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エミリーに憧れて のっぺらぼうの無駄話

 音楽に国境はないとよく言われる。しかし、音楽ほど民族色を発揮するものも少ない。とくに歌はそうだ。

 これをスペイン語にせよ、と問題集にある。とりかかる。
なになにほど、なになにするものも、少ない。
不思議な日本語だ。あまり使わない。

スペイン語の模範解答。
Se dice mucho que la música no tiene fronteras.
Pero también la música es uno de los pocos aspectos donde se muesra tanto el ambiente étnico de cada pueblo.Sobre todo,los cantos así lo demuestran.

 日本語を西語にする訓練を続けると会話能力も読解能力も総合的にアップさせることが出来るように思う。

どうせなら例文が愉快な方が訳すのにも気合いが入る。

りんごほど、ひとびとの心を惑わせる果物も、少ない。

アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンは幼少期、頭にリンゴを載せて木の根に座らされた。
父親が放つ矢は無事にリンゴを射貫き、大事な息子の頭を貫通することはなかった。
ここまでをうろ覚えで書いた。ワシントンの話をネットに探す。結果、わたしは大きな勘違いをしていたと知った。6歳の少年ワシントンは頭にリンゴなど載せてはいない、かれは父親が大事にしてた桜の木を斧で傷つけてしまった、「わたしの大事な桜に傷をつけたのは誰だ?」父親にそう問われ、少年ワシントンは正直に「僕がやりました」と答え、父親は息子の正直を讃えた、とまあそんな話だった。息子の頭にリンゴを載せ、それを矢で射貫いたのはウィリアム・テル。わたしはウィリアム・テルとロビンフッドの区別がついていない。 

納豆ほど、外国人の味覚を刺激する食べ物も、少ない。
おもしろくない。
卓球ほど、市井に生きるおじさんおばさんの闘争心をかきたてるスポーツも、少ない。

これは少し当たっていると思う。日本の卓球人口はこれも今調べたら競技人口120万レジャー人口800万とある。さいきん思うのだが、卓球のウェアもテニスのようにもう少し華やかなパステルカラーなどがあればよいと思う。

ひきこもりの息子ほど、母親の神経を苛立たせる存在も、少ない。

日本語として成立しているかどうかよくわからない。ひきこもり、の人生に一種の「憧憬」を抱かせてくれるのは詩人エミリー・ディキンソンくらいだろう。ひきこもりはたいへんデリケートな話題である。
 前にスペイン語のクラスで「イスラエルの少年兵が、パレスチナ人に向けどれだけ銃口を向け、実際に撃っても、パレスチナ人たちは石を投げ抵抗してくる。この戦いは僕らの問題ではない、政府間の問題だ、と流ちょうな英語でいっていた」と話したら「それはとてもデリケートな問題だ」と軽く話を回避された記憶がある。
よくわからないが、あまりに多くの流血を経験してきた、あるいは民族間の争いや融和を繰り返してきた、ヨーロッパの国々の人々が「イスラエル・パレスチナ問題」に対して持つ感覚と、日本という国土内を単一民族であると大雑把なカン違いをして暮らしている日本人が持つ感覚とはずいぶん異なっているのかもしれない。
しかしその日本にひきこもりは多く存在する。いろんな要因があると思うがひきこもるという現象は豊かさの負の遺産であるといってもさほど的外れではないだろう。働かないと食べていけない、とにかく何かしないと明日のご飯がない、という状況は実は人間を陽気にさせる、という傾向もおそらくはたしかにある。豊かさの負の遺産と書いた、今の日本の豊かさは「まぼろし」の豊かさであることをしみじみと理解したい。

下着ほど、女どうしの会話を濃く面白く明け透けにするものも、少ない。

女ともだちと下着の話をする。彼女は酒を呑まないので、仕方なくわたしも呑みたいのを我慢してスペイン料理店で話に花が咲いた。下着のいいものはブラとパンティのセットで平気で2万くらいは超える。わたしはそのような高額下着を持っていない。だが、ショウウィドウを覗き、のっぺらぼうの白いマネキンがスレンダーな身体にまとっているレースの下着にうっとりすることはよくある。女ともだちは実際にそのような下着を所有していて、以前いっしょに温泉につかった際に、更衣室で繊細で妖しいデザインの下着を見せてもらった。「おっぱいはあるの。ウェストも細いでしょ、でもお腹が出てるの。ふくらはぎもちょっと太い」ことが悩みだという女ともだちのグラマラスな肉体には小さな下着のラインが食い込んでいた。

 こうして無駄話を書き、今日も時間を浪費した。さきほど3日ぶりに掃除機をかけた。カーペットの細かい埃を吸いとるのに苦労した。とくに暴れているわけでもないのに、部屋というのはなぜか汚れる。ひとのこころも同様でとくに悪いことも怖れることもないというのに、放置しておくとひとりでに荒むことがある。
 
 こころには手は届かない。
 けれど
 こころにゆるゆるとした諦めのまなざしを向け、こころを落ち着かせることは凡人には可能だ。
 天才はそんなことはしない。
 天才はこころのままに高揚し疲弊しあるいは絶頂を迎える。
 天才が自分のこころにまなざしを向けたときには、かれの才はすでに終わっている、というようなことがあれば、それはそれで浪漫ですてきだ。


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