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私のふわふわなイマジナリーフレンド~「ブルー君は大丈夫」を見た~

 小さい頃、住んでいたアパートの玄関口にハム太郎のキックボードがあった。後輪が2つで安定感があり、低年齢の子ども用だったように思う。ハンドルの前に何も入らないくらいの小さいカゴがついていて、ハム太郎のフィギュアが鎮座していた記憶がある。それは「私のもの」だった。少なくとも私の記憶ではそうだった。足を置く台の色がすすけていた気がするので、私の前は3歳上の姉が使っていたのかもしれない。でも、私の記憶の範囲では、当時の姉は自転車の練習をしており、かつ、さらにもう1つ、後輪が1つのちょっと大人びたメタリックのキックボードがあった。だから姉がハム太郎のキックボードを使っていた記憶はない。そう考えると、もしかすると、ハム太郎は私のために買い与えられた可能性もある。両親の財力には、大人になってからおののいてばかりいる。

 とにかくそれは私の物だった。団地に囲まれた公園に出かけるときの私の相棒だった。そして両親の出発の準備ができるまで、と言っても、2分にも満たない時間だろうけど、私はそのキックボードと時々おしゃべりしていた気がするのだ。おまじないともいえるような何かを。だけどそれがどんな設定で何を話していたのかは、今はもう全く思い出せない。

 大雨の休日である今日。電車の運休も気にせず、私は駅前の映画館に行ってきた。幼少期に子どもが時折生み出す架空の存在:イマジナリーフレンドが登場する「ブルー君は大丈夫」を見てきたのだ。大学で教育を学んできたことと、ハム太郎のキックボードとのおぼろげな記憶とが、レインブーツを履いた私を映画館に向かわせた。子どもたちとの遊びの中で誕生したイマジナリーフレンドたちは子どもの成長と共に忘れられていく。そうした忘れられたイマジナリーフレンド(原題である「IF」)たちは居場所を失う。主人公はそうしたIFたちと現代の子どもたちとのマッチングに奮闘する。しかし、IFたちは一人一人の子どもの空想で誕生した、いわばオーダーメイドの存在であり、主人公は苦戦する。いずれ忘れられるイマジナリーフレンドに存在意義はあるのか。悩む主人公に、一緒に奮闘するバディが言う。「いつか忘れられる存在だとしてもイマジナリーフレンドは必要だ。特に、成長して見えなくなったあとで。」イマジナリーフレンドは、大人になった子どもたちに何ができるのか。

 もふもふの紫色をしたイマジナリーフレンド、「ブルー」は主人公たちと大人になったブルーの生みの親(子ども)に会いに行く。ブルーは飛び上がりカフェの窓にべったり張り付いてはしゃぐ。「こんなに立派になって!!髪の毛にワックスなんてつけるようになってる!!」
 終盤のイマジナリーフレンドたちと大人たちが再開するシーンは必見。大人らしく「社会化」していた人たちが童心に戻って喜び、飛びついたり、駆け寄ったりするシーンが言うまでもなく至高。忘れられたイマジナリーフレンドたちが現代の子どもと新しくパートナーシップを築くのではなく、自分を生んだ子どもたちとの結びつきを替えのきかないものとして描いているのがよかった。
 忘れられても、見えなくても、私は君たちのそばにいるのだ、と。心が折れそうなとき、鏡の前で「私は大丈夫」と言い聞かせるとき、イマジナリーフレンドたちもまた、「君は大丈夫」と言ってくれている。そんな心強さがこの映画のエンドだ。

 私が幼少期、ハム太郎のキックボードに唱えたおまじない、あるいはおしゃべりは、多分もう思い出せない。でもきっと私のイマジナリーフレンドは平成にピッタリのきらきらのストーンで彩られた、私の大好きなふわふわの手触りでできていると思う。目が丸くて離れている遠心顔で、シャイで引っ込み思案だった私の代わりに世話焼きでおしゃべりな性格かもしれない。あれ。今の私みたいだ。見えなくなった私のイマジナリーフレンドは、私と一体化したのかもしれない。

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