手で小屋の戸を力いっぱい掴んでいた。
 雪を踏みしめる音もスキー板の音も聞こえなかったのだ。それはあまりに突然の声だった。
 そこにゴーグルを外して板を手にした、若く美しい女性が立っていた。
 さっき見た白い服の女のようだった。近くで見ると年の頃は私と同じくらいに見えた。ボブカットの髪がとてもきれいに風にそよいでいた。ミステリアスな黒い瞳が私を見つめた。それはとても優しい光を放っていた。その目を見て私は心底安堵したのだった。
 どこかで見たような気がしたが、こんなに美人とはまったく縁が無かった。どうせテレビで見た女優の誰かと似ているのだろう。
 今までの恐怖感があっさりと吹き飛んだ。
「あれ? どこにいたんですか? あなたを探していたんですよ」
「私を? ああ、追いかけて来てくれたのね。助かったわ」
 女はほっとした顔をした。
「この上の所であなたがこの立ち入り禁止区域へ入って行くのが見えたので、追いかけて来たんですよ。危ないですから」
「そうみたい。わたし間違えちゃった」
「大声で呼び止めたんですが滑っていると聞こえないですよね」
 肩をすくめる女の声は妙に明るかった。素敵な笑顔だった。
 それは今さっき抱いた私の心の中のすべての闇を振り払うに十分だった。
 私は小屋の中へは入らず、入り口の所で両手を合わせ、目を閉じて頭を下げた。
「どうかなさいましたの?」
「いえ、もう10年くらい前なんですが、ここへ吹雪のときに迷い込みましてね。そのとき親父と一緒だったんですが、親父がここで死んでしまって……。当時9歳だったぼくだけが助かったんです」
「そうだったんですか。悲しいことを思い出させてしまいましたね」
「いえ、一度来なければと思っていたので」
「お父様はなぜこのような場所でお亡くなりになってしまったのかしら?」
 私はあのときの話をしようかとふと思った。
 しかしあの雪女との約束を思い出した。

          6

「お前はまだ小さい。そしてとても可愛い。今日ここで見たことは絶対に誰にもいってはいけない。いいね、坊や。そうすればお前だけは助けてやろう」
「もしお前が誰かに今日のことをしゃべったら、私は即座にお前の命をもらう。分かったね」
「分かったよ。ぼく、絶対に誰にもいわないよ」

