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私は旅に出た事でほんの少しだけ、自由になったのかもしれない。そんな事をふと、思った。

チベット・インド旅行記
#43,リシュケシュ①

【前回までのあらすじ】ロシア人師匠のサーシャと禅の修行を始めた、まえだゆうき。一向はヨガの聖地リシュケシュへとやってきた。

【リシュケシュ】インド東北部、ヒマラヤ山脈の近くに位置するヨガの聖地。インド国内はもちろん、海外からも巡礼や修行の為に大勢の人が訪れる。

世界的ロックバンドのビートルズも修行と作曲の為にリシュケシュに滞在し、髪の毛ぼうぼう髭ぼうぼうのヒッピースタイルに変貌して世間をあっと驚かせた事は有名である。


朝8時。
マナリからの乗合バスを降り、屋台で一杯2ルピー(5円)のチャイを注文する。
手鍋の中で厚く膜を張った濃くて甘ったるいチャイが、ぐい飲みサイズの素焼きのおちょこに注がれて渡される。

ぐいっと一息で飲み干し、素焼きのおちょこをパリンと地面に叩きつけて割る。
 
こうやって器を割ってあげる事で、結果的に器を作る人たちの仕事を増やしてあげているのだ、と通りすがりの旅人から教わった。

 
くーっ。
それにしても甘い。
サーシャと二人、一息ついてから宿を探しに街を歩いた。

 
リシュケシュの街は山と谷に挟まれ細長く伸びた街だ。
街の中央にはガンジス河が流れ、その両河岸に沢山の寺院が立ち並んでいる。

2ヶ月前に過ごしていたバラナシの茶色く濁ったガンジス河と違い、リシュケシュのガンジス河はまだまだ川幅も狭く谷川の清流といった佇まいだ。

南北に伸びた街のちょうど真ん中あたりに、ラクシュマンジューラという大きな吊り橋がかかっていて、それが街の両側を結ぶ唯一の橋だという。


長い長い吊り橋の真ん中に立つと、遠くにはヒマラヤの山々。
眼下にはエメラルド色をしたガンジス河が、はるか20mほど下を流れている。

思わずヤッホーと叫びたくなるような絶景だ。

山と谷と河に囲まれた秘境。
確かに、ビートルズがここに滞在したくなった気持ちも分かる気がする。

リシュケシュでは、毎朝アシュラム(寺院)にヨガを習いに出かけた。

日本では健康やリラックスの為のお手軽なエクササイズとして人気のヨガだが、リシュケシュのアシュラムで教わるヨガは目的が修行というだけあって本気度が違う。

 
例えばポーズひとつをとっても、このポーズでは体のどこの部分に意識を集中させるとか、チャクラをどこに溜めるとか、かなり突っ込んだ講義を受ける。

プラナヤーマというヨガの呼吸法も重点的に行い、ヨガの後の瞑想もしっかり行う。

 
「ヨガはピラミッドのようなものだ」。
サーシャが言った。

ヨギー(ヨガの実践者)として相応しい生活を送る事がピラミッドの第一段。
呼吸法を身に付け、正しく呼吸を行う事が第二段。
ヨガ(アーサナ)で体を整える事が第三段。
そして、最終的に瞑想を通してモクシャ(悟りの境地)に辿り着く事が第四段。

そういう意味ではヨガも、座禅も通じる所がある。
ユーキの場合は、体を整えた後で座禅を組むというだけの話だ。


さもありなんといった顔で講釈をするサーシャ。


なるほど、深い所で全ては繋がっている。
それはなんとなく分かる気がする。

「でもさ、サーシャ。
悟り悟りって、結局、悟りって一体何なのさ」。

 
少なくとも私が暮らしていた日本では、悟りを求めて修行する人なんてそうそう見かけない。
日本寺の住職やサーシャ、ヴィパッサナーのマモさん、僧侶や坊さんやサドゥー。皆がそこまでして追い求める悟りとは一体何なのだろうか。

