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保育園のお仕事と、ルームシェア生活の終わり

【日々はあっちゅーま】
#8,保育園



秋が深まる心地よい午後の日和。


いわし雲が、海岸の砂浜のようにどこまでも続くその下で、約3年間に渡って続いた、男3人ルームシェア生活は、静かに終わりを迎えようとしていた。


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中学校時代からの親友、ゲンちゃん、ナベちゃん、私、の3人で心おきなくバンド活動をしよう!と始めた同居生活。



半地下の一軒家を千葉の郊外に見つけ出し、移り住んだ。



ホームセンターを回り、沢山の資材を買い込み、突貫工事。


コンパネを壁に張り、防音材を敷き詰め、遮音シートを貼り、ドラムセットやアンプも置いた。


窮屈ではあったが、立派な音楽スタジオの完成に、胸高鳴っていた当初。


24時間、好きな時に好きなだけ音楽ができるぞ!


と意気込んではみたものの。


生活に追われ、保育園の仕事に追われるうちに、次第に地下室へと降りなくなっていった。


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その頃、私は千葉に引っ越してきたばかりで新しく仕事を探していて。



前職の居酒屋勤務の経験から、給食の調理員でもやろうかな。
と近くの保育園を訪ねてみたところ、その場で保育補助の職員として採用が決まってしまい。



翌週から、生まれてはじめての、保育園の先生として働き出す事となっていた。


何せ右も左も分からない保育業、せめて本気で遊ぼうと、外遊びでは、初日から全力で駆け回り、そのまま水溜りに滑って転び、全身泥まみれとなって家路に着いた。


 


また、折り紙を折ってくれと、子どもたちに言われれば、心の赴くまま、インスピレーションの沸くままに、ウルトラマンの家族から親戚から、婿養子から生き別れの妹に至るまで、ひたすらに折り続け。



ねんどを作ろうとなれば、マチュピチュから、サグラダ・ファミリアから、アンパンマンパン工場までひたすらにねんどをねり続け。



絵を描いてくれと言われれば、地球史47億年の歴史を、カンブリア大爆発から、白亜紀から明治維新まで、絵巻物の如く描き連ねたり。



1ヶ月あまりの研修期間を終えて、家路に帰り着いた時、あまりの仕事の楽しさに、感動で一人打ち震えたのを覚えている。


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それからというもの、

朝から晩まで保育園で働き、家に帰っては同居人のご飯の支度をし、そのまま夜中まで次の日の遊びを考え。

(自作のダンスの振り付けとか、工作のアイデアとか、室内レクリエーションの企画や、アニソンをギターで耳コピしたり、やる事は尽きない)



寝たら寝たで、夢にまで子どもたちが出てくるぐらい、その当時は保育の魅力ににどっぷり浸かっていた。


 
毎日、ギターを背中に背負い、準備した遊び道具を山盛り抱えて、元気いっぱいチャリを漕ぎ。

保育園のドアを開けると、子どもたちは喜びの歓声でお出迎え。




年長児からは「いいなぁ、ゆうき先生は毎日楽しそうで」と羨ましがられ。


5歳児よりもお気楽な男って一体…。


と一瞬、我に返ったりもした。



また、あまりにもフリーダムで、フェス感の強い保育に、周りの先生からはしょっちゅう苦情が入り。



「ゆうき先生、子どもたちより楽しんでどうするんですか!」とか、


「後片付けの事もちゃんと考えてやってくださいね!」とかお小言を頂き。


3歳児からは「ゆうき先生って、大人なのに、なんでいつも怒られているの?」と真剣に同情されたりもした。




そんなハメハメハ大王みたいにお気楽な私だったが、保育園2年目を迎える頃に、保育補助から担任に昇格させてもらい、クラスを受け持つようになると、ちょっとは責任感というものも芽生えてきた。


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私が受け持つ事になったクラスに、Sくんという年中の男の子がいた。



あんまりこういう表現は好きじゃないが、「ちょっと気になる子」というやつで。

お友だちをすぐに叩いたり、物を投げたり、大声を出したり、周りの先生からも疎んじられている様子だった。



例えば、登園と同時にクラスの友だちの頭を後ろから叩く。

手を洗っていると、隣の子を突き飛ばす。

棚にしまってある教具を一つ残らず床に落とす。

金魚の水槽の中に上履きを入れる。

本を破いた上に紙を食べようとする。



などはまだまだ序の口で、まさに一瞬たりとも目が離せない。



ちょっとでもSくんに背を向けたが最後、誰かしらの泣き声がすぐに聞こえてくる。といった具合であった。


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前の担任の女性の先生は、家に帰っても、寝ていても、何をしていてもSくんが頭から離れなくなり、軽いノイローゼになってしまい。



逆に、私みたいな脳天気な人間だったら、Sくん相手でも大丈夫かもしれない。
という、淡い期待があっての担任だったのかもしれない。



とはいえ、いくら脳天気な私でも閉口するくらいのバイオレンス。


小人数制の縦割りクラスで、年少から年長まで12人の子がいたが、私はSくんに必然的につきっきりになるので、どうしても手が行き届かない。



フリーの先生に、要所要所で手を貸してもらって、朝の集会をしたり、一緒にお散歩に出かけたりした。
(もちろん私はSくんと手を繋ぐ)




