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3球目攻撃は楽しけりゃそれでいいじゃん、というワケにはいかない

 うむ。書きたいことがなにも浮かばない。しかしこういう時ほど「書く」に執着したくなる。

何を書くのかを無理やり考えてみる。

①はじめて惚れた男との出会いと別れを感動的に書く
②最初に買ったレコートを邦楽洋楽別に詳細にレポートする
③嫁姑問題の実体験を赤裸々に描く
④我が家の家計について思うところを書く
⑤今日一日の出来事をぼそっと書く

⑤にした。

 パソコンに向かう前に、キンキンに冷えたビールをグラスに注ぎ、柄を握手グラスを口に運び、飲む。グラスはCMの人のように大げさに高い位置でキープしたい。

 ビールをこうして飲むクセをつけると、他の飲み物でも同じポジションにグラスあるいはコップ、ペットボトルを持ってきたくなる。卓球の練習の際、高らかにペットボトルを持ち上げ喉を鳴らしてコーラを飲んでいたら、周囲から「ビール飲んでるみたい」との感想を貰った。

 午前中、3球目攻撃。の練習に参加した。3球目攻撃とはなにか、卓球の経験のない方はご存じないと思う、私自身、婆になってから卓球を習いはじめ、そろそろ2年だが、3球目攻撃を経験したのはこの夏かこの夏の少し前に過ぎない。
 1球目:こちらからサーブを出す。短いサーブあるいはロングサーブを出す。下回転だったり上回転だったり横回転だったりナックルだったり、サーブにはいろいろある。基本、相手に、こちらが攻撃しやすいレシーブを返してもらうためのサーブを考える。
 2球目:相手がレシーブしてくれる。こちらからのサーブの内容により相手のレシーブが変わる。
 3球目:相手のレシーブをドライブ、スマッシュ等で打ち返す。打てる球は強打で得点奪取に出る。つまり攻撃する。

 すごいなぁ。
 3球目で「攻撃」しちゃうんだ。
 私もついこの間まで、卓球で相手を「攻撃」などしたことがなかった。「攻撃」という言葉のインパクトにたじたじしていた。もっともこの3球目攻撃は簡単ではない。まず相手から巧みなレシーブが返ってきた場合、攻撃どころか、単なるつなぎの返球さえ難しい。また勇んで力んで攻撃するとネットミスあるいはオーバーミスのどちらかに陥る。つまり、スマッシュドライブフォアハンドバックハンドといった基礎が出来ていないと華麗な3球目攻撃はいつまでたっても婆の憧れでしかない。

 話は突然変わるが「真珠湾攻撃」という歴史的事実がある。あれは真珠湾という他国の領土を日本軍が「攻撃」したのである。日本は「攻撃」を知っている。「攻撃」の結果、散々な目にあって、日本は二度と「攻撃」をしない、と現憲法には定めがあるはずだが、某仮想敵国に「攻撃」されることを想定すると、日本も二度と「攻撃」をしない、などとは言っていられなくなる、という状況に今現在あるのかないのか、婆にはようわかりません。

 卓球の後、某ラーメン店に寄り1100円も払って白ラーメンというのを食べた。1100円も払ったのでさぞかしウマいことであろうと期待したのだが、味はむかし懐かしい「スガキヤ」とさほど変わらず、「スガキヤ」を再度経験出来たと考えれば1100円の意味はあるが、もし「スガキヤ」を知らないとしたら、単なる薄味ラーメンに限りなく近く途端に1100円が惜しくなるぞ、などと考えつつそれでも最後の一滴までラーメンスープを飲み干した。結局、わりと美味しかったのかもしれない。

 ラーメンの後、いつもの英会話スクールに行く。
 語学は「遊び」だ。
 「おしゃべり」のルールを覚え、「おしゃべり」のツールを蓄え、ジェットコースターに乗るみたいに、知らない「カルチャー」を実体験し「わあすごい」とはしゃぐ。
 これが語学の基本だと思う。
 ムツカシイことはそれからでいい。
 なんのために外国語を習うか。
 ビジネスのため、資格取得のため、受験勉強のため、あまりにも「目標」に縛られると語学がもつ「新鮮な遊び」という側面を見失う。
 楽しけりゃそれでいいじゃん。
 語学は、少なくとも、それで喰っていく、という高レベルを目指すのでなければ、
 楽しけりゃそれでいいじゃん、が割と通用する分野だと思う。

 楽しけりゃそれでいじゃん。
 この考えはこのように時に人生を明るくしてくれる。が、もちろん人生にとっては弊害でしかない、場合も多々ある。
 楽しけりゃそれでいいじゃん。と男遊びあるいは女遊び各種賭け事等に狂うと金銭のみならず信用あるいは健康を失う。なので「楽しけりゃそれでいいじゃん」は極めて限定的に用いた方が身のためだと婆は経験上切にそう考えます。
 

 夜。
 旦那が素っ頓狂な声をあげた。
 「あ」
 かれはどのような場合でも「あ」と叫ぶ。
 何か大切な約束を忘れたときも「あ」
 チャーハンに嫌いなしいたけが入っていたときも「あ」
 スマホを電車に置き忘れてきたことに気づいた時も「あ」

 今夜の「あ」は
 彼が明日のゴルフのために安価で買い求め冷蔵庫に保管しておいた、午後の紅茶おいしい無糖を、わたしが彼にないしょで飲んでしまったことを知りそのショックのあまり発声した「あ」であった。

 ときどき。
 私は、冷蔵庫にあるものは「ぜんぶ私の」との王様思考に取りつかれる。今後はそのようなことのないよう十分に気をつけようと、今はお猿のように素直に反省している。


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