見出し画像

「いじめとは」「人生とは」どこに軸を置くかで見える世界が変わると思ってる。

先日ツイッターで、マレーシアの小学校でのいじめ対処についてのつぶやきを見ました。そこには、「学級委員と先生で話し合う」「いじめている側にその認識がない場合は、あえて同じ状況をクラスで作ってどう感じたかを聞く」などいくつかの具体的な対処法が。

そんな中で私が良いなぁと思ったのは、学校側が【いじめは起こる前提で考える】ということ。多種多様な人種が集まるマレーシアでは、肌の色も文化も考え方も様々。その上で、多感な時期を過ごす学校では、悪気の有無に関わらず ”嫌なことをされた(言われた)” と感じる子どもがいるかもしれない、と頭に置いておく。それだけで、先生たち保護者たち、そして当事者である子どもたちの”見えている世界”が変わるとありました。

日本では逆ですよね。いじめが無いのが普通の状態だと思っている人が多い。子どもも大人も。もちろん、”いじめは悪い” ”友達が傷つくことをしてはいけない” と教えることが悪いとは思いません。でも、その状態が当たり前だと信じることは、ちょっと違うなと思うんです。

私も昔、集団無視を半年以上経験して、”自分が悪いんだ” ”状況はずっと変わらないんだ” と思っていた時期があります。そんないじめを受けている自分が恥ずかしいような、みじめなような気持ちが強く、親にも誰にも言えませんでした。

「○○とは何か?」を考えるとき。

いじめとは、人生とは、社会人とは、幸せとは。こういうことを考え出したら、自分の中に「普通は○○でしょ」というふんわりした固定概念みたいなものがあることに気付きます。

いじめは、絶対だめ。
人生は、悩み多き素晴らしいもの。
社会人は、3年は耐えなきゃだめ。
幸せは、一生の伴侶と笑って過ごすこと。

何それ??って感じしません?

あなたの価値観でしょう?と。ちなみに私は、いじめは悪いことだけど被害者に原因があることもたまにはあるし、人生なんてよくわかんないし、社会人なんて学生以外全員だし、幸せだって常に定義が変わる。

だから、普通は、とか常識的には、とかそういう枕詞?が嫌い。勢いで口にしたら「しまった!」と思っちゃう。

あなただけじゃないし、皆同じでもない。

もう脱線してきてしまいましたね。でも、これは心の片隅に置いておきたい言葉。私が感じることは特別なことじゃないし、かと言ってその他全員も同じ意見ではない。ということ。

ほとんどの事には正解がないし、だからこそ頭を柔らかくして、気持ちを大きくもって、目の前の人の意見に「なるほどねぇ」という相槌を打てるようにしておきたいものです。

では。


この記事が参加している募集

#とは

57,759件

10円のサポートでも、もらえた事実が素直に嬉しいです。私も同じ金額を誰かにサポートして繋ぎます!