それでも道ゆく通行人に暴言を吐いたり。
公園の砂場道具を道路に投げたり。
あまつさえ砂を食べたり…。



毎日毎日、こちらの想像の、はるか斜め上をゆくアクシデントを起こしてくれるSくんに、内心尊敬の念すら覚えるほどであった。



とはいえ、あまり事態をそのままにしておく訳にもいかない。

(クラスメイトの子が、いつ家庭でSくんの事を話して、大問題にならないとも限らない。)




普段、勉強のべの字も縁がない私だったが、この時ばかりはと、ありとあらゆる本を読み。参考資料を買い込み。ネットを使い。子どもの注意行動について調べた。



休みの日も返上して、県の発達支援の研修会に参加したり、実際に施設を訪ねて協力を仰いだり。


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試みのほんの一例を挙げると。



「友だちに優しくしよう」という言葉。



何の気なしに使いがちだが、これでは

「何が優しさなのか?」

「どうするのが優しい行為なのか」

が、Sくんには具体的に伝わらない。



そもそも、

「言葉で伝える事自体が抽象的で良くない」


そういう時には、具体的に友だちに優しくしている場面を(頭を撫でる、物を貸す、褒める、手を繋ぐ)絵に書いてボードにしたり。

紙芝居などにして用意する。



それを1日に何度も、Sくんと一緒に読み返して、その場でお友だちの頭を撫でたり、握手したり、優しい行為を練習する。


それが成功したら、めちゃめちゃ褒める。



今までのSくんの人生で染み付いた。



「悪さをしたらみんなに注目してもらえる」


という行動原則を、


「良いことをしたらみんなに褒められる」


という方へ、ちょっとずつ、ちょっとずつ、天秤の反対側に重石を乗せていくように、シフトチェンジしていくのである。


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クラスのみんなにも快く協力してもらった。
(本当ありがとう!)





Sくんが、友だちを打つのを我慢すると、みんなで褒める。

クレヨンを貸したら褒める。

苦手な食べ物を食べたら拍手喝采。

(最初白米しか食べなかった)




頭を撫でたら、クラスはもうスタンディングオベーションである。



もちろん衝動的に物を投げたくなる時、友だちを押したくなる時、そんな時には。



宇宙一速いギニュー特戦隊のバータ、よりも速い孫悟空ばりに、私がSくんの事を瞬時にホールドする。

未遂に終わらせる。



Sくんの大好きな日本地図、世界地図、列車の図鑑、車の図鑑、算数の本、ありとあらゆるものを図書館で借りてきて、本屋で買ってきて、一緒に勉強したり。
(Sくんは記憶力は良くてなんでもすぐに覚えた)



そうして覚えた知識を友だちに披露して、さらに良いフィードバックをもらったり。



半年が過ぎ、1年が過ぎる頃には、Sくんは見違えるくらいに落ち着いて日常生活を送れるようになった。


はじめ、絶対にSくんと手を繋がなかった子も、Sくんが来ると咄嗟に身構えていた子も、年度の終わりには、自然体で遊び、関われるようになっていた。


あいにく、Sくんは年長に上がるタイミングでお引っ越しが決まってしまい。
卒園まで見届ける事ができなかったが、自分にとっても、クラスメイトにとっても、本当に良い影響を与えてくれた存在だったと、今でも思っている。


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Sくんの一件を通して、さらに保育の仕事が楽しくなってきた私は、社長に頼み込み。




保育士の資格取得を目指す事を条件に、正式な社員としてもらった。

以後、足掛け8年に渡って、保育園で務める事となる。



と、そんな毎日を言い訳にしてはいけないが、保育に打ち込めば打ちこむほどに、必然的に音楽活動から遠ざかっていったあの頃。


家に帰ってご飯の支度をしている時、部屋で保育園のダンスの練習をしている時、同居人とリビングでおしゃべりしてる時。



使っていない地下室の音楽スタジオを思い、時折、胸がチクリと痛んだ。


そして、胸の奥のチクリを追い払うかのように、私は一層仕事に打ち込んだ。
 



いつしか3人でバンドを組む約束も立ち消え。
保育園の先生も板につき。
3度目の季節が巡る頃。




誰が言い出すわけでもなく、楽しかった共同生活は幕を閉じた。

 

今振り返ってみれば、3人で暮らした生活も、保育園の仕事も全部、絵本を描くために必要な、大切なプロセスだったと思う事ができるけれども。



 
そんな事を知る由もない、青かったあの頃の自分は。




薄れていく情熱と、やりがいのある仕事の間で、どこか納まりの悪さを感じながらも。




ギターを背負い、山のように遊び道具を抱え、




毎日必死でチャリを漕いでいた。



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おしまい


【絵本作家さんと対談活動を行っています】



 
 

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