 その約束だけは今日まで守り続けてきた。
 しゃべったら本当に殺されてしまうのだろうか、と思うことはあった。
 本当のことであったかどうか疑問に思うことはあっても、その約束はこれからも守り続けるつもりだった。もし本当のことだったら、間違いなく自分はあの人知を超えた存在としか思えない女に殺されるだろう。
 あれが事実だとしたら、あの真っ白な女はこの世のものではないからだ。
「いえ、特に何もありませんでした。親父は体調が悪かったんです。それでこの小屋の中で凍え死んでしまったんです」
「そうでしたか。ごめんなさい、あたし余計なこと聞いてしまって」
「いえ、もう昔のことですから。それより早く戻りましょう。ここからだとかなり歩くことになります。今日は天気も悪いので急いで戻った方がいいです」
「そうね」
 優しい声を出すと、彼女は美しい笑顔を見せた。
 私たちは並んで歩き始めた。
「お一人なんですか?」
 と私は訊いてみた。
 これからも私の人生の中では、これほどの美人とこれほど近くで話をする機会は絶対にないという、妙な自信が私にはあった。
「ええ、一人です」
 何となくほっとした。
「寂しいですね」
「そうね」
 彼女はまた私の方を見て笑顔を見せた。わずかに開いた口元から覗くまっ白な歯が、私の胸の中に染み込んだ。
顔もこの雪景色に溶け込むほど色が白く、彼女の何もかもが純白で美しく感じた。頬がほんの少し紅をさしたように赤みを帯びていた。そしてとても優しく感じた。
 この優しさをどこかで感じたことがあるような気がした。
「実はぼくも一人なんです。一人で名古屋から滑りに来ました」
「名古屋、ですか?」
「ええ、車で数時間ほどかかりますけど」
「そうなんですか。お互いに寂しいですね」
「ええ。そうですね。もてないもんですから」
 と私は笑った。
 女もそのとき初めて声を上げて笑った。
 それほど魅力的な笑顔を私はかつて見たことがなかった。純情な男の子の誰もが思うように、その笑顔のまま彼女をガラスケースに入れてずっと飾っておきたい心境だった。
 実際私が女性にもてないというのは本当だった。この19年間、彼女ができたことが一度もないことがそれを証明していた。
 見た目は悪くない。ただきっかけがないのと奥手なだけだ、というのが私の言い分である。実際には私はかなり社交的であり、会話はウェットに飛んでいて皆からは好かれていた。ただ育った環境のせいか、女性を誘えないだけであった。
 それと、やはりあの不思議な女のことが、いつも心の中に存在していたのだ。
「きれいな女の子が一人でスキーなんて珍しいですね」
「ああ、ありがとうといったらいいのかしら」
 女の子は、きれいとか可愛いという言葉には敏感に反応するということくらいは知っていた。
「いえいえ。本当にあの、今まで見た中で一番美人ですから」
 と私は正直に思ったままを答えていた。
「あんまりほめないでね」
 と彼女は天真爛漫な顔を見せた。
 緩やかな斜面でも深い雪を踏みしめて歩いて行くのはかなりしんどい。それに緩やかといっても結構な勾配がある。
 私は少しずつ息が上がり始めていたが、女の方は平気に見えた。
「何かスポーツでもやってるんですか?」
 と私は訊ねてみた。
「やっぱりスキーかしら」
「上手みたいですね」
 といいながら、さっき彼女はどこにいたのだろうと、ふと思った。
「雪山育ちですから」
 と女は前を向いたまま返事をする。
 雪山育ちのほっぺの赤い女の子というイメージではなく、混じりのない肌の美しさが白く輝いていた。洗練された都会的な雰囲気がある女性だったので、東京とか名古屋などから来たのかと思っていたが違っていた。
「雪山っていうと、この近くなんですか?」
「はい。蓬莱村という所です」
 聞いたことはなかった。
「蓬莱村? 常世の国というあの蓬莱ですか?」
「はい、幸が多いという蓬莱です」
 一瞬、彼女の横顔かなぜか悲しく見えた。幸が多いというより幸薄い印象を受けた。
「いい名前の村ですね。この近くなの?」
「そうね。神ながら村……」
 といって女は顔を曇らせた。
 横から見ると、言葉を詰まらせた彼女の顔は、さっきまでとは打って変わって、深い憂いや悲しみに満ちているように見えた。そしてどこかに憎悪の炎が燃え盛ったように私は感じた。
 なぜかは分からないが、彼女の表情がそれまでとはまるで違って冷たくなっていた。しかしそれはほんの一瞬のことで、次には今までと同じ表情に戻っていた。
「神ながら村がどうかしたんですか?」
「あ、いえ、神ながら村の隣にある小さな集落なんです」
 集落というようなそんな小さな村に、このように洗練された若く美しい人がいることに私は驚いた。しかし美人が多い村という地域だってある。
 雪が少し降り始めていた。
 私はかなり息切れがしていた。体力には若さの分だけ自信はあったが、スキー板を担いで深い雪を踏みしめながら坂道を登るのは、かなり疲労困憊する。
 それに上から見るより下から見た方がはるかに坂道の角度がきついことが分かる。あのときもそんなことを思った。
 しかし彼女の方は特別に息が上がっているということはなかった。
「疲れませんか?」
 と私は笑顔で彼女に訊いてみた。
「そうね。山道は慣れてるし、自然に足腰は丈夫になっちゃったかな。お婆ちゃんなんか100歳越しても平気で何キロも歩いていたから」
 屈託のない笑顔だった。
「へえ、元気婆さんなんだね」
 彼女は笑った。
「そうね。田舎の人はみんな足腰丈夫いし元気よね」
「筋骨隆々だったりして?」
「そうならないようにはしてるわ。あなたのスキー板、私が持ってあげましょうか?」