 
ふむ。
サーシャは少し考えてから口を開いた。
 


「例えば『木』。

俺たちは木の事を、木という言葉を使って表現しているが、本当は『木』なんてものは存在しない。という事は分かるか?」

 
サーシャの目がらんらんと輝き出した。
講義の時間が始まりそうだ。


「木と一括りに言っても、ブナに白樺にスギに松、色々な種類の木がある。
更にはスギの木一つとっても、高いスギ、低いスギ、よく茂ったスギなど、どれ一つとして同じスギは無い。
ただ、俺たちが勝手に『木』と呼んでいるだけだ。

更に言えば、木とは、葉っぱや枝や根っこ、葉脈などの集合体だとも言えるし。太陽からの光を光合成して、二酸化炭素を酸素に変換するプロセスだとも表現出来る。
もちろん、そこに住む微生物や虫、種を運ぶ鳥、根付くための土がなければ木は存在する事も出来ない。

つまりはだ…。

俺たちが普段、木と呼んでいるものは、木、単体では存在しない。
色々な物事が絡み合って、現在進行形で起こっている現象の一つに過ぎない。という事だ。

これを禅の言葉で『縁(えん)』と呼んだりもする」。

サーシャがチラチラとこちらを見ながら、私がちゃんと理解しているかどうか様子を見ている。
 
大丈夫、まだ付いていっているよ、サーシャ。

 
一方、私は遠くの山々に目をやる。

うっそうと緑色に茂った山が連なる。
その一つ一つに何十万、いや、何百万という木が生えていて、そのどれ一つとして同じものは無い、という事だろうか?

 
それは、夜の電車の車窓から街の夜景を見渡した時、見知らぬ人々の暮らしを想像し、不思議に思う感覚に少し似ている気がする…。
 


「おほん」。
サーシャが言葉を繋いだ。


「俺たち人間も一緒だ。
日本人とかロシア人とか関係なく、誰一人として同じ人間は居ない。
人間とは、細胞や骨や血やDNAの集合体だとも言える。
人間は飯を食い、排泄をして、やがて死が訪れるまで他者との関係性の中で生きていくプロセスに過ぎないとも言える…。

そして、そういった事を、修行を通して『体験として理解した時』、『自分』というものは単なる現象に過ぎない。という事が腑に落ちる。

『自分という確固としたものは存在しない』という事が実感として分かると、それ以降に歩む人生が、それまでとはまた違った意味のものになる。

少し乱暴な言い方をすれば、それは『悟る』という事に近い感覚だと思う。分かるか?ユーキ」。 

 

う~ん…。
サーシャごめん…。

 
途中からよく分からない…。

相変わらずサーシャの言う事は、いちいち抽象的で取り留めがない。
でも…。

 
サーシャの話を聞いて一つだけ思う事がある。

 

それは、少なくとも私は旅に出るまでは。
こういった景色を見たり、サーシャのような人間に会ったり、こういった抽象的な話を聞いたりする事は無かったであろう、という事。

 

ガンジス河の河岸の砂利の上で、サドゥー達が寝っ転がって水パイプをふかす光景。

屋台の手鍋の中で、くたくたになるまで煮詰まった甘ったるいチャイ。

 
キィキィと音を立てて漕ぐリキシャ漕ぎのおっちゃん。
ヒマラヤの雪解け水が河になり、街をいくつも越えていくその風景。


どれもこれも、日本にいる間は想像すらしなかった景色だ。

 

もしもサーシャの言うように、自分というものが単なる現象に過ぎないとして。
私はなぜだか分からない内に、旅という流れに流されてここまでやって来た。

 
きっとこれからも流されていくのだろう。

 
だとしたら。
私に出来る事は、何かを気に病む事、必要以上に思い悩む事ではなく。
ましては悟りを求める事でもなく。

 
ただ目の前に広がる旅の景色を味わい尽くす事だけ。
ただそれだけなのでは無いだろうか。


それは、サーシャの言う、悟りには程遠い境地なのかもしれないけれど。


もしかしたら。
私は旅に出た事でほんの少しだけ、自由になったのかもしれない。


そんな事をふと、思った。

→リシュケシュ編②に続く



【チベット・インド旅行記】#44,リシュケシュ編②はこちら!


【チベット・インド旅行記】#42,マナリ編はこちら!


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