「ああ、まだ大丈夫です。もう少し頑張れそうですから」
 冗談っぽくいうと、彼女は私の心がすべてとろけてしまいそうなほど魅惑に満ちた、可憐な笑顔を見せた。
 休みながら2時間以上歩いてやっと入り口の広いスロープが見えて来た。雪の降りがかなり多くなってきていた。
「あの上にいたときに君の白いスキーウェアが見えてね」
「ああ、そうだったの。良かったわ、見つけてもらえて」
「立ち入り禁止になってるからあわてて追いかけたんですが、かなり早く降りたんですね。さすが雪国育ち」
「そうね」
 私は彼女が話すときのこの「そうね」という物言いが好きになった。
 そしてそれ以上に、一目見て彼女のすべてが私の心の奥深くに焼付けられた。彼女の背景はどうであろうが問題ではなく、女性として私は一瞬のうちに恋していたのだ。
 ぼくは特別きれいな人にはすぐに恋してしまう性質なのかな。あの雪女に恋していたのも、きっとあの人がきれいな女性だったからだ。
 女性に縁がないと惚れやすくなるというのは本当かもしれないと私は思った。
 このまま別れるのはあまりに寂しかった。
 私にとっては、女性と並んでこれほど長く歩いたのは、人生19年間の中で始めてといっていい。
 最後のなだらかなスロープを登りながら、私は彼女に電話番号を聞こうと思っていた。しかし携帯電話はこれほどの山奥ではまだ普及していないだろう。電波はぎりぎり羽衣高原で使えるが、場所によっては届かないばかりか、電池の消耗がまだまだ寒冷地では激しい。
 できればこのまま一緒にコーヒーでも飲みに行くかお汁粉でも食べたいところだった。しかし、もう時間が夕方になりかかっている。最低1か所はリフトに乗って帰らなければならない。
「どこに泊まってるんですか?」
「私はこのまま村へ帰ります」
「ああ」
 残念な気がした。明日一緒に滑りたかった。
 ただ、蓬莱村は今からでも帰ることができるところにあることは分かった。
 ナンパがうまい奴はこんなときどうやって誘うんだろうな、とふと考えた。やっぱり女に慣れている奴は得だな、とも思った。
 ゲレンデの一番上に来ると、私たちは担いでいたスキー板を履いた。
「じゃ、私はこれで。どうもありがとうございました」
 笑った彼女の顔を見て、こんな美人と口をきける機会は自分の人生の中にもう絶対にない、と妙な自信を持った。
「あの」
 と私はポケットから財布を取り出すと、中から名刺を取り出した。パソコンで作った名刺だった。使う機会などなかったが面白半分に作っておいたものだった。
 大学の仲間はみんな結構パソコンで作った名刺を持っていた。仲間内でやり取りするだけの名刺を持っているだけで、なんだか一人前の人間になったような気がしていた。
 名前の前に「城北大学工学部」と書かれていた。あとは住所と電話番号、それと持ち始めたばかりの携帯電話の番号が書かれていた。
「よかったら電話してください。一緒にお汁粉食べましょう」
「そうね」
 そうね、というときの彼女は私を見ていつも微笑んでいた。本当にいい響きを持つ言葉だった。
「名古屋へ来るときは絶対連絡してください。案内しますから」
「はい。そのときはよろしくお願いします」
 悲しいかな社交辞令の典型的なパターンだなと思った。
 横から吹いてきた風が彼女の髪をなびかせた。
 ゲレンデにいる人たちが一様に私たちの方を見ている。
 私はこんなにきれいな女性を連れていることに優越感を感じていた。
 一緒に下まで滑り降りる。彼女はそのまま奥羽衣の方へ帰るのだという。私はその反対側へ行かなければならない。
「じゃあまたね」
 と彼女はいった。
 またね、か。いいぞ。きっとまた会える。
 さっきはなんとなくがっかりしたが、今度は、私は期待に胸を躍らせていた。
「電話待ってます!」
 と私はその後姿に叫んだ。すると彼女は止まって後ろを見た。そしてストックを持ったまま右手を上げて手を振った。私も右手を上げた。
 次第に遠ざかって行く彼女の後ろ姿を、私は寂しい思いで見つめ続けた。
 私は反対側へ少し滑ってもう一度名残惜しくて振り向いた。
 こんなとき、きっとナンパ上手なら追いかけて行くに違いない。私のような人間は追いかけて行って嫌われたらどうしよう、などと余計なことを考えてしまうのだ。そもそも向こうは何にも思っていないかもしれない。もてない男ほどいいことは考えない物らしい。
 しかし振り向いたとき、もう彼女の姿は見えなかった。どこにもいなかった。
「あれ? さっきあのあたりだったからまだ見えるはずなんだがな」
 そう思って目を凝らして探してみたけれど、彼女の姿はやはり見えなかった。まるで忽然と姿を消したみたいに私には思えた。
 気になった私は後を追うように滑って行った。リフトが止まっても、いざとなれば道伝いに行けば帰ることはできる。
 しかし、どこまで滑ってもスキー客の中に彼女の姿は発見できなかった。真っ白なウェアを身につけていたから雪の白さに溶け込んでしまったのかもしれない。
 電話くれればいいんだけどなあ。こっちから聞けばよかったな、電話番号くらい。
 と思ってみても後の祭りである。
 いつも気になる女性がいても電話番号が聞けない。聞いて教えてもらえなかったらもうその瞬間に恋が終わってしまう。嫌われそうな気がしてしまう。
「蓬莱村か」
 彼女のいる村の名前だけは覚えていた。
 しかし、このあと私は、実に怪奇な事実に遭遇することになる。

  
     「ゆきおんな」5へ続く  全11回

#創作大賞2024 #ホラー小説部門 #雪女 #ゆきおんな #ホラー純文学

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